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36 幕間 アダリーシア

 荒ぶる魔法を何とか制御し、彼女は転移の魔法を行使した。

 家に帰れば、きっと父が守ってくれる。政敵に対しては厳しい父だが、娘である彼女にはとことん甘い人だった。どんなわがままも許してくれるし、欲しいと思って物は必ず手に入れてくれる。

 だからきっと今回も、助けてくれるはずだ。

 そう信じて。

 

 彼女の周りを取り囲んでいた魔力がふっと消える。転移が終了したようだ。

 ほっと息をつきながら、彼女は視線を上げて絶句する。

 そこは、彼女がよく知る自宅の庭ではなく、頭上を木々に追われた森だった。ねっとりと肌にまとわりつく魔力の濃さには覚えがある。魔の森だ。


「なんなのよ!」


 彼女――アダリーシアは声を荒げる。

 確かに、あの場で大きな魔法を使うな、暴走する、とは聞いていた。だからといって、何もこんな場所に転移しなくてもいいではないか。

 本当は実習であってもこんな場所に来るのは嫌だ。魔族の住まう場所だからではない。単純に、森は服や靴が汚れるから嫌いだ。白く長いスカートの裾を持ち上げ、白い靴が泥を踏んでいるのを見てアダリーシアは嫌悪の表情を浮かべる。


「まあ、いいわ」


 ここからなら、転移を何度か繰り返せば屋敷に戻れるだろう。

 アダリーシアはさっそく地面に転移の魔法陣を展開する。白い光がアダリーシアの思い描くように広がり、そしてすぐに収縮した。魔法を発動させることなく。


「どういうこと?」


 アダリーシアは眉をピクリと跳ねあげ、もう一度魔法陣を展開する。魔法は発動しない。

 もう一度。今度は魔法陣が浮かび上がることさえなかった。

 校外実習の時は、このようなことはなかった。ちゃんと防御の魔法は展開できたし、己の身は守れた。馬鹿な同級生たちは巨牙熊や妖猿の犠牲にはなったけれど。


 どこか遠くで、魔獣の遠吠えが聞こえる。アダリーシアは肩をびくりと揺らし、周囲を見回した。声は遠い、すぐには襲っては来ないだろう。

 アダリーシアは恐る恐る防御の魔法陣を展開する。――できなかった。


「どういうことなの!」


 地団太踏みながら、叫ぶ。甲高い声は、あたりの木々に吸収されていった。

 魔の森で魔法が使えなくなるということは聞いたことがない。むしろ濃い魔力のおかげで、普段より威力や制御精度が増すくらいだ。だが、今魔法が使えないというのも事実。

 もう一度周囲を見回したアダリーシアは軽い絶望を覚える。方角がわからない。どちらが入り口なのか、どちらが奥になるのか。比喩ではなく一歩間違えれば、向かう先は死しかない。

 全神経を研ぎ澄まし、魔力が薄い方向を探す。見回すアダリーシアの視線がある一点で止まる。


「だれ?」 


 人がいた。アダリーシアのように白い服をまとっている。白いワンピースに白い靴。肌も抜けるように白い。何よりも特徴的だったのは白く長い髪だ。老人のそれとは違う、艶やかな髪だ。ウサギや白熊を思わせる、どこまでも透明に近い白髪に、限りなく色をそぎ落としたような灰色の目は人でありながら、人ではないものを思い起こさせた。

 年齢はおそらくアダリーシアとそう変わらないだろう少女は、スカートの裾をつまみ、優雅に礼をした。一瞬、ここが魔の森だということを忘れる。まるで王宮の舞踏会場のようだ。

 少女は姿勢を正すと口を開いた。色素の薄い唇からこぼれるのは、感情のこもらない涼やかな声。


「雇い主の命により、お命をいただきに上がりました。死にたくなくば、どうぞお逃げくださいませ」


 少女の声を聴き終える前に、アダリーシアは駆けだしていた。

 本能が告げている。関わっていい相手ではない。確実に殺される。どういうわけか魔法が使えない今、あまりに不利だった。

 走ることに向いていないピンヒールだったが、そんなことにかまっていられない。張り出した枝に頬をひっかかれるが、それでも命が惜しかった。

 命よりも矜持を。例えば賊に囚われ純潔を奪われそうになった時はそう教えられている。生き恥をさらすくらいならば貴族として死んだほうがいい。だが、そういった理性を崩壊させるくらい、危険な相手だった。尊厳を保った死は迎えられない。


 アダリーシアは背後を注意しながら逃げる。ちらりと後ろを見れば、濃い緑の合間から、白い影がちらちらと見える。こちらとは違い、走っているようには見えないのに一定の距離を保ってついてきている。

 このままじゃダメだと思い、試しに身体魔法強化の魔法を展開する。掌に魔法陣が浮かび上がり。ブワリとアダリーシアを包んだ。

 魔法が使えることに、アダリーシアは唇の端を歪める。そして、余裕が出てきた。馬鹿にされたままでは、アダリーシアの気が済まない。掌に焔を生み出し、後方に向かって投げつける。焔は白い少女に向かって真っすぐに飛んでいき、着弾前に消失した。


 アダリーシアは口の中で悪態をつきながら、視線を前方に向けた。魔法を相殺できるなんて、聞いたこともない。きっと少女にぶつかる前に枝か何かにあたって魔法が発動したのだろう。

