2 放課後
ぼんやりと目を開けると、ウルスラは見知らぬベッドに寝かされていた。
白い天井に、白いカーテン、白い布団と見た目はすごく清潔だ。消毒液の匂いが鼻孔をくすぐった。
ゆっくりと体を起こす。制服を着たままだ。限りなく黒に近い濃紺のブレザーに、赤いチェックが入ったリボンタイ、白いブラウス、白いプリーツスカート、そしてタプファー学園のイニシャルが入った紺のハイソックス。ベッド下を見ると、黒い革靴が置いてあった。ウルスラはベッドから降りて靴を履く。
スカートがしわにならないように伸ばす。スカートの裾には紺のラインが二本入っていた。ブレザーの袖にも二本のラインがある。このラインが学年を示す。
きっと保健室だろうと、隣のベッドとの仕切りのカーテンを開ける。保健室には誰もいなかった。他に寝ているものも、保健医も。窓から入る西日で、ウルスラは放課後であることに気づく。
「まじ……?」
進級式は午前中で終わっているはずだ。まだ日の入りが早いとはいえ、ちょっと寝すぎだ。
いや、待て。とウルスラは考え込む。本当に進級式当日か。夢の尺から言って三日くらいたっていてもおかしくはない。
そう、ウルスラは夢を見た。
夢というにはリアルすぎる夢を。
昔から、黒髪黒目の男に殺される夢は何度も見た。だが顔の輪郭は曖昧で、自分が何者であるかも曖昧で、ただの怖い夢でしかなかった。あの夢を見た翌日は、泣きながら起きて両親に慰めてもらったものだ。
きっとご先祖様からの忠告だから、今日は身の回りにいつも以上に注意しなさい、と両親は言っていた。注意したところで、ウルスラの周りで誰かが怪我をするのは絶えなかったが。
とにかく、あの夢は先祖の忠告ではなかったことが判明した。
あれは夢ではなく、ウルスラの前世だ。
ウルスラの前世は女魔王で、勇者に殺された。その勇者もまた転生している。しかも勇者候補で、王子だ。
「やばい」
顔からさっと血の気が引く。やっと目が覚めたのに、また気が遠くなりかけた。
もしウルスラの前世が魔王だとばれれば、また殺されてしまうだろうか。
頭を抱えて悩んでいると、廊下を歩く足音が聞こえた。身構える間もなく、ドアが開く。
「鞄持ってきたよ」
まるでウルスラがもう起きていることを知っているかのように、ハンナが顔を出す。やぼったい黒縁の眼鏡に、茶の髪をおさげにしている。正直言ってダサい。が、間違いなく優等生には見える。
事実ハンナは優等生だ。座学も体術も実習もすべてトップスリーに収まっている。ただほんの少し、変わった趣味を持っているだけだ。
ウルスラは自分の体を探った。見覚えのない時計が左手首にはまっている。時計のフレームには、ハンナが作った魔道製品である証の眼鏡の刻印が刻まれていた。ハンナは魔道製品を自作する変わった趣味を持つ。
「目を覚ましたら知らせが来るように、ね。そうしたら予想以上に寝たままでびっくりした。六時間なんて、仮眠のレベルを超えてない? 他の子たちなんて、せいぜい一時間ほどで起きたのに」
眼鏡の向こうの目を細め、ハンナは笑った。
「ありがとう。でも今までずっと学校に残っていたの?」
腕時計を返しながら聞く。
今日は進級式だけだ。昼前には終わっているはずだ。生徒会役員なら明日の入学式に備えて準備に忙しいかもしれないが、ハンナは面倒だからと役員を回避している。
「イム君と学校デートしてたからいいの」
語尾を弾ませ、ハンナはウルスラに鞄を渡す。ウルスラは鞄を受け取りながら、棒読みで返した。
「らぶらぶデイイデスネー」
イム君とは、イムルという名の勇者科の二年の生徒だ。勇者科と聖女科の校舎は違っても、物理的に行き来を禁止してはいないので、男女の出会いはある。本格的に交流が行われるのは二年だが、早い子は一年のうちから恋人ができるのはおかしなことではない。
「ウルスラもきっといい出会いがあるよ」
「おかしいな。一年生のうちに何回か告白はされたんだけど」
運動場も体育館も共有なので、それなりにかわいい子は目立つ。そして男子生徒から声がかかる。ウルスラも「それなりにかわいい子」に分類されるらしく、何度か声はかけられた。そして同じ数だけ「思ってたのと違った」と振られた。
「ウルスラは残念美人だから」
残念美人はどっちだよ、とウルスラはハンナを見る。ごつい眼鏡のせいでわかりにくいが、ハンナの瞼はくっきりとした二重だ。茶色い目が、面白そうにウルスラを見ている。
「あ、そうだ。ハンナ、鏡持ってる?」
