7 合同授業
突然ジャージを脱げといったかと思うと、バルドはいきなりウルスラの腕に触ってきた。
運動場から続く森の中で、周囲に他の人間はいない。バルドリックの表情は真剣そのものだが、腕を揉みしだかれながら、ジャージを脱いでTシャツになったウルスラとしては微妙な気分になる。
なんでこんなことになったのだろうと、遠い目をしながらウルスラは記憶をたどった。
バルドリックからのパートナー申し込みを受けた後、チャイムが鳴って教師が運動場に入ってきた。実技担当の教師が来てパートナー編成を発表し、若干の調整後、上級、中級、下級の三クラスに分けられる。ウルスラはバルドリックの評価に引きずられる形で上級クラスに配置された。
そして教師の軽い説明の後、ウルスラはバルドリックにここまで連れて来られた。
タプファー学園の運動場は、トラック競技ができるグラウンドの他に、魔の森で郊外演習の疑似体験ができるように森が作られている。今ウルスラがいるのは、その森の一部だ。
上級クラスの他のメンバーも思い思いの場所に散っている。中級、下級クラスは教師の指導もあるようだが、上級クラスは自主練習ということらしい。
「これってどういうことですか?」
「筋肉の付き具合をチェックしているだけだ。思った以上に筋肉がないな」
ウルスラの腕を曲げたり伸ばしたりして、二の腕に触れている。ウルスラもできるだけ力を入れるようにしているが、力こぶができることはない。
ほんのわずかの間だが、バルドリックと接していてわかったのは、目を合わせさえしなえれば恐怖はそれほどこみ上げないということだ。成り行き上パートナーになってしまったが、なんとかやり過ごすことができそうだ。
腕から手を離したバルドリックは、ウルスラの腹あたりを見ている。
「え。触らせませんよ」
腹を守るように、ウルスラは体をひねる。たぶん腹筋の付き具合を見たいのだろう。触るまでもなく、フニフニとしている。
「いや、さすがにそこまで非常識じゃ……」
ぼそりとこぼした後、バルドリックは顎に手を当て、考えた。
「腕立て伏せと腹筋はできるか?」
「いいえ、まったく」
速攻で答えると、バルドリックが試しにやってみろと言った。
ウルスラは腕立て伏せの形をとるが、体を支えるだけで精いっぱいで伏せることもできない。次第に腕がプルプルと震えてきた。耐えられなくなってそのまま倒れる。
「三十秒も経ってないぞ?」
「嘘。体感的には五分くらい耐えてました」
「次、腹筋」
言われてあおむけで寝る。膝を立てて頭に手を当てるが、頭は一向に持ち上がらない。ウルスラの顔がただ赤くなっていくだけだ。
「真面目にやってるか?」
「やってますって!」
「いままでどうやって生きてきたんだ?」
「普通に生きてきましたよ」
ウルスラは手をついて立ち上がる。筋肉はないし、瞬発力もないが、体育以外の授業で不便を感じたこともない。
はあ、とため息をついてバルドリックは片手で顔を覆った。
「予想外すぎる。もう少しまともだと思っていた。まずは基礎体力作りからか。ある意味、自主練習で正解だな。他の連中に見られたら、恥だぞ?」
「殿下がですか?」
微妙に目を合わせないように視線をずらしながら聞く。顎から首のラインがきれいだな、そんなことをぼんやりと思う。
「いや、君が。第一回目の郊外演習までおよそ一か月か。それまでもう少しまともになってくれ。トレーニングメニューは俺が考える」
バルドリックは真剣な顔で言った。
午前の合同授業が終わり、ウルスラはヘロヘロになりながら教室に戻った。
見事バルドリックのパートナーの座をゲットできたウルスラに、クラスメイト達は話を聞きたくてうずうずしていたが、ぼろっとした表情で帰ってきた彼女を見て、言葉を失う。
「さすが学年主席の殿下。自主練習も厳しいのね?」
無事イムルとパートナーになれたハンナが、疲れ切ったウルスラを労わる。餌付けをするようにスティック状のチョコ菓子を近づけてきたので、ウルスラはそれをぱくりと食べた。おいしい。
