29 地下洞窟
ウルスラは後ろ手に縛られた。
足元を水が流れる音がして、うすら寒い。すえた匂いから、ここが下水道だということを知る。
転移の魔法でここに飛んだ。
「来い!」
フードを目深にかぶりローブで全身を覆った誘拐犯の後ろ姿が奇妙な形に膨らんでいる。背中に何か武器でも隠しているのか。それにしては奇妙な揺れ方をしているのが気になる。
誘拐犯はウルスラの腕を乱暴につかむと、引きずるようにして歩き始める。
不思議と、怖くはなかった。バルドリックが助けてくれる。そう確信していたから。
下水道をどんどん奥に進む。壁の天井もブロックで固められた下水道は、千年以上も前に掘られた穴を利用しているのだと聞く。奥に行けば行くほど道幅は狭くなり、分岐も多くなっていく。
地図も見ずに歩く男の足取りは確かで、まるでこのあたりを住みかにしているかのようだ。
やがて、道の突き当りに到達する。いつの間にか、整備のされていない場所に来ていた。土がむき出しになっており、触れれば今にも崩れてきそうで、すえた匂いの水もなくなっていた。
突き当りは、掘ることをあきらめてしまったような土壁があるだけ。しかし、男はずんずんと進んでいき、壁に手を触れた。
ほの白く光り、魔法陣が浮かび上がる。かと思うと、半ば朽ちかけた扉が現れる。扉を意識した途端、向こうから風が流れてきていることに気づいた。
(外?)
扉が開く。外に出るかと思ったが、そこは相変わらず土壁に包まれた地下だった。ただ、異様に開けた場所だった。一クラス分が魔術演習をできるほどには。
空間には魔力が渦巻いており下手に動くと何が起きるかわからない不気味さを醸し出している。
そういえば、この王都は巨大な魔法陣の上に作られた魔法都市なのだと歴史で習った気がする。
千三百年前、世界を恐怖と混沌に陥れた災厄の魔王。その災厄の魔王を打倒したのが、スティード王国の開祖だ。魔王から民を守るために巨大な魔法陣を作り、そこに築かれた都市がそのまま王都として発展していった。その魔法の名残ともいうべき力が渦巻いていると感じさせるほどに、古い力を感じた。
奥には祭壇が設けられていた。いや、玉座だろうか。女王然として座るのは、アダリーシアだ。
誘拐犯は乱暴にウルスラをアダリーシアの前に転がすと、深く礼をした。
「お望みの者を連れてまいりました」
「ご苦労様。この泥棒猫をしつけした後、お前には褒美を授けるわ」
「はっ」
そういうと、誘拐犯はウルスラを残して後方に下がった。
ゆったりとした足取りで、アダリーシアがウルスラに近づく。転がされた際、肩を打ったウルスラは痛みに眉をしかめながらアダリーシアを見た。目が合うと、アダリーシアは虫けらを見るように鼻で笑う。
「言ったでしょう? 太陽のもとを歩きたいのであれば、バルドリック殿下にかかわるな、と」
首を傾げれば、銀の髪がさらさらと音をたてた。
「ああ、憎たらしい顔。校外実習の時、巨牙熊は生徒のど真ん中に出すんじゃなく、あなたの前に出すべきだったわ。早く殺しておけば、バルドリック殿下もこんなにあなたにかまわなかったのに」
「あの魔獣はあなたの仕業だったの?」
ウルスラは目を見開いた。魔獣は人が飼っていた形跡があると聞いていたが、まさかこんな近くに犯人がいるとは思わなかった。ショックを受けるウルスラの表情を見て、アダリーシアは満足そうに顔を歪める。
「とあるところから譲り受けたの。だって、わたくしがより聖女に近いのだと証明しなくては、ねえ? まさかたった一撃で人が死にかけて、妖猿が出てくるなんて思わなかったけど。でもそれは、あなたが殿下の足を引っ張ったせいよ。殿下が遅れなければ、巨牙熊もあんなに暴れることはできなかったでしょうし、わたくしの優秀さも証明できた。ほんと、わたくしの計画をことごとく邪魔するなんて腹立たしい」
転がったまま立ち上がることのできないウルスラを見降ろし、アダリーシアは妖艶に笑う。とがったつま先の靴が、ウルスラを蹴り上げた。そのまま、ピンヒールでウルスラの肩を抑える。
ウルスラの喉の奥から、くぐもった声が漏れた。
「その反抗的な目も、本当に腹立たしい。どうすればこのいら立ちを抑えられるかしら」
無邪気を装った顔で、アダリーシアは首をかしげる。ああそうだ、と慈悲深いまなざしをウルスラに向けた。
「ここは魔力が入り乱れる場所なの。あなたの友人が開発した人探しの魔道具も、殿下があなたにつけた探索の魔法陣も効果が全くないわ」
にこやかな笑みを浮かべ、アダリーシアはウルスラの腹を蹴り上げた。痛みで意識が飛びそうになる。
