5 妖虎
夜風が柔らかくウルスラの頬を撫でる。
遠くから、警察隊のサイレンが聞こえた。その音でウルスラは我に返る。優秀な警察隊のことだ。ここで治癒魔法が使われたことに気づいて、駆けつけるに違いない。警察犬の中には、魔法の痕跡を追うのが得意なものもいる。魔法の痕跡を消せる技術は、今のウルスラにはない。
ナハトもいなくなったことだし、ウルスラは寮に帰ることにした。問題なのは、寮を抜け出したことを寮母にどう説明するかだ。部屋を出るときはベランダから出ればよかったが、帰りもベランダというわけにはいかない。風の魔法が使えたのなら、飛び上がることもできただろうが。
警察隊に見つからないように、慎重に森を歩いていく。
ふと、ウルスラの耳に低く唸る声の獣の声が届いた。警察犬がとうとう治癒魔法を使った場所を突き止めたのかと思ったが、違う。むき出しの牙の間からよだれを滴らせながら現れたのは、妖虎だった。大きさは普通の虎と同じだが、鋭い爪は二倍ほどもある。
ウルスラは思わず後ずさり、ドンと背中から木にぶつかった。
妖虎からは血の匂いがした。妖虎のものではない。先ほどまでウルスラが嗅いでいたものと同じものだった。ナハトを襲い致命傷を食らわせたのはこの妖虎だったのか。
てっきり警察隊がナハトを攻撃し、そこから何とか逃げ出したのだと思っていたが違ったようだ。警察隊が妖虎を使役しているという話も聞かない。
警察隊のサイレンはどんどん近づいてきているが、妖虎がウルスラにとびかかるのと警察隊の到着とでは、明らかに妖虎の方が早い。妖虎の足が地面を離れるのを見届けた瞬間、ウルスラは目を閉じていた。
ざざっと葉擦れの音が聞こえたかと思うと、鈍い金属音が響いた。間を置かずしてどすんと重いものが落ちる音が耳に届く。同時にあたり血の臭いが充満した。
ウルスラが覚悟していたような衝撃と痛みは、いつまで待っても襲っては来なかった。
体を縮めたまま、恐る恐る目を開ける。
ウルスラは思わず息をのんだ。
そこには、金髪の青年が立っていた。わずかな星明りでも光をかき集めて輝く金の髪は、神々しいほどだ。彼の足元には、絶命した妖虎が横たわっている。
命を助けてくれた恩人に、ウルスラは一瞬見とれた。
彼は右手に持った剣を振って血糊を落とし、腰の鞘に納める。そしてゆっくりとウルスラを振り返った。
「怪我はないか?」
物静かな目でウルスラを見る。ウルスラは言葉を失った。助けてくれたのは、バルドリックだった。
心拍数が急に上がる。前世の記憶がよみがえっていなければ、恋に落ちたのだと勘違いしそうになるほど、呼吸がままならない。
めまいを感じて倒れそうになった体を支えたのは、いつの間にかいたそばにいたもう一人だ。
「大丈夫ですか?」
怪我をしてないという意味では大丈夫だったので、ウルスラは眉間にしわを寄せながらも頷く。
紺色の警察隊の制服を着た青年は、ウルスラの無事を確認すると通信機に向かって報告をした。
「ナハトを襲撃した妖虎を追っている途中で一般人を確保しました。怪我はしておりませんが、妖虎と対面してかなりショックを受けている模様です」
バルドリックは何も言わず、ウルスラを見降ろしていた。
感情のうかがえない表情に、ウルスラはなぜか攻め立てられているような錯覚を覚える。ただウルスラを見ているだけなのに、冷やかな視線だと感じる。ウルスラの心臓がきゅっと凍え、顔から血の気が引いた。
ウルスラは思わず、自分を支えている警察隊にしがみついてしまう。バルドリックの眉がわずかに歪んだ。
「あ、あと、その一般人を助けるためなんですが、殿下が証拠の妖虎を殺してしまいました」
警察隊は、言いにくそうに通信機に向かって付け加える。
『了解した。信号を上げて位置を特定しろ。その森は複雑すぎてかなわない』
「了解」
警察隊の青年はウルスラの体を支えながら、器用に制服のポケットから筒状の何かを取り出し空に向けて放つ。ポンと花火が打ちあがると、魔法信号がパラパラと降ってきた。その一部がウルスラにもかかる。この印は発信機にもなっており、数日間は洗っても落ちないのだという。
