31 魔国
集落ではなく、それはもはや街だった。王都と同等とまではいかないが、それなりに大きく、森と街との境界をぐるりと高い壁が囲んでいた。魔獣の侵入を防ぐためだ。
「ようこそ魔国へ」
森と街を隔てる門をくぐると、ナハトは腹に手を当て大仰に頭を下げた。芝居がかった動作ではあったが、実に様になっている。
魔の森の奥にあるというから、薄々は気づいていたが、やはり魔族の国だった。ナハトが魔獣ヴォルフォクスと行動を共にしていたことや、冗談まじりに魔族だからといっていたことから、もっと早く推測できてもおかしくはなかった。
頭を上げたナハトは、にっこりと笑みを浮かべる。
「三百年前、スティードに人権を蹂躙され、故郷を追われた魔族の住まう国です。人間のお客様が来るのは二年ぶりですね」
「意外と最近なんですね」
閉鎖的なのかと思えば、意外とそうでもない。
街の雰囲気も、決して悪くはない。道路もしっかり作られ、土地も整備されている。人間の国とは違い、自動車やバスといった大型の機械は見当たらないが、荷車がゆったりと行きかう。荷車を引いているのは六角牛という、角が六本ある魔獣だ。性格は温厚だが、人前に現れることは稀だ。
「目的の場所は転移でも行けますが、まずは町の中を見てください。魔族だからと、差別はしないでいただきたい」
ナハトがそう申し出たので、ウルスラは案内されるままについていく。
門付近は畑が広がり、魔法制御されている木工道具が実った作物に群がろうとする群青鴉を追い払っていた。水路をさらさらと水が流れていく。
農地を抜けると、人がどんどん増えていく。
食料を売る物売りの声、井戸端会議をするご婦人方、昼間っから酒を飲んで管を巻く男衆、手に木彫りの炎魔鳥のおもちゃをもって駆け抜ける子供たち。ほんの少し時代遅れを感じさせるものの、そこには紛れもなく、人間と同じ生活が広がっていた。
真っすぐの道をさらに行くと、大通りに出た。立ち並ぶ商店の店先に並ぶのは、食料だけでなく、布地や道具、文具に玩具、書籍様々だ。屋台からは小麦と卵と砂糖を混ぜただけの、甘く懐かしい香りが漂ってくる。十歳ほどの子供たちが、小銭を握りしめおやじからおやつを買っていた。
紙に包んだ焼き菓子を熱そうに頬張る少年の髪の間からは、緑色の三角の耳が生えている。近くの商店で野菜を値切っている夫人の腕は金色のふさふさの毛並みだ。向かいの道具屋の主人は、刃こぼれした包丁を鈍色のナマズひげを揺らしながら思案顔で見ていた。
一見、ただの獣人のような魔族たちが普通に生活を送っている。一方で、皆が皆、外見に何らかの特徴があるわけではない。道具屋の主人に刃研ぎ依頼している女性も、値切る代わりにおまけをつける八百屋の主人も、子どもにおやつを売る青年も、魔獣の特徴は表には表れていない。むしろ、見た目的にはごく普通の人間と変わりがなかった。
魔族が人間の中に溶け込んでいる風景が広がっている。
むしろ、黒ずくめに顔半分を覆う仮面のナハトに、ちょっと場違いなワンピースを着ているウルスラ、ネズミの獣人という奇妙な組み合わせの方が注目を集めていた。だが取り立てて何かを言ってくるでもない。警戒もされていない。
自分と他者が違うことを受け入れているからこそ、敵意のないウルスラたちを警戒する必要がないのだ。
魔族の住む国ということで、始めはおびえていたネズミ獣人も、顔に余裕ができていた。
だが、それに反し、ウルスラの表情は険しかった。
下唇をかみしめ、眉間にしわを寄せている。
ナハトはウルスラを心配そうに見ていた。魔獣は一概に悪と言われなくなった昨今、それでもまだ魔獣に対して悪印象を持つものが一定数いる。それが魔族となればもっと増えるだろう。
