30 逃亡
ウルスラは衝撃に備え目を閉じるが、誰かがふわりと抱きとめた。恐る恐る目を開ければ、黒いマントが風にたなびいているのが見えた。見上げれば、顔の上半分を仮面で覆った男がウルスラの肩を支えている。
「ナハト?」
ナハトはアダリーシアがいる場所を睨みつけていた。地面に展開されている魔法陣が、暴走を始めている。何とか食い止めようとバルドリックが近づこうとするが、風圧に押されて前に進めない。
ウルスラをここまで連れてきた誘拐犯もまた、風に翻弄されていた。目深にかぶっていたフードは脱げ、その醜い姿があらわになっている。
ウルスラは言葉を失った。
頭からネズミの耳が生え、ローブの裾からはネズミの尾が覗いていた。獣人、という言葉がウルスラの中をよぎるが、あいにくと獣人は物語の中でのみ存在し、現実にはいない。人と獣を融合させでもしない限り。
ドクン、とウルスラの中で何かが大きく波打つ。
――人間が巨大な魔力を持つ最も手っ取り早い方法は、魔獣との融合だよ。魔族の誕生だ。
かつて、ウルスラにそう言ったのは誰だったか。あの時、ウルスラはどういう反応をしたのだったか。
――たとえ君ほどの浄化の能力をもってしても、一度融合してしまったものは戻せないよ。
次々と記憶が浮上しては消え去っていく。記憶を取り戻しつつあることよりも、かつて行われた実験の凄惨さに気分が悪くなる。ウルスラはナハトにしがみつき、吐き気をこらえた。
不意に、アダリーシアがいた場所を光の柱が貫く。光が消えた後、そこにアダリーシアの姿はなかった。あれほど荒れ狂っていた風もやむ。魔力を暴走させはしたが、アダリーシアは逃げおおせたようだ。さすがといわざるを得ない。
ウルスラは取り残されたネズミとの合成男を見る。絶望に染まった顔をしていた。
「ナハト!」
鋭い声が飛び、オーディーが怒りの形相で向かってくる。
バルドリックは驚いた顔でウルスラとナハトを見ていた。まさか、ウルスラとナハトにつながりがあるとは思ってもいなかったというのか。出会った当初は、疑っていたというのに。
「どうする?」
ナハトが耳元でささやいた。
ウルスラは目を見開いてナハトを見上げる。どうしてだろう。先ほどから違和感が付きまとう。この感覚は、ナハトとバルドリックが対峙している二年前の写真を見た時と同じ違和感だ。
「このまま私についてくるか、秘密警察につくか」
ウルスラの前から去ったはずなのに、なぜそのような選択を迫っているのか。ナハトの姿を目にとらえながらも、ウルスラの脳裏に映っているのは、別のものだった。
三百年前、スティード王国が犯した罪をウルスラは知っている。
国民を巻き込んだ、非人道的な実験だった。
なるほど、それだけのことをしていれば、それが王家の指導のもと行われていたのなら、確かに王家の権威は失墜するだろう。王家は、国民を裏切った。
王国の罪を思い出したウルスラが選ぶ選択肢は、一つだった。罪を隠し続ける秘密警察には、つくことができない。それに――
「あのネズミの男もいっしょに、逃げて」
「ネズミの男? ああなるほど」
ウルスラの言わんとすることを悟ったのか、ナハトは口元に笑みを浮かべるとウルスラの腰に腕を回した。ウルスラもナハトの背に手を回す。ナハトは左手を高く持ち挙げ、指を鳴らした。魔法陣のない魔法が展開される。
再び魔力の暴走が起きた。風が荒れ狂い、ごうごうと音をたてる。
我に返ったバルドリックが駆けだす。ウルスラに向かって手を伸ばすが、その手が届くことはなかった。
*
「王軍が出撃したようです」
その声を聴き、ウルスラは剣の手入れをいったん止めた。予想はしていたことだ。ただ、動きが思ったよりも早かっただけで。
「迎え撃ちますか?」
ウルスラのそばに控える男が、表情を険しくする。茶色い髪の隙間から、漆黒の耳が生えていた。
彼の赤い目には、ウルスラの側頭部に生えた角が映っている。それを見返し、ウルスラは頬に笑みを浮かべた。
「そうね、私一人で十分でしょう」
透明の剣に曇り一つないことを確かめて、鞘に納める。立ち上がり、防具を確かめる。ここに来るまでぼろぼろになってしまった防具は、ここで捨てるべきか。今のウルスラには、必要のないものだ。