うつぶせに転がったウルスラの、後ろ手に縛られた手の甲を、アダリーシアはヒールで踏み抜いた。ゴキと骨の折れる音がした。
手の甲の魔法陣には気が付かれていた。気づいていて気づかないふりをしたのは、希望を抱かせておいてそれを手折るのが楽しいからか。
アダリーシアはウルスラを執拗に蹴り、踏みつけた。何度も、何度も。
この手のプライドが高い人間にはどういう態度をとればいいのか、ウルスラは知っている。ウルスラは絶望した顔をアダリーシアに向けた。
何が何でもウルスラを屈服させたいアダリーシアには、反抗的な態度を見せれば攻撃の威力が増していくだろう。
アダリーシアの顔が愉悦にゆがむ。
怯えた目を向ければ、さらに満足する。
「きっとあなたは聖女ではなく、本質は魔族なのでしょうね。人をたぶらかす、淫魔のような。わたくしは騙されないわ。あなたをちゃんと、退治してあげる」
言葉を切り、アダリーシアはウルスラの髪をつかんだ。バルドリックからもらった髪飾りが落ちた。アダリーシアはそれを見て、忌々しそうに顔を歪める。
八つ当たりのように、思い切り踏んで髪飾りを粉砕する。
「殿下もなぜあのような下賤な真似をしたのかしら」
ウルスラの髪から手を放す。自分の体を支えられないウルスラは、肩から落ちた。
「まずは人をたぶらかす、その顔を壊してしまいましょう」
頬を蹴られた。口の中が切れ、血の味がにじむ。目じりから涙が零れ落ちた。それを見て、アダリーシアがうっとりとした笑顔を浮かべる。
「ああ。胸がすく思いだわ。もっと早く、こうすればよかったわ。でも今だからこそできたのかしら。だってあなた、いつも守られていたんだもの。学園でも寮でも、その往復でも。ねえ、いつも寮であなたを保護していた魔力は何だったのかしら。あ、いいのよ別に言わなくて。興味なんてないんだから。でもねえ、知ってる? ついこの間からその魔力が消えているの。その顔で誑し込んだ男が、あなたの心が殿下に移ったと知って愛想をつかしたのかしら?」
そうか、自分はナハトに守られていたのか、とウルスラはやっと気が付いた。どうしてあんなに簡単に部屋に侵入できるのか、周囲にばれないのか気になっていたが、ナハトの魔法の影響下にあったからか。
ウルスラは、静かな目でアダリーシアを見つめた。
「……いやになるわその目、同情の目で見ないで。わたくしは誰よりも美しく、誰よりも強い魔力を持ち、誰よりも幸せなの。あなたに憐みの目を向けられる覚えはないわ!」
ウルスラは、ただ怯えた目でアダリーシアを見ているつもりだった。プライドの高いアダリーシアが憐憫など向けられることを誰より嫌っているのを知っていたから。
だが、彼女が喋ればしゃべるほど、哀れに思えたのだ。どれほど求めても、求めれば求めるほど、バルドリックが遠ざかるのが分かったから。執着という呪いから逃れられないことが分かったから。
「やめなさいと言っているでしょう。ええ、気が変わったわ。あなたのことは生かしてておいて、そのあたりの男に性奴隷として賜ろうと思ったけど。この場でずたずたに引き裂いてやるわ。治癒魔法さえ効かない、永遠に傷が膿んでいく呪いを上げる!」
アダリーシアは掌をウルスラに向けた。白い魔法陣がウルスラの前に浮かぶ。
同時に、天井から光の柱が下りてきたかと思うと、地下空間全体を揺らす地響きがとどろいた。アダリーシアの魔法陣がすっと消える。
「あら」
展開しようとしていた魔法陣は消えたのに、アダリーシアはぱっと笑顔を浮かべる。ウルスラは視線だけ動かして、光の柱を見た。光の柱の中に、ブルネットの髪が見える。
「いらっしゃい、オーデ」
振り返りながら言ったアダリーシアの言葉が途中で途切れた。彼女の足元に魔法陣が浮かび上がり、体が宙に浮く。まるで、胸ぐらをつかまれたように、アダリーシアは足をばたつかせた。その目は、信じられないものを見たように、見開かれている。赤くゆがんだ唇が何かを言ったが、声にはならなかった。
「ウルスラ!」
オーディーがウルスラに駆け寄る。傷を負うウルスラを見て、灰色の目に怒りがにじんだ。拘束されていたウルスラの両手を解き、治癒魔法でウルスラの怪我を治す。
「遅くなってすまない。探すのに時間がかかった」
ウルスラはゆっくり首を横に振り、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「おかげで助かったわ。ありがとう。……殿下は?」
助かったはずなのに、ウルスラはほんの少しだけ、傷ついた顔をした。助けに来るのなら、バルドリックだと思っていたから。