ナハトはある確信をもってウルスラを魔国へ案内したが、そろそろ不安になってきた。
聖女様に、魔族は刺激が強すぎたのだろうか、と。いくら前世の記憶があり、住人全員が魔族にされたアーベントイアー側についたとはいえ、前世の記憶と実際に見るのとでは受ける印象が違うだろう。
心配するナハトにお構いなしに、三歳くらいの少女が、母親の手を離れてウルスラに近づいてきた。その背にはペガサスを思わせる真っ白な翼が生えている。大人の手のひらサイズの小さな翼だが、服の中にしまうと傷ついてしまうため、出しているのだろう。
頼りない足取りで、ウルスラにたどり着く直前に転んでしまう。ウルスラは反射的に少女を助け起こした。頬に砂はついたが、傷はない。
少女は泣くことをせず、ウルスラを見てにっこりと笑う。
「どーじょ」
少女が、ウルスラに花を差し出した。小さな花弁の白い花だ。
ウルスラは思わず受け取る。こらえていた涙がポロリと、頬を伝った。
「ねーしゃん、よしよし」
少女は、おそらく母親がいつもそうするのだろう、ウルスラの頭を撫でた。それがまた、ウルスラの感情を刺激する。
とめどなく、涙があふれた。
三百年前、ウルスラが助けようとした命がこうして今も、脈々と受け継がれている。ウルスラを助けるためにいくつもの命が犠牲になった。そして結局ウルスラも命を落とした。それでも、あの時逃がした者たちの末裔は、こうして生きていた。贅沢だとも、華々しいとも言えないが、ここの暮らしは暖かく、幸せそうだ。
人間は決して生きてはいけないとされている魔の森で。いくら魔獣と合成されたとはいえ、賭けだった。すべての合成された人間のすべてが最適化されたわけでもなかった。
それでも、生き残るにはこうするしかないと判断した。
『皮肉なことに、今のあなたたちなら魔の森でも暮らしていける。さあ行って! あの人は私が足止めするから』
かつての同胞たちに叫んだ言葉を思い出す。本来なら、ウルスラが先頭に立って魔の森を拓くはずだったのに、すべてを任せてしまって。でも、大丈夫だった。ウルスラが信頼を託したあの人たちは、こうして強く生きていた。
ひとしきり泣いた後、ウルスラは晴れ晴れとした笑みを浮かべて立ち上がった。
花をくれた少女を抱き上げる。
それを見た、尾長鳥の尾を生やした子供が、手に赤い実をもってウルスラたちに近づいてきた。子供の頬は、興奮したように赤い。彼が持つ実のように。
「今日は王様? それとも王子様?」
子どもは目を輝かせ、ナハトに問う。ナハトは困ったように口元に笑みを浮かべた。腰を落として、子どもの頭をなでる。
「うーん。本当は秘密なんだけどね。王様の方だよ」
ちらりと視線がウルスラを見た。おそらく、秘密なのはウルスラにだろう。
王様。彼はこの魔国の王だというのか。だとしたら、彼が魔王か。
「ありがとう。この実はおいしくいただくね」
そういって立ち上がり、ナハトはウルスラを見た。
「街の様子は見てもらえたので、目的地に行きましょうか」
正体もばれてしまいましたしね。ナハトは苦笑を浮かべた。
そして魔法陣のない魔法を展開する。
気が付くと、ウルスラは石造りの一室に立っていた。
侍女というにはあまり洗練されていない赤髪の少女が、茶器をガチャガチャ鳴らしながらお茶を淹れる。正直、マナーの授業を受けたウルスラの方が上手に入れられるというくらいだ。
石造りの一室の内装は丁寧に作られているが、豪華ではない。大きめの窓に、あたたかな木のテーブルに革張りの椅子、毛足の長いカーペット。最低限のものは置かれているが、花瓶や絵画といった贅沢品の類はない。