「残っている者たちにも伝えなさい。逃げよ、と」
「ですが……」
「王軍を出したともなれば、アーベントイアーが落ちるのも時間の問題。私は、これ以上誰かが死ぬのを見るのは嫌です」
「あなたこそが逃げるべきです。あなたは、アーベントイアーの民の心を支えてきた。これからもあなたの存在が必要だ!」
「聖女を殺すと決めた時から、こうなることは決まっておりました。私は魔王。私こそが魔王。民のために、力をふるうのが私の役目なのです」
「だからといって、なぜあなたが戦うんですか。私たちだって、魔力を使いこなせます」
「ええ。強大な魔力を得た今のあなたたちなら、王軍を退けられるでしょう。ですが、彼は? きっと彼もここに向かっている。覚醒したあの人を、あなたたちは相手にできますか?」
ウルスラの問いかけに、側近は言い淀んだ。
「あの人を殺せるのは私だけ。今までそういう教育を受けてきたのだから」
私だけが。ウルスラは小さくこぼす。そして、もう一つ重大なことにも気づいている。
人間は弱い生き物だから。弱いくせに諦めの悪い生き物だから。脅威が去るまで、しつこく攻め続けるだろう。
目に見える形で、魔族の脅威が去ったことを知らしめなくてはいけない。
魔王の死体を用意しなくては、きっと魔の森へ侵攻するだろう。そして、ウルスラが守ろうとしている民たちの命を奪うだろう。
今まで前線で戦ってきたウルスラであれば、その役割も果たしやすい。王都の民の多くが、ウルスラを目撃している。もともとのアーベントイアーの住人とは違って。
女子供は、少し前から移動を開始させている。魔獣が闊歩する魔の森が危険なのはわかっていたが、ここにとどまるよりははるかにましだった。住人はおよそ五万。それだけの人数の移動が、果たしてどれほどで終わるだろうか。中には子供も赤ん坊もいる。それらすべてが安全な場所に移動するのを確信するまで、ウルスラにできるのは、ただただ耐えることだ。
「シュバルツ」
こんなことになってしまったあの日から今まで、自分に仕えてくれた男を見上げた。
シュバルツもまた、犠牲者だ。ウルスラに、かつての仲間たちを止める力があればまだ話は違ったのに。
許してくれとは言えない。あんな恐ろしい魔法を組み立ててしまったウルスラたちは、神の裁きを受けてもおかしくはないのだから。神がこの世にいるかどうかもわからないが。
「これからはあなたが導き手になりなさい。私の代わりに、民を守ってあげて」
ウルスラは責任を果たさなくてはいけない。自分がしでかしたことへの決着を。
そしてどうか、神がいるのなら彼らに祝福を。
魔王の声が、夜の闇に溶けた。
*
頭上を覆う枝は鬱蒼としており、遠くに青空がちらちらとしか見えなかった。
日差しはないのに、蒸し暑い。ウルスラは手の甲であごから滴り落ちる汗をぬぐった。
こんなにも歩く羽目になったのは、地下洞窟の魔力の影響だという。本来なら目的地にピンポイントで転移できるのに、座標が狂ったと言っていた。
後ろを歩く合成獣人は始終無言だ。ナハトの魔法で魔力は無効化されている。何度か逃亡を図ったが、そのたびにもだえ苦しんでいるので、逃亡不可の魔法もかけられていることがわかる。なんでもありの魔法に、ウルスラは顔が引きつった。
時折聞こえる声は、魔獣のものだ。何もおかしなことはない。ここは魔の森の奥地だ。今もすぐそばで魔獣が息を潜めてこちらをうかがっている。だが襲ってくるそぶりは一切ない。
「もう少しで隠れ家につくが……その男も仲間に引き入れるってことでいい?」
道案内をしていたナハトが、仮面越しの紫の目を合成獣人に向ける。
「仲間じゃないですよ、なんで誘拐犯が仲間なんですか」
息も絶え絶えにウルスラは答える。体力のなさが恨めしい。
「じゃあ、君は何で彼をここに?」
「サンプルです。私は別に優しい人間じゃないんですよ。必要であれば、助けた動物が実験に使われても平気なんですよ」
三百年前の王家の悪事を思い出したと同時に、ウルスラは前世でやりたかったことの一つを思い出した。そのためには失うわけにはいかない実験体だ。ウルスラはできるだけ感情を平坦に均す。
「平気な人間は、平気だとは言わないけどね」
指摘され、ウルスラは眉をひそめた。
