27 引き続きデート
ボートにはもともと興味があったし、と思いながら、ウルスラはバルドリックの手を借りてボートに乗り込む。
ウルスラたちよりも先にボートに乗っていたカップルは、オールは動くもののうまく方向を変えられないでいる。バルドリックはいとも簡単に沖に漕ぎ出した。周りにボートがいなくなったところで、漕ぐのをやめる。
バルドリックはウルスラを見てほほ笑んだ。ここは湖の中ほどだ。遠目には、バルドリックの表情は見えない。こんなところで演技をする必要もないはずだ。
ボートが向かい合って乗るものだということを失念していたウルスラは、間が持たなくて視線をそらした。湖面がキラキラと光を反しして美しい。湖の水は澄んでいて、中を泳ぐ小さな魚がよく見えた。もっとよく見ようとボートが落ちない程度に身を乗り出すと、影が映って魚はするりと逃げた。
バルドリックの視線が突き刺さっているのが、よくわかった。顔を上げたら最後、二度とそらせない気がする。ウルスラの体はだんだん緊張感でこわばっていった。
ふう、とため息の音が聞こえた。
「君は本当に俺が苦手みたいだね。そんなに緊張しなくてもいいのに」
俺が何かしたか? と聞いてくる。答えられるはずもない。あなたが前世で私を殺したからです、だなんて。しかも、殺されても構わないほど恋をしていたかもしれないんです、なんて。
「殿下は悪くありませんよ。私の心の問題です」
中途半端な記憶がよみがえるまでは、殺された影響で怖いのだと思っていた。だが違う。理由もわからず、ただただ怖い。
風が強く吹いて、湖のほとりの木々が揺れた。はらはらと葉が舞う美しさに見とれていると、バルドリックがウルスラに手を伸ばした。
バルドリックの指先がウルスラの耳に触れる。ウルスラの頬が熱を持った。
何かされるのかという警戒心を抱く前に、バルドリックは手を引っ込めた。
「葉っぱがついていた」
バルドリックは葉を指先でつまむと、くるくると弄んだ。
「前もこのようなこと……」
「ん?」
「いえ、何でもありません」
前も同じようなことがあったかと思ったが、違う。あれはナハトに取ってもらったのだ。バルドリックとナハトを重ねるなんて、どうかしている。
困惑したように眉尻を下げるウルスラに、バルドリックは優しく笑いかけた。
「もうそろそろ時間だが……このまま逃げるか」
ボート乗り場の近くに、例の黒服がいる。確かにこのままボート乗り場に戻らなければ、黒服を撒けるだろう。湖は奥側が森の中に入り込んでいて、ボート乗り場から見えない位置がある。
「このまま後をつけてもらった方がいいんじゃないですか?」
「このままだと、証拠を残さずに君が被害にあうだけだろうな。もっと怒らせないと」
バルドリックが言うから、そうなのだろう。反対の岸まで漕ぎ、そこで降りる。
バルドリックはボートに魔法を付与し、自動で帰るようにし、さらには延長分のコインを座席に置いておいた。そこまで気が回るのは、さすがといわざるを得ない。
「オーディーも撒いてしまったが……まあいいか。せっかくだ。下町を回ろう」
バルドリックは、いたずらめいた笑みを浮かべた。
何がせっかくだからなのか、ウルスラにはわからなかった。
ただバルドリックに手を引かれるままについていく。
バルドリックの言う下町に行くには、美術館のある公園を出た後にバスに乗らなくてはいけない。
路線バスには初めて乗る、というバルドリックのために、ウルスラは路線を確認した。一度街の中心部に出て、乗り換えなくてはいけない。
「いっそのこと、タクシーを」
「いや、バスがいい。まさか向こうも、俺がバスを使うとは思わないだろ?」
確かにそうだが、一国の王子を路線バスに乗せてもいいものだろうか。
美術館から中心部へのバスは頻繁に出ていた。前乗りで先払いのバスだ。ここに料金を入れて、と説明しながらウルスラが先に乗る。休日のバスは思ったよりも混んでいた。空いている座席はなく立ち乗りになる。つり革の位置がウルスラには高く、届かない。
「俺に捕まれば?」