ネズミの獣人は、幾重にも魔封じをして牢に入れてある。ウルスラは、当初の計画通り、彼には実験台になってつもりでいる。
ウルスラは向かい合ったナハトに視線を向ける。仮面は相変わらずつけている。少女がそれを胡散臭そうに見ているが、特に指摘をしたりはしない。いや、さっきから何か言いたそうにウズウズしている。たぶん、普段は仮面を外した状態なのだろう。
なぜ、ウルスラが正体を知った今も仮面をつけたままなのか。ウルスラはその理由を薄々は感じていた。ある予想を組み立てていく。
「あなたが魔王ということでよろしいですか?」
ウルスラにとってはナハトではないので、呼び名が欲しいところだ。魔王なら魔王でもいい。
彼は困ったように首をかしげた。
「魔王というか、ただのしがない役人というか、まあ王政の王とは違いますね。ただのお飾りです。議会で決まったことを発表するにはちょうどいい存在、かな。でもまあ、魔王とは呼ばれています」
「最近では帰ってくることも少ないので、その役目すら取り上げたく思ってるけどね」
そういって少女は乱暴にカップを置いた。いや、乱暴というよりは力加減がうまくいっていない感じだ。見た目は人間と全く差がないが、こういうところで魔族の特徴が出ている。
「それで、突然帰ってきたと思ったら人間の女なんか連れてきて。嫁にでもするつもりなの?」
赤髪の少女は魔王にあきれた視線を向ける。
「あ、彼女は僕じゃなく、もう一人の」
「ああ、王子の方の。なおのこと無理でしょ?」
歯に衣着せぬ物言いだ。
「ていうか、人間はまずいと思うけど。前回の人って、一年も生きられなかったんじゃあ?」
「前回?」
「ガリアナ」
魔王は止めようとするが、少女――ガリアナは隠すことなく、言い放つ。
「スティード王国現王弟の聖女。聖女とは名ばかりの、自己防衛もできない人だったからすぐに魔力にやられたね」
「あまりひどい環境のようにも思えませんが」
ウルスラの目から見れば、街の中は活発的だった。通常魔力が濃すぎると、空気が悪くよどんでいくものだ。そのよどみは感じなかった。循環はうまくいっているはずだ。
「そりゃあ、私らは慣らされているから。見た目が人間と変わらないのがほとんどだけど、魔獣の血は残っているんだ。生き残るって意味なら平気さ。でもあんたら人間にはつらいだろう。王弟だって結局、呪いが発動したし」
「呪い?」
「マオウサマ、それも教えてないの? 何も教えないまま連れてきたのって、反則ってもんだよ? いくら王子の嫁っつったって、それはかわいそう」
あきれ顔というよりは、怒っていた。眉をきりりとガリアナは上げる。
「大丈夫、彼女は本物の聖女だから。まあ、だからこそ彼は遠ざけたがるんですけど」
「さっぱり話が見えない」
ガリアナは頭をフルフルと振った。赤い髪がぴょこぴょこと跳ねる。
「彼女には三百年前の記憶があります」
「人間の癖に、三百年も生きてるってすごいね」
「違います、生まれ変わりです」
魔王は額手を当て、うめいた。三百年も生きるのは、人間ではまずありえないし、魔族でも今のところいない。
「あ、そっちか。で? あんたは王軍だったの? 魔族軍だったの? それとも一般市民?」
「魔族軍です。この街に入る前に殺されましたが」
「ああ、それで、この街を見て泣いたんだ。あんたたちが奮闘してくれたおかげで、私たちは平和に暮らしていけるよ。ありがとう」
ガリアナはにっこりと笑う。大きく突き出た犬歯が唇の隙間から覗いた。
「こちらこそ、ありがとう。本当に生きていてくれて」
泣くつもりなんてなかったのに、また涙が零れ落ちた。
ガリアナはうっと言葉に詰まり、ウルスラから視線をそらした。そしてぶっきらぼうに言う。
