16 警告
「疲れた……」
オーディーにピタリと張りつかれ、いつも以上に気を使ったウルスラは、寮につくと同時にベッドの上に転がった。
室内には甘い香りが漂っている、ウルスラはごろんと寝返りを打って机の上を見た。大きめの花瓶に、黒と紫の薔薇が活けてある。それを見ているウルスラの口元がほころんだ。
好きな人からもらう花束は、どんなものでもうれしい。黒バラは苛烈な花ことばが多いが、たぶん色重視で選んだのだろうと思うことにする。
このまま目で楽しむのもいいが、花はいずれ枯れる。ウルスラは一部をポプリにしようとベッドから起き上がった。あと、花のお礼にクッキーを焼こう。
ウルスラのクッキーをかなり気に入ってくれたようで、何度かねだられ、作っている。
昨日、ウルスラはナハトにもう来るなといったが、彼はまた来るといったのだし、できるだけ早いうちがいい。ポプリを後回しにして先にクッキーだ。
食堂に向かおうと扉に手をかけた時、ノックの音が響いた。
そういえば、実習も終わったことだし、そろそろ人探しの魔道具を作りたいから部屋に行くねとハンナが言っていた。実習までは、巨大調理魔道具を作ると意気込んでいたハンナの手がようやく空いたのだ。
本当は人探しの魔道具はいらないのだが、開発できれば迷子や家出人、徘徊老人の保護に役に立とだろうから、一緒に開発してもいいかもしれない。
ウルスラは何の警戒もなく扉を開けた。訪問者を見て表情がすぐに曇る。
「アダリーシア・アイン・シュティルベルト様」
いったん帰ってから来たのだろう。シンプルな形のドレスを着たアダリーシアがウルスラを睨みつけていた。
貴族寮と一般寮は少し離れたところにある。わざわざこんなところにまで出向いて、一体どういうつもりなのか。
ウルスラはとりあえず、部屋の中に入ることを進めた。
「遠慮いたしますわ。そのようなドレスさえ入れられない小さな部屋は窮屈すぎます」
言外にウルスラの寮部屋がアダリーシアの所有する衣裳部屋よりも小さいと言う。
「ではそのまま立っていてもらっても?」
ウルスラが尋ねると、アダリーシアは持っている扇子を上に向けた。
いったいどこに控えていたのか、アダリーシアの取り巻きが籐で編んだ椅子を部屋の扉の真ん前に置いた。アダリーシアはゆったりと椅子に座る。取り巻きの一人がカップとソーサーをアダリーシアに手渡す。
滑稽なやり取りだが、笑うに笑えない場面でもあった。アダリーシアの表情は至極真面目で、それでいて鋭くウルスラを睨みつけている。
「ウルスラ・ラウラ。警告は覚えておりまして?」
「殿下に近づくな、でしたっけ?」
こまごまといわれた気がしたが、要約するとそういうことだ。アダリーシアは紅の引かれた唇を満足そうに歪めた。
「ですが、あなたは今日、殿下に近づきましたね? 否定の言葉は受け付けませんわ。目撃証言はたくさんあるのです」
び、と扇子をウルスラに突き付ける。
ウルスラから近づいたのではなく、向こうから話しかけてきたのだ。それは不可抗力ではないだろうか。
「不満そうに人を見くだすのはおやめなさい。所詮平民は貴族にはかなわないのでから」
見くだしているのではなく、見降ろしているのだ。アダリーシアは椅子に座っているが、ウルスラは立ったままなので、自然に視線が下がる。
紅茶を飲み干したカップを取り巻きに預け、アダリーシアは扇子を閉じたり開いたりした。もはや、何をしたいのかよくわからない。
「いいですか。ウルスラ・ラウラ。これは二度目の警告です。殿下には二度とお近づきのないよう。王位から遠いとはいえ、まぎれもなく高貴なお方。下賤な輩を近づけるわけにはいかないのです」
アダリーシアは優雅に立ち上がると、籐椅子を取り巻きに片づけさせた。
「もしこれ以上殿下に付きまとうようでしたら、こちらにも考えがありましてよ?」
優美に磨かれた爪で、扇子をはじく。
「これからも太陽の下を歩きたくば、警告に従ってくださいな」
貴族らしい傲慢で繊細な淑女の礼をとると、アダリーシアは取り巻きを引き連れて去っていった。
完全にその姿が見えなくなってから、扉をそっと開けて隙間から様子を見ていたクラスメイトたちがわらわらと廊下に出てくる。
「なに、あれ」
「よくわからないけど、何かがすごかったのは分かる」
