4 怪盗
グロテスクな表現がある回です。以降、血の描写があっても注意書きを省略する場合があります。
「しまった眠れない」
ウルスラはガバリとベッドから身を起こした。
狼狐を助けた後、ウルスラはいつものように寮で食事と入浴を済ませ、明日の授業道具をそろえてベッドに入った。だが昼間にたっぷりと睡眠をとりすぎて目が冴えている。一ミリも眠くない。
「これってやばいパターンだ」
今眠れないと、授業中に眠くなる。一応特待生枠で入っているウルスラとしては、授業中に眠るという失態は犯せない。
タプファー学園の授業料はめちゃくちゃ高い。田舎で農業で細々と生計を立てているウルスラの家族では、到底払えないほどの金額だ。それでもウルスラが通えているのは、治癒能力がずば抜けて高いからだ。
さらに潜在魔力量も、数値としては歴代最高といわれている純白の聖女と並ぶほどだと言われている。この数値は勇者として最高値を誇るバルドリックに次ぐものだ。
ただ、治癒、浄化以外の実技成績がてんで駄目なので、卒業と同時に決まる聖女に抜擢されるかどうか危うい。それどころか、筆記系を落とせば落第もあり得るほどぎりぎりのところに立っている。
「体を動かせば眠くなるかな」
かといって、寮内に運動場もないし門限も過ぎているので外にも出られない。筋力トレーニングは逆に目が冴えそうだ。仕方ないので、ウルスラはベランダに出た。寝よう寝ようと思うからねられなくなるのだ。こういう時は気分転換がいいと聞いた。
柵によりかかり、頭上に目を向ける。見上げた空には月がなく、その代り無数の星がきらめいていた。
柔らかな風が吹いて、ウルスラの頬を撫でた。春先の夜風はまだほんの少し冷たい。ウルスラの鼻がピクリと動く。
もたれかかっていた体を起こし、ウルスラは闇の中に目を凝らした。三階のベランダから見える寮の裏庭は、学園と一緒で緑が豊かだ。立ち並ぶ木立が時おり風に揺れるだけで、怪しい気配すら感じられない。
だが確かに、ウルスラの鼻は血の匂いをかぎ取った。しかもかなりの致命傷だ。
どういうわけか、ウルスラは血の匂いで怪我の程度が判別できる。治癒が必要なほどなのか、放っておいていいものか。そうでなければウルスラは毎日クラスメイトの誰かに「怪我してない?」と聞く羽目になって恥をかくことになる。嗅ぎわけができるのは助かる。
とにかく風に紛れるこの匂いはかすかだが、かなりの致命傷だ。ウルスラは急いで玄関に向かおうとして、引き返した。
寮母に説明しようにも、まずはウルスラの嗅覚について説明しなくてはいけないから時間がかかる。この匂いはおそらく、生死にかかわるもので、時間の問題だ。
ウルスラは決意し、ベランダでスニーカーに履き替え、椅子を用意し、柵に上った。
下を見てごくりと喉を鳴らす。三階の高さから飛び降りて、一歩間違えれば大けがだ。もしくは死ぬ。
けれど怪我人も放ってはおけない。苦手ではあるが風の呪文を口の中で唱えて飛び降りる。
着地の瞬間、呪文を発動させるが勢いを完全には相殺できなかった。地面について手と膝を擦りむく。がりっとかなり嫌な音がしたが、興奮しているのか痛みはない。脛を体液が伝う感触があったが、致命傷ではない。
ウルスラは駆けた。
場所は分からなくとも、匂いはくっきりと痕跡が残っている。
中庭をまっすぐ突っ切り、寮の敷地の外に出る。とくに境界はないが、明らかに木の数が増えていた。木の根に足を捕らわれそうになりながら、なんとか森の奥にたどり着く。
巨木の根元に、うずくまる人影を発見した。人がいると思って見なければ気づかないほど、木と同化している。血の匂いはこもっていた。匂いが拡散しないように魔法が使われている。獣に襲われないようにという用心からだろうか。
肩でゼイゼイと呼吸を繰り返しながらウルスラはうずくまる人物に近づく。ウルスラが踏んだ下生えの音に、わずかだはピクリと動く。だが警戒しているのかそれ以上は動こうとはしない。息を潜めている気配がありありと伝わってくる。
「こんばんは」
ウルスラは相手の警戒心を解くようにゆっくりと話しかけた。舌足らずとまではいかないが、顔立ち同様ウルスラの甘い声は、相手を身構えさせずに済む。
ウルスラは木々の合間、わずかでも星明かりがさす場所を選んで移動した。向こうからはこちらの姿が確認できるだろう。だが、ウルスラからはまだ姿が見えない。ただ、血が次々とあふれ出しているのがわかるだけ。
「私はそこの学園で聖女候補生です。怪我の手当てをさせてください」
ウルスラの言葉に、影がまたピクリと動いた。様子をうかがう目が用心深く瞬いた。もう一押しと、ウルスラは両手を広げた。武器の類を何も持っていないことを示すためだ。
