38 幕間 バルドリック
積もりゆく思いは、人を狂わせる――
「そなたたちの婚約が正式に決定した」
国王がそう告げた時、バルドリックの中にこみあげたのは喜びでも怒りでもなく、悔しさだった。
バルドリック自身が持てあましていた感情に、余計な名前をつけられたことへの、憤りだった。
ウルスラと別れた後、バルドリックは自室でベッドの上に転がり、掌で瞼を覆う。
吹き出しそうになるやり場のない感情を息とともに吐き出した。
事情を知る誰もが言う。バルドリックはいずれ魔王となり、愛したものを殺すのだと。それは、かつて魔王を殺した先祖がかけられた、避けられぬ呪いのせいだった。
幼少のころから、勇者としての心得をたたき込まれていたバルドリックは、自分が魔王にならない対策として『誰も愛さない』ことを心に固く誓っていた。幸いなことに、バルドリックに近づく女性のことごとくをアダリーシアが追い払ってくれたので、ほとんど女性とは接点を持たずに済んだ。遠巻きにバルドリックを見る視線はどれも同じで、バルドリックが誰かを特別に思うこともなかった。
一度目の転機が訪れたのは、怪盗と出会ったこと。秘密警察ですら追い詰めることができなかったナハトから勇者の剣を取り戻した翌日、まさかの怪盗からの接触があった。協力してくれませんか、と。
ナハトを名乗った、表向き頼りない警察隊の青年は、魔国へとバルドリックを案内した。そして知った紅の魔王の真実にバルドリックは衝撃を受けた。
街一つを滅ぼしたとされる紅の魔王が、実は街の住人を救っていたのだと。
いつか、バルドリックが魔王となることがあるのなら、紅の魔王のようになりたいと思った。
第二の転機は、ナハトとして死者の書を盗もうと禁書庫に侵入した時のことだ。ナハトは一切予告状を出さない。そのはずなのに、罠が張られていた。首のない死体の警告とともに、妖虎に襲われた。しかもご丁寧に魔封じがされており、魔法での反撃ができなかった。呪いのせいで一定条件を満たさないと死ぬことのないバルドリックだが、内臓を食われて無事なわけもなく、やっとのことで逃げ出した。
その先で、彼女――ウルスラと出会った。
初めはただの、美しいだけの少女だと思った。次に、規格外の魔法を使うことに驚き、利用できるかもしれないと思った。禁書庫に魔封じの仕掛けがあるのなら、その範囲外から治癒の魔法を使ってもらえば、怪我をしても一瞬で治り、目的を遂行できるのではないかと思った。
レオナードは初めは渋っていたが、様子を見ているうちにそれもアリではないかと言うようになった。
ウルスラは、なぜかナハトを拒まなかった。部屋に訪れるナハトを警察に突き出すこともなく、二人で語りあう魔法理論に目を輝かせる。正体を明かせと迫ることもなかった。
不器用なりに、ナハトに好意を持つような行動をとったおかげか、ウルスラがナハトに心を赦すようになっていくのが分かった。同時に、バルドリックを見るたびに怯えるような表情をする理由が見当たらなかった。初めはナハトと通じていることがばれるのを恐れていたのかと思ったが、よくよく観察してみると違う。
特に目が合っているときに、怯えを見せる。今にも泣きだしそうな、罪悪感を抱いくような表情を。怯えぶりがあまりに哀れで、できるだけ彼女の目を見ないようにした。
その分、他に目が行くようになった。滑らかな頬や、細い首筋、気を抜くとぼんやりと空を見上げる癖、結んでいないときにひと房うねりがあるくせ毛、友人たちの前で心から笑うときゅっと上がる頬。それはナハトに見せる、はにかむような笑みともまた、違っていた。
彼女のことをもっと知りたいと思った矢先、校外実習での事件が起きた。
真っ青になりながら、ウルスラは尋常ではない治癒魔法陣を展開した。ウルスラが攻撃魔法も基礎魔法も使えない理由の一端を、この時垣間見る。バルドリックの魔族仲間が、そうなのだ。攻撃魔法を使えない代わりに、得意分野に突出している。
何がどう作用しているのか、ウルスラは本来使えるはずの攻撃魔法と基礎魔法の容量を治癒魔法に明け渡しているのだ。そのおかげで、実習で取り返しのつかない怪我を負った生徒はいなくなった。一人を除いて。
一名だけ出た、死亡者。
