38 白乙女
ウルスラが寮に戻ったのは、結局夕食ぎりぎりの時間だった。
美術館を訪れてから十時間ほどしかたっていないということに驚きだが、今日は本当に濃い一日だった。ぐったりとしていて、体が重い。それでも食事はとらないと、と思って食堂に向かう。
友人らと食卓を囲み、今日あった出来事を話題にする。もちろんウルスラはバルドリックとのデートを根掘り葉掘り聞かれた。ひたすら殿下は優しかったと、あいまいに濁す。そして話の矛先を変える。
どうやら、寮待機組も濃い一日を送ったようだった。聞いたところによると、年度の途中なのに寮の配置換えがあったそうだ。しかもいきなり。
具体的に言うと、ウルスラの隣室のエリカが別の場所に移動することになった。
めったに使われることない特別室を使ってくれと寮母に言われ、エリカはウキウキで配置換えを受け入れた。そのため、寮に残っていた生徒で引っ越しを手伝ったようだ。
元の部屋は、ウルスラが使っている間取りと同じで、机とベッドと書棚と鏡台、衣装棚は元々作り付けのものだ。エリカはそこに棚をもう一つ増やし、いろいろしまっていたらしい。そのいろいろというものが、めちゃくちゃ細かく、かつ重いので引っ越しが大変だったそうだ。つまり、メイク道具プラス爪の手入れ用品一式が。
「私、ネイルサロンを開くわ」
ぐったりするクラスメイト達には目もくれず、エリカは目を輝かす。
特別室は一般の部屋よりも広く寝室と勉強部屋が分かれているらしい。さらにティーサロンもあり、個人風呂もついているということで、他のクラスメイトからの愛情たっぷりの非難が飛び交う。交代で泊まりに来てね、といっていたから、さっそく今日あたりクララが遊びに行くだろう。
そして空いた部屋がどうなるかというと、編入生が来るらしい。
一クラス三十人の定員は割れていないのに。
疑問に思うウルスラに、情報屋アネッサが教えてくれる。
「アダリーシアさまがとうとう田舎に引っ込んだの」
さすがに死んだことは隠されたのか、とウルスラは複雑な思いを抱く。学園の中では、彼女が死んだことを知るのはウルスラとバルドリックだけ。あるいは、オーディーも知っているかもしれない。そんな重い秘密を抱えなくてはいけないことにウルスラは暗い気持ちになる。
かといって、死んだことを公表されるのも困る。どう考えても、ウルスラやバルドリックは無関係ではないと周囲は分かるのだから。
「ちなみに、次に入ってくるのはアダリーシアさまの妹」
「妹?」
妹なのに、この学年に入ってくるのか。寮の部屋割りは、学年で分かれている。一つ下なら、一年の生徒の間に置かれるだろう。それよりも、アダリーシアの妹であれば貴族寮を使うはずだ。あるいは一般寮しか開いていないのであれば、妹こそ特別室を使うだろう。
「どうもね、平民で優秀な人を養子に迎え入れたらしくて。クラスも貴族クラス扱いなんだけど、授業は一般で受けるとか」
「ああなるほど」
アダリーシアの穴を埋めるための誰かが来るのか。確かに平民育ちであれば、肩書は貴族でも一般クラスで過ごしたほうが気が楽になるかもしれない。
「で? 話題を変えたことについて安心しきったみたいだけど、まだ納得してないわよ? デートの詳しい内容は?」
あまりの疲労にあくびがこぼれかけていたウルスラは、アネッサの質問にあくびがひこんでしまう。
「私、ちゃんと話したよね?」
バルドリックのやさしさを伝えるために、バスで人込みから守ってくれたことも話した。不本意ながら。
「朝からずっと一緒で、美術館とボートと市場巡りで終わるわけないでしょ?」
「後、他には……」
今日の出来事は一言で表せない。ましてや魔王がらみの件なんて言えるわけはない。唯一言えることがあるとすれば、バルドリックとの婚約の件か。
きっと明日には発表されることだろう。第三王子のことなので、それほど大々的ではないだろうけど。
口の中を湿らせるために水の入ったコップを持ち上げたウルスラは、目の前で野菜を頬張るハンナと目が合った。
まずは、ハンナに教えなくては。
「あの、ハンナ」
「なに?」
しゃくしゃくと音をたてながらレタスを食み、ハンナは首をかしげる。