バルドリックがそんなことを言うものだから、ウルスラは絶望した表情で彼を見てしまう。
「不敬だとは思わないから」
そういう問題ではない。だが何かに捕まらないと倒れてしまう。ウルスラは仕方なくバルドリックの腕をつかんだ。主婦らしき二人が「あの子たちかわいい」とささやきあう声が聞こえて、ウルスラは顔を赤らめてうつむいた。
あとから気づいたのだが、つり革ではなく座席でも何でも届く位置にある何かに捕まればよかったのだ。バスの乗り方は知っていても、乗り慣れないせいで失敗をした。
中心部に向かうほど、バスは混んできた。ウルスラたちはどんどん奥に追いやられる。小柄なウルスラは押しつぶされないようにするのが精いっぱいだった。
ふと体が楽になった。かと思うと、目の前にバルドリックの体があった。抱きしめるとまではいかないが、腕で空間を確保している。密着というほどではないが、距離がほぼゼロだ。
服越しに感じるバルドリックの体温と匂いは、驚くほど不快さがない。
「大丈夫か?」
真上からバルドリックの声が降ってくる。頭の中が真っ白になって答えられないでいると、聞こえなかったと思ったのか、バルドリックは身をかがめてウルスラの耳元でささやいた。
「大丈夫か?」
低い声が、温かな吐息がウルスラの耳をくすぐる。背すじがぞくりをと粟立った。
「だ、大丈夫です」
心臓が破裂するかと思った。これはまずい。前世の記憶に引きずられかけている今は特にやばい。
バスが街の中心部につくと、一気に人が降りる。やっと楽になった、と思うが実はウルスラたちもここで降りる。
はぐれないように、とウルスラは自らバルドリックに手を伸ばした。
(仕方ないじゃない)
ウルスラは言い訳をする。中心部は人が多い。絶対迷子になる自信がある。田舎から来て、初めて王都中心部を見た時、あまりの人の多さに目を回した。観光時期の故郷の人の多さどころではない。
バスから降りて、バス停で次の行き先をチェックする。バスはもうお腹いっぱいだ。できれば乗りたくはないものだ。
「このあたりにも市があるから、妥協しません?」
ウルスラが問いかけると、つないだ手を嬉しそうな表情で見ていたバルドリックが弾かれたように頭を上げた。
「何か言ったか?」
「わざわざ下町エリアに行かないで、このあたりでお昼にしませんか?」
「昼?」
「下町エリアに興味深い食事処でもありますか?」
下町エリアといえば、屋台系が多い場所だ。移動販売のアイスクリームを食べたり、バスに嬉々として乗ったり、きっとこの機会に普段のバルドリックとはおよそ無縁の場所を満喫したいがために下町エリアに行きたいと言ったのだと思ったが。
「いや、このあたりでも十分だ」
「じゃあ、行きましょう。完全に下町に行くよりも、殿下の口に合うと思いますよ」
「ああそうだ。ここでは殿下ではなく、リックと呼んでくれないか? さすがにまずい」
学園では、バルドリックの顔を知らないものはいない。だがこのあたりはどうだろう。成人を迎えていないバルドリックはまだお披露目がされていない。顔を知らないものの方が多いのだ。
「かしこまりました。リック様」
「それもちょっとどうかと思う。呼び捨てで。こちらも呼び捨てにする」
「ではリック、そこそこおいしい食べ歩き街があるので行きましょう」
手を放して歩き始めようとしたら、離した手をすぐにとらえられた。
「はぐれたら困るからな」
睨みつけるように見上げたら、そんな言葉が返ってきた。バスから降りた時ほどではないが、ひとたび人ごみに紛れ込んだら、確かに再会は難しそうだ。
「君が通信機でも持っているなら別だが」
「そんな高級なもの、持っているわけありませんよ」
登録さえしておけば、任意の人物と会話ができる通信機は、もともと職業用に開発されたものだ。それを一般でも使えるように改良した途端、流行に敏感な若者の間ではやり始め、今や一大ブームを巻き起こしている。恋人同士で持つと離れていても夜遅くまで会話ができるので大人気だ。
「この機会に買ってみては?」
「聞いてました? 高級すぎて買えないんですって」