それは、だれが見ても助からないことがわかるような状態だった。いくら肉体を再生できたとしても、腹に大穴が開いてはほぼ即死だ。死亡者が出るのは、実習では珍しいことでもない。
それでも、ウルスラはあきらめなかった。でたらめな魔法陣を展開し、必死になって命をすくい上げようとしていた。
そういえば、ウルスラは極端に死に怯える様子を見せることがある。そのくせ、実験動物や食料になると簡単に命を奪うようなところもある。
その危うさが、ますますバルドリックの興味を引いた。
実習後、バルドリックの感情の変化にいち早く気付いたアダリーシアが行動を開始した。初めのうちは様子を見ていたが、だんだんと行動がエスカレートしていく。
アダリーシアは、自分との婚約を認めれば手を引くといっていたが、おそらくそれはない。彼女の性格はよく知っている。そもそもアダリーシアには嫌悪感しかなかった。まるで、未来の自分を見ているようで。
アダリーシアとバルドリックは、本質的には同じだ。それは貴族だからなのか、もっと根本的なものなのかわからないが、とにかくアダリーシアと向かい合っていると同族嫌悪を抱かざるを得ない。
アダリーシアを排除することを決定した。オーディーは渋ったが、ならば協力はいらないと告げれば、仕方ありません、付き合いますとの返事をもらった。
「どうやら殿下は、ウルスラ嬢に好意を抱いているようですね」
ちくりとさすようにオーディーが言ったのは、いつのことだったか。ウルスラの前ではない。そして多分、ウルスラに髪飾りを渡して以降のことだ。あの時のオーディーの目が昏かったことを、バルドリックは覚えている。
「純白の聖女の生まれ変わりといわれるくらいだからな。興味はある。が、好意ではない」
そう返したものの、オーディーは納得していないようだった。
バルドリックがウルスラに対して持っている感情は、愛情ではない。彼女を愛しているのなら、これ以上近づかないのが正解なのだから。バルドリックが彼女を殺す前に、二度と会わないようにすればいい。会わなければ、殺すことはないのだから。
愛とは与えるものなのだ、守るものなのだと教え込まれている。実際、バルドリックは父からも母からも、二人の兄からもたくさんの愛情を与えられた。そして今なお、守られている。魔王になる人間に、本来ならここまですることはないだろう。
愛とは求めるものではなく与えるもの。だがバルドリックがウルスラの前に立った時に抱くものは、別の思いだ。
例えば、触れたいとか、奪いたいとか、閉じ込めてしまいたいとか、愛情とは程遠い考えばかりがよぎる。他の男が作った髪飾りを身に着けているのを見た時は、いら立ちばかりが大きくなった。婚約を、と冗談で言ったつもりの言葉を拒絶された時だって、従わせるにはどうすればいいのだろうという考えばかりがよぎった。
さらに都合の悪いことに、彼女はあの紅の魔王の生まれ変わりなのだという。アーベントイアーの民を思ってこぼした涙の美しさに、バルドリックは心臓をわしづかみにされた。そして、かつての仲間を思い出しながら見つめられたレオナードにさえ、嫉妬した。
そう、これは嫉妬だ。ふつふつと昏い感情が沸き上がる。
その目に映すのはバルドリックだけであってほしいし、その手が触れるのもバルドリックだけであってほしい。求めるものが大きすぎて、息ができなくなりそうだ。
いっそのこと、殺してしまえば永遠に自分のものになるだろうかと考えた時には、ぞっとした。それこそまさに魔王の思考ではないか。
バルドリックは確かに、ウルスラに対して特別な感情を抱いている。
それは、愛とは似て非なるものだ。
だからできるだけ早いうちに彼女を引き離したかった。離れていってほしかった。
どうか、彼女が化け物に囚われることのないように。化け物が彼女を殺すことがないように。もう、バルドリックの方からは手が離せそうにないから、どうか彼女の方から突き放してほしい。
そう願いながらも、ウルスラが婚約者という立場になったことに気分は高揚している。これでもう、だれにも奪われない。もう二度とあいつの好きなようにはさせない。
「今度こそ、君と……」
無意識のままこぼれた言葉の意味を、バルドリックは知らない。