「ハンナに話したいことがあるから、夕飯のあといいかな」
「その前に、一つ確認をしたいんだけど」
口の中のものを嚥下してから、ハンナはウルスラに笑いかけた。ウルスラはハンナを促す。
「好きだと言っていた、紫の君はどうなったの?」
その設定をすっかり忘れていた、とウルスラは硬直する。その紫の君とはナハトのことで、実は正体がバルドリックだったなんて、もちろん言えるはずもない。どんどんと秘密が増えていくことに、ウルスラは心が苦しくなる。
「実は、もっと好きな人ができて」
紫の君については、封印するしかない。ウルスラは固く心に決める。どのみち、一度しか会ったことのない人、ということになっている。
「うん?」
「そのことについて、あとで話そうかな、と」
「ここで言えば?」
「今?」
もっと好きな人ができたなんておいしい話題をもちろん、クラスメイト達が見逃すわけがない。寮の食堂に集まっている大勢がウルスラに注目する。それもそうだろう。今日、ウルスラがバルドリックとデートだということを知らない一般クラスの女子生徒はいない。いや、一般クラスだけではなく、貴族クラスの女子生徒も大半は知っている。寮が違うので、どういう反応をしていたかは知らないが。
少なくとも、一般クラスの女子生徒は学年に関係なく応援していた。
「そう今」
「私、ハンナに一番に言いたいのに」
「どうせみんなに広まるんだから、いっぺんに質問を受け付けたら? 私は今のその言葉だけで、じゅうぶん一番だから」
うんうん、と周囲がにこやかに頷く。みんな、どんな内容の話なのか予想はついているのだ。ただ、予想以上の爆弾をウルスラが抱えているわけで。
「あの」
今になっていきなり恥ずかしくなって、ウルスラの頬から耳にかけて急激に熱を持つ。人が一人死んでいて、そんな甘い状況じゃないのに。なんだかんだで、ウルスラは浮かれているのだ。
「殿下と」
言葉を切り、ウルスラはごくりと喉を鳴らす。先ほど口の中を湿らせたのに、すでにカラカラだった。水を飲んでから、一気に告げる。
「婚約した」
ぶーっ、とどこかで飲み物を吐く音が聞こえた。そちらを見ると、ナナが目の前のキティに水をかけていた。
「うわ」
キティは目を細め、ナナを睨みつける。ナナは両手を合わせ、必死に謝っていた。
「詳しく!」
目をキラキラさせ、アネッサはメモとペンを持つ。ウルスラの前に座るハンナは目を白黒とさせている。
「お付き合いをすっ飛ばして、婚約?」
何考えてるんだあの男、とハンナの表情は険しい。真逆の表情をうかべるアネッサはものすごい勢いでペンを走らせる。
「あら。むしろ私は誠実でいいと思うわよ。ウルスラとのことは本気ってことでしょ? つまり、市場巡りの後は王城にいたのね? そこで殿下と将来について語り合った?」
王城が魔王城で、将来のことといっても魔族の移住という意味であれば、語り合った。嘘ではない、と思いながらウルスラはあいまいにうなずく。
「ああそういうこと! わかったわ、いきなりのエリカの部屋移動の理由が。ウルスラの隣は護衛のための部屋ね」
「どういうこと?」
得意満面の表情を浮かべるアネッサに、ウルスラは聞く。
「末っ子で、魔の森に行くことが決まっているとはいえ、殿下も王家の端くれ。その殿下の婚約者が平民なんて、命を狙ってくれと言っているようなものでしょ。だから護衛をつけるのよ」
「今までだって、オーディーや殿下が守ってくれていたじゃない」
「登下校の間だけでしょ? いくら寮や学園が防御魔法をかけられている場所だとはいえ、完璧じゃないわ。例えば、ここよりも防御が完璧な王城だって賊の侵入を許しているんだから。怪盗ナハトとか」
アネッサの口から出てきたな前に、ウルスラはどきりとする。アネッサは今日の出来事を知っているわけではない。ただ、わかりやすい例を出しただけだ。
「それにしてもウルスラ。婚約したっていうのに、殿下は殿下なんだ。名前を呼ぶ許可はもらっていないの?」
クララが目をキラキラと輝かせて聞いてくる。平民から一気に王子の婚約者なんて、物語のような話に心浮かれているのは、よくわかった。
「どうなんだろ」
――リックと呼んでくれないか?