「これほどか弱い乙女ですから、あなたの手で簡単にどうとでもできます。どうか命にかかわるその怪我を治させてください」
影がもぞりと動いた。どうやらマントで全身を覆っていたらしいということに初めて気が付く。顔を見せたことを許可ととり、ウルスラは急いで近づく。そして顔がはっきりとわかる位置まで近づいて、息をのんだ。
黒いマントもそうだが、着ている服も黒かった。いや、ウルスラが驚いたのはそこではない。黒い帽子の下に隠れていたのは、目元だけを覆う仮面をつけた顔だった。
この顔を知っている。というか、今日新聞で見た。こんなにはっきりではないが。
「怪盗ナハト……」
思っただけのはずの言葉が、口から出ていた。バルドリックが追っている怪盗だ。
「……どうやら死期が近いらしい。美しい女神が舞い降りた。いや、それとも死神か」
ナハトは辛そうに呻きながらも、頬に笑みを浮かべた。額には脂汗が浮き、黒い前髪がぴたりと張り付いている。
何に襲われたのかはわからないが、ナハトが言う通り死期が近いという言葉が納得できるほど、顔の血の気がなかった。このままでは数分で死を迎えるだろう。
怪盗という犯罪者。彼を助けることによって、バルドリックに目を付けられるかもしれない。だが、見捨てられるほどウルスラは薄情ではなかった。要は、ばれさえしなければいいのだ。
「女神でも死神でもありません」
ウルスラはその場に膝をついてマントを完全にめくり上げた。思わず顔をしかめたのは、擦りむいた膝が痛かったのもあるが、ナハトが負った怪我がひどかったのもある。
腹に大穴が開いており、内臓が飛び出しかけている。どうしてそんな状態で生きているのか不思議なほどだ。おそらく、彼の魔力保有量が大きいのだろう。魔力が全力でこの人を生かしている。
ウルスラはあふれてくる血にまみれながらも、魔法を展開した。ナハトの腹部に白い魔法陣が浮かび上がる。魔法陣の中の呪文は次々と形を変え、術を展開していく。
「変則性魔法陣……」
青ざめた頬にわずかだが血の気を取り戻したナハトは、驚いたようにこぼす。
わりと特殊な魔法陣だ。魔法陣は通常、一度刻むと呪文を変えることはない。だが、ウルスラの魔法陣はその時の最適解を生み出すように呪文の形を変える。まずは止血、それから細菌の排除。損傷した血管、筋肉、脂肪、皮膚の再生。神経の接合。造血。本来の治癒は患者の治癒能力を少々高めるものだが、ウルスラの治癒は治癒ではなく、完全再生に等しい。
ものの五分で、治癒が終わる。衣服まで元には戻せないので、腹の部分はむき出しだ。鍛えられ、引き締まった腹筋が穴の開いたシャツから覗いていた。
体外に出た血も元には戻らない。ウルスラは血にまみれた手を持ち上げ、ナハトの首筋に触れた。脈も問題はない。
ほっと息をつき、立ち膝の態勢からへなへなと座り込む。魔獣や小さな生き物相手なら大掛かりな治癒魔法を使ったことがあるが、人間相手には初めてだ。何とか成功したようでほっとする。
「ありがとう。助かった」
ナハトが仮面の向こうから、興味深そうにウルスラを見降ろした。互いに座った状態でも、視線の高さがかなり違う。ウルスラは見上げるように見つめ返した。
黒いのだと思っていた目は、紫だった。朝焼けの色だ。
年齢も、ウルスラが思っていたよりもずっと若い。二十代、いや、ウルスラとそう変わらない年齢か。
「君は見た目だけではなく、心根も美しいようだ」
ナハトは黒い手袋をはめた手で、そっとウルスラの指先を持ち上げる。ふわりと風が舞い上がったかと思うと、血まみれだったウルスラの服も、ナハトの服もきれいになっている。
魔法陣を使用していない浄化の魔法に、ウルスラは息をのんだ。驚きのあまり、ナハトに対して抱いていた警戒心が吹き飛ぶ。
魔法は通常、魔法陣を媒介とする。そのほうがイメージを固定しやすく、魔力の暴走が少ないからだ。変則性魔法陣を使うウルスラも特殊だが、魔法陣なしのナハトもかなり特殊だ。
浄化で服も手も綺麗になったが、治癒の魔法ではなかったため、ウルスラの手のひらには傷が残ったままだった。
それをみて、ナハトは眉をしかめる。
「これは一体?」
ウルスラはごまかそうかとも思ったが、隠しても意味はない。正直に告げる。
「三階から飛び降りたとき、手をついたらこのようなことに」
「さっきから、膝も気にしているね? そこも怪我を?」
隠しきれていなかったか。ウルスラは観念して部屋着のスカートを膝までめくった。擦りむいて以降初めて膝を見たウルスラは頬をひきつらせた。思ったよりもひどい傷だ。