確かにあれば便利だとは思う。実家と自分と一台ずつ持てば、わざわざ新聞などで村の状況を確認せずとも、親の声が直接聞けるのだから。ただいかんせん、高い。
「俺がプレゼントしよう」
「もらう理由がありません」
「今、はぐれると困る」
だから、はぐれないように手をつないでいるのではないか。固く握られた手に、ウルスラは不満そうな視線を注ぐ。
「ずっと手をつないだままと、通信機を持つの、どちらがいい?」
いたずらめいた笑みをバルドリックは浮かべる。正直、どちらもいやだ。手をつなぎ続けるのは落ち着かないし、購入してもらうのは身を売った気分になる。
「出世払いで、今日の分は返します」
ぎりぎりの妥協点がそれだった。バルドリックはやや不満そうな顔だったものの、納得はしたようだ。元来た道を戻り、通信機を扱っている道具屋に入る。
「相変わらず煌びやか……」
壁際にかかっているものもそうだがショーケースの中できらきらと輝いているものは、どう見てもただのアクセサリーだった。ほとんどがイヤリングやピアスの形状をしている。稀に指輪もあったが、刻む魔法陣の大きさ的に並大抵ではない技術が必要なので、桁が三つくらい違う。
もともと業務用はヘッドホンに集音マイクを取り付けたような形だったが、それではかわいくないからとハンナが小型化を図った。アクセサリー内に収まるように魔法陣を組み立てなおすのが大変だったと聞いている。これは絶対発展する分野だからと、小型魔法陣の特許はとらなかった。そのおかげて、各方面が参入し一大市場を築いた。通信機とアクセサリーを兼ねているのだから、売れないわけがない。
「こんなのはどう?」
親指の爪の先ほどの大きさのティアードロップ型だ。金色のチェーンの先で揺れる、青い半透明の中には金色の魔法陣が閉じ込められている。
バルドリックは顔の横に垂れていたウルスラの髪をそっと耳にかけた。それくらい自分でやれるのに、と抗議の声を上げかけたウルスラは、思いのほか真剣な顔のバルドリックに、何も言えなくなる。
金具部分を持って、バルドリックはウルスラの耳に当てた。
「今気づいたけど、君ってピアスつけてたんだ」
「故郷の村の風習ですよ。村を出るとき、いつかまた村に戻れますようにとおまじないをするので」
基本的に外さないので、していることを忘れる。
「ちょうどこの通信機もピアス型なんだけど。おまじないなら、イヤリングに着けなおしてもらおうか」
「というか、その通信機で決定なんですね」
「他に気に入ったものでもあった?」
「いえ、それでお願いします」
気になったのは、空色と金色という組み合わせだ。ティアードロップの形をした通信機はほかにもいろんな色がある。その中で敢えて、空色と金色の組み合わせを選んだのは何か意図があるのか。
バルドリックは店員を呼び、会計を済ませる。すぐに使うからといって包装はしない。店員は恋人への贈り物ですね。とニコニコ顔だ。通信設定もすぐにできますよ、というのでバルドリックの通信機とのリンクもつないでおく。
彼の通信機はイヤーカフだった。金をベースに、黒と赤の宝石が埋まっている。どこかで見たような組み合わせだと思うが、思い出せない。それほど重要ではないのだろう。
そう思いながら、ウルスラは村を出てから今まで一回も外すことのなかったピアスを外す。ウルスラの髪色に合わせたピンクゴールドのピアスは、なくさないように財布の中にしまった。
「じゃあ、今日一日はこれをつけていて」
そういってピアスを手渡される。鏡を見ながら、取り付けようとするが、自分でピアスをつけたことのないウルスラは手間取る。見かねたバルドリックが手を伸ばしてきてピアスをはめた。
「ひゃっ」
耳たぶに触れる手がくすぐったくて、変な声が出る。慌てて口を押えるが、時すでに遅し。ウルスラと目が合ったバルドリックはにやりと笑った。イヤーカフとは違いピアスタイプは二つそろって初めて魔法陣を発動させる。
もう片方の耳にピアスをつけてもらう時、ウルスラは顔を真っ赤にしていた。