「ほとんど筋トレしかしてない。すでに筋肉痛」
まずは体幹を鍛えろということで、いろいろ教えてくれた。ちょっとした動きが、ウルスラにはきつかった。クールダウンの柔軟だけは褒められたが、いまいち嬉しくはなかった。
これから毎日、合同授業の時間はバルドリックのしごきがあるかと思うとげんなりする。魔王はどっちだと、思わず叫びたくなったことが何度あったか。
「午後からは授業がなくてよかった」
もう昼食時間だが、しっかり食べる気にもなれない。ウルスラはジャージから着替えることもせずに机の上に伸びた。
午後からは入学式だ。役員ではないウルスラにはもう関係ない。
落ち着いたら昼食にしようと、目を閉じる。廊下の喧騒が耳に入った。いつもより、ざわめきが大きい。かと思うとガラッと扉が勢いよく開いた。
「ウルスラ・ラウラ!」
そんなに声を張り上げなくても聞こえる、というほど大きな声が響いた。よく鍛えられた声だ。そういえば、明日は発声練習もすると言われたなと思いながらも、疲れ切ったウルスラは顔を上げられない。
教室内にはピンと張りつめた空気が漂っている。声の調子からして、貴族クラスの誰かがウルスラに物申しに来たのだろうが、本当に疲れ切っていて動けないのだ。
「聞こえておりまして? ウルスラ・ラウラ」
ウルスラは机に付したまま、手を挙げた。何だったら白旗を振ってもいい。
「顔を上げなさい。身分をわきまえないなど、恥を上塗りする気ですか?」
仕方ないので、ウルスラは顔上げる。悲鳴を上げる筋肉を叱咤して立ち上がった。座ったままだと、どうせまた何か言われる。
「ごきげんよう、アダリーシア・アイン・シュティルベルト様」
ジャージのままのウルスラは略式で礼をする。深い礼はできない。筋肉がそれを拒んでいる。
アダリーシアはジャージから制服に着替えていた。ブレザーは白、スカートは限りなく黒に近い紺、つまり一般クラスの制服の色を反転させている。ブラウス、靴下、革靴だけが同じ色だ。ジャージとは違って、かなり似合っている。
「まあ、礼儀もなっていないこと」
青い目が、不快なものを見るように細められた。不快ならこのような場所に来なければいいのだ。そう思ってももちろん、それを言いはしない。
アダリーシアは値踏みするようにウルスラの頭のてっぺんあら足先まで見た。
「なんでこのような子が……」
一昔前に流行ったような、羽飾りがついた時代遅れの扇子を開いて口元に当てながら、アダリーシアは嘆く。取り巻きの生徒たちも口々に、ウルスラを見降ろす言葉を吐き出した。とてもお上品な言葉で。
(うわあ、貴族って怖い)
というのがウルスラの感想だ。
「ウルスラ・ラウラ。あなたに警告です。殿下がパートナーにあなたを選んだのは、あくまで学園のことを思ってのことですわ。攻撃魔法を使えないあなたが校外実習に行き、それによって怪我人が増えるリスクを抑えるため、殿下は自ら犠牲になったのです。決してあなたを優秀だと思ったからでも、興味を持ったからでもありませんわ。肝に銘じておきなさい」
勢いよくぱちんと扇子を閉じる。それからくるりと踵を返して教室から去っていった。
アダリーシアが去った後、クラスメイト達は口々になんだあれ、とこぼした。
「婚約者でもないのに、わざわざ忠告に来るなんて必死すぎ」
「ああやって仕切ろうとするから煙たがれるんじゃない?」
「それをだれも教えてあげないなんて、人望ないわー」
「ウルスラも気にしないでいいよ。貴族クラスの人たちって、うちらのこと見下してるだけだから。実力なんて、家の力と比例しないのにね」
クララなんかは、去っていったアダリーシアに向けてべーと舌を出していた。
「ん。ありがと。まあ、クラスも離れてるし合同授業以外で会わないから気にならないよ」
足手まといなのは自分が一番わかっているし、できることならウルスラもバルドリックにはかかわりあいたくない。が、なるようにしかならないのだ。ウルスラは大げさにため息をついて、再び机の上に伸びた。