眼鏡のレンズにうっすらと映る自分の姿に、ウルスラはふと不安を覚えて親友に聞いた。
「あるよ。ていうか、なんでウルスラは持ってないの?」
「自分の顔が嫌いだから、普段はチェックしない」
それでも、今は確かめたいことがあった。ハンナから折り畳みの鏡を受け取る。クラスでは今、折り畳み鏡にデコレーションするのが流行っている。ハンナも例にもれず、鏡をデコっていた。
ただし、一般的な女子とは感性が違う。
歯車やねじ、ナットやボルトがごてごてとついている。リボンやレース、ビーズの類は一切ない。
「これ、重くない?」
「重くても、そのフォルムに癒されるからいいの」
ハンナの感覚はよくわからない。
ウルスラは蓋を開いて鏡を覗きこんだ。室内でかろうじて分かる程度のストロベリーブロンドに、ヘーゼルの目の少女が鏡の向こうからウルスラを見ている。大きめの目にぱっちりとした二重、密度も長さも完璧な睫、通った鼻筋、ふっくらとした桜色の唇。きめ細かな肌は思わず触りたくなるほどだ。ウルスラの見た目には、魔王の要素など欠片も見当たらない。むしろ甘すぎるほど甘ったるい顔立ちだ。
身長もどちらかといえば低く、体つきも女性らしいウルスラは、守ってあげたくなるほどか弱そうに見えるらしい。実際体育などの様子を見ていると、常に最後尾を走っているのでとろそうに見える。手を抜いているわけではない。毎回一生懸命走っているのに最後尾だ。
そんな彼女が素手で蛇を捕まえたりするので、男子はひく。何だったらそのまま捌くこともできる。さらにひかれる。
「で? その嫌いな顔を確認してどうしたの? 一般的にはモテる顔立ちでしょ? まさか、本気で王子に惚れたの?」
「まさか」
どうやら、ウルスラが倒れた理由が、バルドリックの美しさに舞い上がった他の女子たちと同じだと思ったようだ。
ウルスラは、前世の顔立ちとの類似点を確認しただけだ。どちらかというと精悍な顔つきの魔王から、今のウルスラを想像はできない。勇者とバルドリックも顔立ちはどちらかといえば違ったから、転生しても必ずしも同じ顔というわけではないようだ。ただ、魂が同一というだけで。
ウルスラは礼を言いながら鏡を返す。さすがに前世が魔王でしたなんて、親友にも言えない。
ハンナは少々不服そうな顔をしたものの、深く追及はせず、鞄に鏡をしまった。何気なく鞄の中を見てしまったウルスラは、ちらりと見えた新聞の見出しに目を奪われる。
わざわざ購入しない限り、鞄に新聞が入るようなことはない。
「ハンナも怪盗なんかに興味があるの?」
「ああ、これ?」
ハンナは鞄から新聞を出した。一面には『怪盗、またも盗み出す』の文字がでかでかと書かれていた。警察の威光など気にしない、零細出版社の発行したゴシップ新聞だが、最近、街でよく見る。市民も警察のご機嫌伺いのような記事よりも、このように面白おかしく書き立てる新聞のほうが好きなのだろう。
記事はタイトルの通り、スティード王国、特に王都を騒がせている怪盗ナハトについて書かれていた。正体不明の怪盗は、絵画などの美術品や貴金属を盗み出している。魔力が相当強いらしく、侵入不可の場所にも侵入し、見事盗みを働いて無事逃げおおせる、警察も手を焼いている悪党だ。今回盗みだされたものは三百年前に実際に使われていた『聖女の腕輪』だった。
「忘れてた。ウルスラに渡そうと思って。見せたかったのはこっち」
そういってページをめくる。二面の隅の方ではあるが、写真はカラーで載せられていた。
「魔ガモ!」
ウルスラの故郷が載っていた。ちょうど魔ガモの繁殖期で、子魔ガモが生まれたという記事だ。
魔ガモは魔獣の一種で、大型犬ほどの大きさのカモだ。魔獣だからといって人を襲うことはないが、警戒心が強く人前に出てくることはない。ウルスラが住んでいた村の魔ガモ以外は。
「生態研究のチームが組まれて、行ってるんだってね」
しかも、観光ツアーまで組まれているようだ。何もないような村だが、観光客が金を落としていってくれれば、村が潤う。
「魔ガモ、かわいいよね」
趣味がちょっとおかしいハンナでさえ、写真の魔ガモにうっとりと見とれる。写真でこれほどなのだ。実物はもっとメロメロになる。特に雛、ふさふさの羽毛はまるで子猫のようにやわらかい毛で、思わず触れてしまいそうになる。そして触れれば最後、そこからは動けなくなる。そして気づいた時には、魔ガモは姿を消しているのだ。
魔ガモ最大の特徴。それは。
「癒されるー」
見る者、触れる者の心をとらえて癒し、すべてのものから攻撃意欲を奪ってしまうことだった。