ナハトが息をのんだのが、気配で分かった。ウルスラは慌てて取り繕う。
「お気になさらず。自分で治せますので」
「三階から飛び降りたといったね? なぜそんなことを?」
ウルスラの手をつかんだまま、ナハトは問い詰める。ウルスラは手を抜こうとしだが、軽くしか掴まれていないのにビクともしなかった。紫の目が穏やかにウルスラを見ている。
「まさか、私がここにいると知っていて来たわけではないだろう?」
ウルスラがたまたまここに来たとでも思っているのだろうか。明らかに隠れているものを、たまたま見つけるのは奇跡以上の確率だ。
「そのまさかですよ。怪盗ナハトだとは思いませんでしたが。血の匂いで、致命傷を負った誰かがいるのは分かりました。じゃなければ、寮を抜け出してこんな場所に来るわけないじゃないですか。あなたも、ここなら身を隠せると思って潜んでいたのでしょう?」
「衝撃緩和の魔法は? 風の魔法でもいい。これほどの治癒魔法が使えるのだ。基礎中の基礎くらい、たやすいだろう?」
ナハトは驚いていた。それはそうだろう。ウルスラも自分に起きている現象でなければ鼻で笑う。
「それが、治癒魔法以外はまったく駄目で。タプファーの生徒なのに意外だなんて言わないでくださいね。もともと聖女になるためではなく、医療資格がとれればと思って通っている学園ですので、十分なんです」
見ず知らずの人に何言っているんだろう、そう思いながらも、誰かに聞いてほしかったんだろうなと、ウルスラは話す。優しく見降ろす紫の目に、何かの魔法がかけられたのかもしれない。急に恥ずかしくなって、ウルスラは手を引き抜いた。今度はすんなりと解放される。
ナハトはふっと表情を柔らかくした。
「なんと勇敢なお嬢さんだ。相手が誰かもわからないのに、王宮にすら忍び込む厄介な犯罪者である恐れもあるというのに、助けたい一心でこのようなところまで来るなんて。心根通り、美しい」
いちいち褒めないと会話ができないのだろうか。困惑しながらナハトを見ると、紫の目がウルスラの顔を覗き込む。目元を覆う仮面からは魔法の気配がする。きっと、正体が知られないように認識障害の魔法がかかっているのだ。それにもかかわらず、素顔が恐ろしく美形なのだということがわかる。
「怪我を負っている人がいれば、助けるのは当然です」
見つめられているのがくすぐったくて、ウルスラは視線をそらした。
昔から、ウルスラの周りではけが人が多かった。今思えばきっと、ウルスラの前世の因縁だろう。魔王が人間になんか転生した影響が周囲に及んでいるのだ。そしてウルスラは血の匂いが嫌だから、怪我を治せるようになりたかった。そうするためには、医療資格が必要だ。何か予期せぬことが起きた時、対処ができる技術がないと、魔法による治癒行為を人にはできないことになっている。
「なるほど、聖女の精神か」
納得したようにナハトは頷く。
口元に涼やかな笑みを浮かべ、ナハトは再びウルスラの手を恭しく持ち上げた。そのまま顔の方へ引き寄せ、掌に口づけをした。ウルスラの頬に熱が集まる。
柔らかな風が起きたかと思うと、掌の傷も、膝の怪我もいつの間にか治っていた。
これも魔法陣の展開がなかった。だが確かに治癒魔法だった。手の甲ならまだしも、掌へのキスは恋人にしかしない。勘違いをしかけたウルスラは、先ほどとは違った意味で頬が熱くなる。
「ありがとうございます。治癒魔法は得意なんですね。もしかして私、出しゃばってしまいましたか?」
「いや。この怪我と私が負った怪我、どちらが深刻かと言われれば女性である君の傷の方が深刻だ。だが腹の怪我は私の腕では治せないほどの傷だったのも確か。君は正しく私の命の恩人だ」
ナハトはほんの少しまで重症人だったと思えないほど俊敏に動いて立ち上がった。マントの裾がばさりと揺れる。華麗な動きでウルスラに手を差し伸べた。
ウルスラは反射的に手をナハトに預けてしまう。羽のように簡単に立たされたかと思うと、次の瞬間、ナハトは跪いていた。掴んだ手はそのままに、ウルスラの指に唇を落とした。
「もし君が何か困ったことがあれば、私の名を呼んでくれ。命を懸けて助けよう」
「え。命なんてかけてほしくない」
命を懸けるなんて重い言葉もいらなければ、命を懸けるほど危険な状態に身を置くこともいやだ。
ウルスラの心を見透かすように、ナハトの唇が妖しく弧を描く。
ナハトは立ち上がってマントを捌く。裾がばさりと翻ったかと思うと、突風が起きた。ウルスラは思わず目を閉じる。
「それではまた、いずれ」
耳元で声が低い声が囁いた。
目を開けた時にはもう、ナハトの姿はなかった。