「よくこれで、人間と戦ってこれたな? 今から人間を裏切るっていうのに、大丈夫?」
ウルスラは勢いよく顔を上げた。
「戦争を仕掛けるんですか?」
「仕掛けません。ガリアナ、少し口を閉じていてください。君が口を開くと、ややこしいことになるから」
魔王はガリアナに注意した後、ウルスラに目を向けた。
「すみません。ガリアナと話しているといつも逸脱してしまって。でも真実を明らかにした場合、王家がつぶれる恐れもあるんです。そうするといったいどれほどの人が路頭に迷うと思いますか?」
「それでも真実を明らかにしようとしているあなたが、それを聞きますか?」
ウルスラは苦笑を漏らす。それに、先ほど言ったはずだ。覚悟はできていると。
「多少の混乱は起きるでしょうけど、戦争にさえならなければ問題はありません」
人間はか弱くもあるが、思っている以上にしぶとい。この街の人間がいい例だ。魔族と合成されても無事逃げおおせ、こうして三百年も生きている。
万が一王家が失脚しても、速やかに政権交代されれば、民にはさほど被害はない。多少の混乱はあるだろうが、トップが変わったところで、日々の暮らしは激変しないし、税金の納める相手が変わるだけだ。そのあたりは、次に収めるトップがうまくやればいい。民衆の恐ろしさを分かっているものほど、そう簡単に反発されるような改革はしない。
「それを聞いて安心しました。僕たちの目的は、王家の失墜ではありません。ただ、帰りたいだけなんですよ、アーベントイアーに」
「それは、このままだと街が滅びていくから?」
ウルスラが見た町中は、穏やかだった。贅沢ではないが、幸せに満ち溢れていた。けれど同時に、行き詰ってもいた。
魔獣の要素を持つものが少なかったのはきっと、遺伝子として魔獣部分が残らなかったから。あるいは、魔獣部分を子供に引き継がせたことによって親世代から魔獣の要素が抜け落ちたから。
魔力の循環はうまくいっている。だが、人間がここで暮らすには、魔力が強すぎる。数世代のうちに魔の森の魔素に耐えられなくなるだろう。
「僕たちはこのまま指をくわえて滅びゆくのを良しとはしません。使えるものはすべて使い、何としても生き延びたい。それが僕たちを何としても生かそうとした先祖の願いですから」
だから、三百年前の事実を盾に、土地を返せと主張するのだ。幸い、旧アーベントイアーの地に住まうものは管理人一人だけだ。そこに住む住人を追い出すようなことにはならない。
「三百年前の記憶があるなら僕はそれを利用したい」
生まれ変わりなんて、証人になりはしないがそれでもウルスラが持つ知識はないよりはましだ。
そしてウルスラも、この街の住人を助けたいと思っている。
人と他の生物を合成する魔法陣を生み出してしまった責任をとって。
「何よりあなたは本物の聖女だ。これ以上、利用価値の高いものはない」
「本物の聖女って。あなたも噂に惑わされるタイプだったんですか?」
自分が聖女ではないことは、ウルスラ自身が一番知っている。ウルスラは魔王で、勇者に殺された。これは紛れもない事実だ。
「いいえ。噂ではなく、真実です。純白の聖女の生まれ変わりかどうかではなく、そして多重魔法陣による治療を行ったことさえ関係なく、ただ一つの事実において、あなたが聖女だと確信しました。あなたは王家がこの三百年間待ち望んだ存在ですよ」
それはどういうことだ、とウルスラは魔王を見た。この三百年間、聖女はちゃんと生まれている。タプファー学園で育てられ、ちゃんと役割を果たしている。
「三百年前、ある人物に聖女は殺されました。それ以来、本物の聖女はスティード王国に生まれていないんですよ」
魔王は静かな笑みを浮かべた。