 ここら辺は木が邪魔で戦闘には向かない。どこか拓けた場所で迎え撃とう。そう考えて、木が少ない方を目指して駆ける。白いスカートは泥だらけで、草の汁でひどく汚くなっていた。

 やがてアダリーシアは思い描いていたようなそこそこ広い場所に出る。そして口の中で小さく悲鳴を上げた。


 目の前に、虹色に輝く檻がある。何かが囚われているわけではない。だが、その檻が何に使われたのかをアダリーシアは知っていた。

 背後でがさりと音がする。振り返ったアダリーシアの顔は、恐怖で引きつっていた。

 白い少女は、アダリーシアを逃がしたのではない。この場に来るように仕向けたのだ。


「オーディーはわたくしを裏切ったというのですか!」


 この檻とアダリーシアにつながりがあるのを知っているのは、オーディーだけだ。わざわざここに連れてきたということは、白い少女の雇い主はオーディーなのだろう。


「協力関係にあったはずよ。わたくしは殿下を手に入れる。オーディーはあの小娘を手に入れる!」


 オーディーに渡す前に思う存分傷をつけてやろうと思ったが、それはあの小娘がアダリーシアの機嫌を損ねたのだから仕方ない。庶民が貴族の機嫌を損ねるなど、あってはいけないのだ。貴族クラスとは言えオーディーだって庶民に違いない。アダリーシアの機嫌を取ってしかるべきなのに、命令ばかりする。それに約束はあの小娘を引き渡すことで、怪我を負っていないとか、純潔を保っていることが条件にはなかった。

 オーディーが怒ったのは分かるが、その怒りは理不尽だとアダリーシアは感じた。アダリーシアの望みを尊重しないオーディーの方が追い詰められるべきではないのか。


「その小娘ですが、このたび聖女であることが確認されました」

「聖女って……聖女って、小娘は聖女ではないと判断されたでしょう!」


 世代でたった一人にだけ与えられる聖女の座。バルドリックの花嫁。優秀な学生に与えられる称号とは違う。


「時とともに状況は変わります。お気づきでしょう? 魔王は発狂して愛されるものに殺されるか、愛するものを殺して発狂するか。そのどちらかなんです。愛されもしないあなたは、初めから聖女にはなりえません」

「愛されるのは私よ! あの小娘じゃない。大体、なんであの子なの。いざというとき身を守れない、魔の森で一頭も魔獣を駆れないあの子が!」


 声を上ずらせ、アダリーシアは首を横に振った。


「聖女の役目は魔獣を刈ることではなく、魔王を屠ること」

「でもあれは三百年前からもう生まれないはずよ」


 貴族の中でも、ごく一部しか知らない事実。三百年前、王家の王子が聖女を殺してから、真の意味での聖女は生まれなくなった。それ以降は形骸化した聖女が、王子の花嫁になっていた。アダリーシアは、その花嫁になるはずだった。

 どの世代でも、暴走して魔王化した王子たち。だがアダリーシアはそれを抑えきる自信があった。なぜなら、自分は特別な存在だから。三百年前の王家の罪も知っている。罪を犯したからこそその罰として聖女は生まれなくなった。その罪さえもアダリーシアなら覆せるはずだった。

 根拠のない自信は、甘やかされて育ったからこそ生まれた、幻影だ。それに気づかず、アダリーシアは執着する。


「いいえ。生まれておりました。ただ、三百年前聖女がこの地で殺されたとき、本来ならば次代に継がれるはずの魔力がこぼれてしまったんです。ゆえに、魔王を殺すに至らなかっただけ。三百年の時を経て、ようやく戻ってきたんですよ、魔王を屠れる聖女が」

「なんであなたがそんなことを知っているの。そんな、だれも知らないことを」


 アダリーシアは近づいてくる白い少女に向けて、焔の魔法を放った。先ほどは生み出せた魔法が、今はもう出て来ない。


「なんで」


 目を見開き、掌を見つめる。だが、呆然としてもいられない。アダリーシアは何もない空間から自分の得物を取り出した。すらりと長く、とことん軽量化したレイピア。ブンと振れば、空気を切り裂いてその先あった落ち葉を切り裂く。

 手に感じるなじんだ感触に、取り乱していたアダリーシアの心が落ち着いていく。キッと前を見据えた。


「わたくし、実は魔法よりも剣術を得意としておりますの」

「奇遇ですね。私も体術の方が得意なんです」


 そう言った少女の姿が消えた。

 刹那のあと。目の前に白い少女の顔があった。

 けぶるような長い睫毛に縁どられた目、陶器のように白い肌、血の気を失った唇。人形というには人間らしく、人間というにはどこかいびつな顔が、アダリーシアの鼻先に迫る。

 息をのむ間もなく、手の中からレイピアを奪われた。


 アダリーシアは悟る。初めから敵うはずがなかった。この森の中、彼女の真っ白な服は、一つの汚れもなかったのだから。泥だらけになり場がら駆け抜けたアダリーシアと根本から実力が違うのだ。


「先ほどの答えですがね、神が語るから、です。神が私に語るので、あなたの知らないことも知りえます」


 左手に持ったレイピアを、少女はくるりと回転させて逆手に持つ。肩を押され、アダリーシアは倒れた。すべてがゆっくりと流れていく。それなのに、指一つ動かせない。

 木々の隙間から見える青い空、それを背後に、白い少女は笑う。


「ではごきげんよう、()()()()


 白い少女は、レイピアをアダリーシアの胸に向かって突き立てた。


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