まるで、ウルスラを疑わしいといっているかのようだと思いながら、肌についた小さな光の粒を見つめる。
「妖虎以外に不審なものを見なかったか?」
静かな声が頭上から降ってきた。ウルスラは視線を跳ね上げ、バルドリックを見る。
「あの、殿下? 殿下には捜査権も尋問権もありませんよ?」
焦ったように警察隊がバルドリックを止める。
「それにあの妖虎に襲われかけてショックを受けているんですから……」
「お前は黙っていろ」
バルドリックは一言で警察隊を黙らせる。
「ここで治癒魔法が使われたのは確かなんだ。怪我をした何かがいたはずだ。君は何も見なかったのか?」
バルドリックはウルスラを問い詰めようとした。が、遠方から複数の足音が聞こえた。
「殿下!」
警察隊とともにブルネットの青年も駆けつける。ウルスラは彼の顔を見知っていた。
オーディー・ケルン。バルドリックのお目付け役兼護衛だ。彼もタプファー学園に通う二年生だが、実際は二歳年上なのだと聞いたことがある。
おそらくバルドリックが先走ったのを追ってきたのだろう。守るべき主人より出遅れて顔が青ざめている。
オーディーは警察隊に支えられているウルスラを見て顔をしかめた。
「ウルスラ・ラウラ。なんでこんなところに?」
「知っているのか?」
バルドリックはオーディーに視線を向ける。
「ええ。まあ一応。タプファー学園の二年ですよ。治癒力に関しては学園一、でも基礎魔法はほとんど駄目で攻撃魔法は一切使えないので聖女候補から外す検討がされているはずです」
よく知っているな、とウルスラはオーディーをしげしげと見つめた。バルドリックとは違って、彼を見ていても苦しくはない。当然だ。彼は前世でウルスラを殺してはいないのだから。
「ここにいるということは、寮生か? 門限は過ぎているはずだが」
「殿下、威圧的にならないでください。ほら、彼女怯えています」
先ほどからずっとウルスラを支えていてくれる警察隊が、困ったようにバルドリックをなだめる。
オーディーもため息をついた。視線がちらりと、絶命した妖虎に向けられる。
「殿下。そういえば彼女にはあだ名がありまして」
「あだ名? それが今関係あるのか?」
「おそらく。そのあだ名というのが『怪我人探知機』でして。人に限らずどんな動物も、魔獣でさえ怪我をしているのは見つけ出して片っ端から治していくんですよ」
「ああ。そう言えば一時期、飼育室があふれて未使用の温室も動物でいっぱいになった時期があったな。きみが原因か」
バルドリックは青い目をウルスラに向けた。蛇に睨まれた蛙のように、ウルスラの頬がひきつる。
「妖虎についた血の匂いを怪我人のものと勘違いして、助けにでも来たか? あるいは……」
バルドリックは目を細める。言葉の後半は、彼の口の中に消えていった。
「ウルスラ・ラウラだったか?」
「はい」
名を呼ばれたので、ウルスラは返事をした。
「ひとまず確認だが、この森で妖虎以外のものは見なかったか? 例えば大けがを負った人間とか」
まるでウルスラの心を見透かそうとするように、バルドリックは聞いた。
「……いいえ」
ウルスラは反射的に否定していた。彼らが捜しているのは、間違いなくナハトだ。
ウルスラがナハトを治療したことは知られてはいけない。犯罪者を庇う行為は、魔王への手掛かりになるような気がした。
「そうか。まあ怪我がなくて何よりだ。これに懲りて、手あたり次第怪我人を治そうと思うのはやめることだな」
疑いはまだ晴れていない。そういう目で見降ろしながら、バルドリックはウルスラにくぎを刺す。その手当たり次第に治された怪我人の中に、ナハトも含まれているのだろうか。
「御忠告、痛み入ります」
徐々に嗅覚がマヒしてきて、妖虎の血の匂いも気にならなくなってきた。支えてくれていた警察隊から離れて、頭を下げる。
「殿下、もう捜査の途中から加わって現場を乱すようなことはやめてくださいね」
唯一バルドリックに進言できるオーディーが、ぐったりと言う。
集まっていた警察隊は、バルドリックが始末した妖虎の遺体とともに引き上げた。