だってそう思うしかないじゃないか。病気を治すにも、薬の安全を確かめるにも、何かを犠牲にして大丈夫だという保証を得なくてはならない。ウルスラは野生動物よりも愛玩動物よりも人間を大事にしたい。すべてを等しく守るのは無理だ。戦争が起きたのなら、同じ国の民を。対立が起きたのなら、同胞の方を救いたい。
「つまり、君は彼を助けたいと」
「違います。私を誘拐した罪を償わせるために、犠牲になってもらうんです。幸い、私は優秀な治癒魔法の使い手なので、即死しない限りは何度も治せます。目的は獣と人間部分の分離。成功するまで、発狂しようが殺してくれと喚こうが、やめるつもりはありません」
ウルスラの発言に、合成獣人はびくりと体を震わせる。ウルスラは冷たい目を合成獣人に向けた。
「あなた以外にも合成獣人がいるのなら別だけど」
「俺以外は皆、初期段階で死んだ」
「やっぱりあなた以外にも作っているのね。最悪」
こういう実験体が存在していて、一体しかないというのはまずありえない。それでもまだましと思えるのは、三百年前のように街一つが犠牲になったわけではないということか。
「結構過激だったんだな、君は」
ナハトの声には呆れが含まれていた。ウルスラの中で、ある疑惑が確信になりつつある。
「知りませんでしたか? こんなだから、今まで男性にはフラれていたんですよ」
怪我をした動物を見ると助けられずにいられない性格だから、聖母のように思われがちだが、その実本質は真逆だ。ウルスラはただ、自分の力を試しているだけだ。治癒にしか使えない自分の魔法が、どこまで精度を上げられるかの。だから、治ってしまった後の動物には興味がない。その感覚が、まともな感覚を持つ者たちには異様に映るらしい。しかも、前世の記憶がよみがえるたびに人格が上書きされて行っている気がする。
「私としては、大事な証人であると同時に証拠だから、そのまま放置しておいてもらえると助かるのだけどね」
「三百年前の『逢魔の七日間』で起きた真実を証明するための重要な証拠、ですか?」
ナハトはぴたりと足を止めてウルスラを見降ろした。ウルスラも足を止める。遠くで、魔獣の遠吠えが聞こえた。
「証拠にはなりませんよ。確かに人は獣とも、魔獣とも合成できるでしょう。でも三百年前のアーベントイアーで使われた魔法だという証明にはなりません」
「その名前、どこで……」
三百年前、魔族に滅ぼされた街の名前は、地図からも歴史からも消された。今となっては『魔の森の隣』としか呼ばれていない。消さねばならない理由があった。アーベントイアーで行われた実験は、あまりにひどいものだったから。
「アーベントイアーの住人は、魔獣と合成されて魔族になった」
住人は魔族に殺されたのではなく、近隣諸国との戦争に投入されるために、魔獣と合成された。
合成の実験自体は、うまくいったともいえるし、失敗したともいえる。かなりの住人が死ぬことはなく生き残ったが、想定よりもはるかに低い魔力値しか得られなかった。爆発的な魔力を得たのは、ごく一部だ。国が下した決断は、街ごとの処分。
ウルスラは人間側ではなく、見捨てられたアーベントイアーの住人側につくことを選んだ。かつて人間であり、自身もまた合成魔族にされた身として。あの場で最も魔力が強く、戦いを心得ていたウルスラの役目だった。魔王を名乗り上げ、王軍とたたかった。
「君は何者だ?」
目元を鋭くし、ナハトが問う。
今までのウルスラとどこかが違うと気づいているのだろう。
確かに違う。今までならば、記憶が芽生えてもおとなしくウルスラとして生きようと思っていた。だが、あんな光景を思い出してまで穏やかに生きようとは思わない。まして、あの魔法を使えるものがまだ存在すると知ってしまったのならなおのこと。
「あなたこそ、だれなんですか」
ウルスラは顎をそらし、ナハトを睨みつける。
不穏な空気に、合成獣人が震えた。逃げだそうとするが、ナハトの魔法に阻まれ電撃を食らう。
「質問に質問で返す? 私は君には正体を教えられないと言っているはずだが」
「ええ。確かに彼はね。私が聞いているのはあなたの方。彼は私にもう会わないと去っていったのに、あなたはなぜ、私に接触したんですか?」
ナハトの目が、軽く見開かれる。