そう言われたのは、街中にいたからだ。バルドリックが王子であることを周囲に知らせないようにするため。実際、あの後魔国で殿下と呼んでも訂正はされなかった。
「どうなんだろ、って、何かウルスラらしいね」
ハンナがため息交じりに笑う。つられて何人も笑った。
その後もウルスラの話題を中心に、裏庭の木に鳥が巣を作ったとか、どこのケーキ屋が新作を発表したとか、とりとめもない話が続いた。
いつもと変わりない日常、なのにどこかふわふわとしていて、夢でも見ているみたいだ。
アダリーシアの件がなければ、もっと幸せな気分に浸れたのに、彼女の死がそれを許さない。ウルスラに害をなそうとした結果、命を奪われるなんて自業自得だと切り捨てる気にもなれない。
「ウルスラ?」
なんだか、周囲がぐるぐると回り始めた。真っすぐに座っているはずなのに、平衡感覚が乱れる。
そういえば、さっきからなんだか体調が悪い気がしていた。これは熱を出した時の感覚だ、と思った瞬間。
ウルスラはばたりと倒れた。
倒れたといっても、バルドリックの顔を初めて見た時とは違い、意識を失ったわけではない。
熱でぼんやりとした頭で、ウルスラは白い影が近づいてくるのを見ていた。
ウルスラが倒れることによってざわついていた空気が、時が止まったように静かになる。
「おそらく過労か心労と。慣れないお方が陛下と謁見したのですから」
白い影はぼそりと何かを言うと、ウルスラを抱き上げた。バルドリックとは違って、どこか頼りない。身長は低いし、腕も細い。それでも白い影はぐらつくことなくウルスラを部屋に運んだ。
ハンナが扉を開け、ウルスラは白い影によってベッドに横たえられる。唇が耳元に近づいてきて、言った。
「よい夢を」
言葉を合図に、ウルスラの意識は落ちる。
その日、ウルスラは夢を見なかった。
窓から差し込む光に、ウルスラはゆっくりと目を開ける。
久しぶりに夢を見ずに眠ったせいか、気分はすっきりとしていた。昨夜は熱を出して倒れたはずなのに完全に回復している。
自分の体を見下ろすと、ワンピースから夜着に変わっていた。誰かが着替えさせていたのだろう。
ウルスラは大きく伸びをしてベッドから降りた。
ぼさぼさの頭を整えていると、ノックの音が響いた。
「はい?」
こんな朝早くから訪ねてくるのは誰だろう。朝、少しでも長く睡眠をとっていたいクラスメイトが部屋を訪れることはまずない。
「昨夜より隣室に入りました、エルーシア・ツヴァイ・シュティルベルトと申します」
ご挨拶をと思いまして、と言葉があとに続く。
本当にアダリーシアの身内が一般寮に入ったのか、と思いながらウルスラは扉を開けた。そして扉の前に立つ女性を見て息をのむ。
一言で言うのなら、「白い人」だった。
透き通るような白い肌に、かぎりなく白に近い灰色の目。何よりも印象的なのは、その髪だ。老人のように真っ白だ。いや、つやがあって老人の髪とは明らかに違うのだが、とにかく白い。いったい何時から朝の支度をしていたのか、制服も身に着けている。貴族クラスの白いブラウスに、一般クラスの白いスカート。リボンタイは白く、ハイソックスも、革靴も白い。病的なまでに白で統一し、唯一の色彩は白いスカートとブラウスの袖に入った紺の二本ラインだけだ。
女性にしては背が高く、おそらくアダリーシアよりも高い。制服の上から帯剣しており、その鞘も柄も白かった。
特筆すべきことは、山ほどあった。だが、ウルスラが最も驚いたのはどれでもなかった。
感情をそぎ落とした、人間のようでも人形のようでもある顔に、見覚えがあった。
ウルスラの心臓が早鐘を打つ。
覚えている。彼女もまた、三百年前にウルスラとかかわった人物だ。
勇者の――バルデマーの隣にいつも立っていた。
「純白の聖女?」
疑問形になったのは、彼女は確かにバルデマーのそばにいたのに、それ以外の情報がすっぽりと抜けきっているからだ。
「聖女の称号を承ったのはあなたかと」
エルーシアは静かに告げた。感情の宿らない、ガラス玉のような目がウルスラをひたととらえる。
「本日より王命にて、あなたを護衛することになりました。どうぞお見知りおきを」
そういってエルーシアは淑女の礼をとる。ゆるりとした動きは、アダリーシアよりも完璧な所作だった。少なくとも、庶民が一昼夜で仕込まれるような動きではない。
「よろしく……お願いします」
ウルスラはやっとのことで、その言葉だけを絞り出した。
時間経過で矛盾が出ているかもしれません。後程訂正します。その際、あらすじに直したことを表記します。