オーディーの手を借りながら立ち上がり、ウルスラは手の甲に触れる。ウルスラの居場所を知らせる魔法陣は発動していない。この場に渦巻く魔力が強すぎて、発動できない。彼が来ないのは、仕方のないことだ。
「知らせたので、そのうち来るかと」
宙に釣られたアダリーシアは、目を真っ赤に血走らせながらオーディーを睨んだ。その口が何かを訴えかけているが、声は音にならない。かろうじて肺は空気を取り込むことができるようだ。
「大丈夫だった? 他に怪我を負ったところは?」
治癒魔法をかけてくれた後も、オーディーはウルスラの無事を確認した。ウルスラは力なく笑みを浮かべる。
「大丈夫」
ウルスラはそう言ったが、納得していないかのように、オーディーはウルスラの顔に触れた。
「女性の顔に傷つけるなんて」
女性だからこそ、アダリーシアは傷をつけたのだ。
オーディーの冷たい指が、ウルスラのあごに触れ、頬をなぞり、耳を撫でた。片方だけ残っていたピアスがそっと外される。ぞくりとした。
なぜか、オーディーのウルスラを見る目が、いつもと違うような気がした。熱っぽく、そして艶めいている。
「殿下はいらっしゃるのよね?」
平常心を保とうとしていたのに、ウルスラの声は震えていた。
「場所は教えたからね」
「オーディーはどうしてここがわかったの?」
「もしかして、俺を疑っている? 探索をかけたとき、反応しない場所がある。その候補がいくつかあって、そのひとつがここだ。殿下は別の場所を探しているから、遅くなっただけだ」
「……アダリーシアさまはずっとあのままなの?」
先ほど、アダリーシアはどうしてそちらも見ずにオーディーが来たのだとわかったのだろう。今もなお、オーディーに向かって何かを吐き出しているのは、一体何を言おうとしているからなのか。
「忘れていた」
オーディーは冷淡に言うと、アダリーシアの足元の魔法陣を解除した。アダリーシアの体が落ちる。全体重がかかり、足が折れた。涙目で這いつくばり、アダリーシアは肩で息をした。オーディーを睨みつける。何か言葉を発したが、喉がつぶれ、完全に声が出なかった。
アダリーシアの顔が青ざめる。オーディーはウルスラを背後にかばうように、アダリーシアの前に立った。
「あなたがウルスラに暴行をふるった証拠があります。あなたは黙秘権を行使できますが、映像証拠があることをお忘れなきよう」
オーディーがアダリーシアに向けた顔はどこまでも冷たく、ぞっとするほどだ。それなのに、ウルスラを見た時には、オーディーは驚くほど柔和な笑みを向けた。
怖い。
バルドリックを目の前にした時とはまた違う怖さが、オーディーにはあった。警戒していることすら悟られるのが、危険な類の。
映像証拠など、いつ撮ったというのだろう。ウルスラのピアスただの通信機で、映像を収めるほど高度のものではない。ウルスラの他の持ち物にも、そういった仕掛けはされていない。
「なぜ、怯えているんですか?」
丁寧な言葉はやめようと言っていたのに、オーディーの言葉はいつの間にか戻っている。口元は笑っているのに、灰色の目は笑っていない。蛇に睨まれた蛙のように、ウルスラは動けない。
その時、バン! と大きなをたてて扉が開いた。ウルスラは思わず、そちらに視線を向けた。オーディーはため息を吐き出しながら、ゆっくりと顔を向ける。
肩で呼吸をしているバルドリックが、扉によりかかるように立っていた。金色の前髪が、汗で額に張り付いている。
「やっと見つけた。オーディー、場所を知らせるならもっと詳しく言え」
「あまりに早く到着したなら、あなたは十分な証拠を得ないうちに飛び込むでしょう」
オーディーの言葉に、ウルスラは首をかしげる。その言い方だとまるで、オーディーは早くから到着していたような言い方だ。それも証拠を得るために、ぎりぎりまで動かなかったような。
あ、と気づいたウルスラは、申し訳なさそうな視線をオーディーに向ける。確実な証拠を得るために、オーディーはあえてぎりぎりまで手出しをしなかったのだ。映像証拠というのも、やはり彼がとったものだ。
疑ったことを謝ろうと口を開きかけた時、ごうっ、と勢いよく風が吹いた。
慌てて振り返ろうとしたウルスラは、風にあおられて転ぶ。
追い詰められた獣の顔をしていたアダリーシアが、自分の足元に魔法陣を展開していた。
「やめろ! こんな場所で高魔力魔法を使うな!」
慌ててオーディーが止めに入る。洞窟に満ちた魔力が、おかしな結合反応を起こした。アダリーシアを中心に突風が起きる。バルドリックとオーディーは自分自身に防御の魔法をかけたが、膨大な魔力に阻まれ、最初の突風で転がっていたウルスラのもとには届かない。
ウルスラの体が持ち上がり、土壁に向かって叩きつけられた。