「あなたたちは認識障害の仮面の優位点を最大に利用しています。まさか、ナハトが二人以上いるなんて誰も考えませんでした」
なぜ仮面など被って、目立つ盗み方をしたのか。それはナハトが一人だと思わせるためか。二人以上いれば、盗むのも逃げるのもたやすいだろう。誰かが代表して囮になればいいのだから。
「なるほど。お嬢さんを少々侮っていましたね」
ナハトは薄ら笑いを唇に浮かべた。見た目はまるきりもう一人と一緒なのに、受ける印象がまるで違う。
「僕たちは目的が完全に一致しているわけではない、というのが答えですかね。彼はあなたを巻き込みたくなくなりましたが、僕はあなたの力を必要としている。三百年前の出来事を少しでも知っているのなら、なおのこと」
そういってナハトは合成獣人に視線を向けた。ぞっとするほど冷ややかな目に、合成獣人は喉の奥で悲鳴を凍らせる。
「『死者の書』はただの歴史書だと聞いたけれど、逢魔の七日間について書かれているんですか?」
「正確には『死者による命を賭した書』です。魔法書の一種で、書かれていることは真実のみ、著者は書の完成とともに死を迎える、特殊な焔以外では燃やすことがでいない、という代物です。禁書庫に保管されている『死者の書』は逢魔の七日間について書かれたもので間違いがいないかと」
「あなたは真実を暴いてどうするつもりなんですか?」
返答次第では、やはりウルスラは彼に協力できない。真実が記されているというのなら、アーベントイアーの実験の魔法陣だって載っているかもしれないのだ。今はまだ、動物との合成だが、魔獣と合成されればかつての悲劇が繰り返される。
「とある方の名誉を復活させたい」
「……それだけ?」
直感的に、それは嘘だと思った。ウルスラの知るナハトよりも、目の前の男の方が厄介だ。巧妙に罠を張り、恐ろしいほど冷淡に目的を遂行するだろう。そんな気がする。
見上げたウルスラの視線の先で、ナハトは不敵に笑う。こうしてみると、今目の前にいるナハトは、いつもウルスラが会っていたナハトと背丈も微妙に違う。
「それだけですよ。あの方は、僕たちの祖先の恩人。いつまでも汚名をかぶったままでいていい人ではない」
愛おしそうに、ナハトは言う。その言葉に、嘘は感じられない。ただ、動機がそれ一つだけじゃないというだけで。
「さて、こちらの目的は言いましたよ」
ナハトは、ウルスラに水を向けた。
「最初の質問は何者かっていうものだったはずですが」
「でもあなたが求めているのは、こういうことかと」
確かに、ウルスラとしては、あのナハトではないという確証が得られればいいだけだった。
「まあ、確かにそうですけど。私が何者で、なぜアーベントイアーを知っているか、ですよね? あなたは生まれ変わりを信じますか?」
ナハトは目的を告げたが、まだ正体を隠したままだ。だからウルスラもすべてを語るつもりはなかった。ウルスラが、魔王の生まれ変わりだというのは切り札だ。
どこまで話すべきか。少なくとも、王家の秘密を隠している秘密警察はウルスラとは相いれない。その秘密警察と対立しているからといって、ナハトが味方とは限らない。かといって、すべてを隠したままでは信用を得られない。
「確かにあなたは聖女の再来だと言われていますが……。まさか本当に生まれ変わりだとでも?」
「聖女の生まれ変わりではありません。ですが、あの実験の中枢部分に携わっていました。そして寝返ったんです。アーベントイアー側へ。経緯も、理由も、わかりませんし、まだすべての記憶を取り戻したわけじゃありませんが」
ナハトは腕を組み、沈黙した。きっと、ウルスラをどうするべきか考えているのだろう。どのみち、魔の森にいる今は、ナハトの決断に従うしかない。
先ほどからこちらの様子をうかがっている魔獣たちは、明らかにナハトを警戒している。ナハトがいるからこそ、襲っては来ない。置き去りにされれば、攻撃手段のないウルスラはひとたまりもない。もっとも、このナハトがウルスラたちを放置するつもりがないことは、確信しているのだが。
「あなたを隠れ家ではなく、本拠地へご案内しましょう。ただし、もう戻れないことをご承知おきください」
「覚悟はとっくにできています」
ウルスラは不敵な笑みを浮かべた。