「まあ、でもウルスラは気にすることないよ。パートナーの件もあるし、殿下と会わないなんてことできないでしょ?」
口々に思っていることを言い盛り上がる。つまり、ウルスラを応援する言葉に集結する。
純白の聖女の再来ともてはやされ、教師や他学年からの見る目が変わっても、クラスメイト達は変わらない。いつも通り接してくれるのがうれしかった。
「ありがとう」
お礼を言ったウルスラは、はっとして時計を見た。夕食までまだ時間はあるが、そろそろ準備を始めるので台所に入れなくなる。ウルスラは慌てて食堂に向かい、何とかオーブンの使用権を獲得した。
何の失敗もなくクッキーを焼き上げ、準備を整えて部屋に戻る。
だがその日、ナハトは来なかった。
翌日もオーディーは寮の前でウルスラを待っていた。
ウルスラは気が重いなと思いながらも、本来の仕事を放り出さざるを得ない彼に、ほんの少しだけ同情する。
「これどうぞ」
ナハトに渡せなかったクッキーをオーディーに押し付ける。最初にナハトに渡したものと違って、ラッピングもきちんとしたものだ。
やや面食らった表情を浮かべながらも、オーディーはしっかり受け取った。
「えーと、バルドリック殿下あてにですか?」
「なんで殿下が出てくるんですか。私を今守ってくれているのは、オーディーさんですよ」
「ありがとうございます」
受け取った袋とウルスラの顔を何度か見比べて、オーディーは口元に笑みを浮かべた。そういえば、オーディーの笑顔を見るのは初めてかもしれない。普段はわりとにこやかな顔をしているが、笑顔とはまた違う。
「さっそく食べてみても?」
「どうぞ。できれば感想をもらえるとありがたいです」
ウルスラが頷くと、オーディーは丁寧に包装を解いた。二年になってからたびたび焼いていたため、かなり上達したクッキーは綺麗な丸の形をしている。オーディーは一口ではいかず、食感を確かめるようにクッキーに歯をたてた。サクッと音をたて半分になる。
味わうようにゆっくりと咀嚼すると、目じりを下げながらウルスラを見る。残りのクッキーを口に放り込むと満面の笑みを浮かべた。
「おいしい。殿下が癖になると言っていた理由もわかります。飽きがこないんですね」
「二人とも、普段からぜいたくなものを召し上がっていらっしゃるでしょうからね。この味が新鮮なんですよ」
ウルスラは小さな笑みを返しながら歩き始める。オーディーは少し離れた場所を歩き始めた。ウルスラはため息をついて後ろを振り返った。
「視線を感じながら歩くのは気持ち悪いので、せめて隣りを歩いてくれませんか?」
「あまり近いと、いざという時に守れません。ある程度離れている方が視界を広く取れていいんですよ」
オーディーは生真面目にウルスラとの距離をきっちりととる。
「貴族の人に丁寧な言葉で話しかけられるのも、なんか気持ち悪い」
「勘違いされているようですから言っておきますが、俺は一般市民ですよ。確かに騎士の家系ですけど、うちは分家筋なのでやはり貴族くくりではないんですよね。殿下と年の近い目付け役が俺くらいしかいなかったから、たまたま役割が回ってきてだけです」
「……だったらなおのこと、敬語を使う必要ないと思いますけど」
「あなたが敬語をやめるというのであれば。俺は一応ウルスラ様の護衛を任されているので、あなたを主と同等の扱いをしなくてはなりません」
「ごめん、ウルスラ『様』もやめて」
「ウルスラさん?」
オーディーに呼ばれて、ウルスラは首をかしげた。さん付けもなんか違う。
「ウルスラちゃん?」
ちゃん付けに関しては、勢いよく首を左右に動かして拒否した。女性にちゃんをつけていいのは、十五歳までだ。
「もう呼び捨てでいいんじゃないかな。一般クラスはみんなだいたい呼び捨てだし」
「ではウルスラと呼ばせてもらいます」
「丁寧な言葉もなしで」
「ウルスラもね」
ウルスラは貴族クラスの制服を見て反射的に丁寧語が出るだけだ。しかもきっと、ろくな敬語になっていないこともわかっている。王族や上級貴族に対して使う敬語など、一般市民では習う機会もない。
「せめてその制服が視界に入らないなら、丁寧な物言いにはならないと思いま……思うけど?」
「うん、頑張っているのはいいことだ。でもなぜ急に呼び方や口調に注文を?」
「オーディーの護衛はしばらく続くでしょ? できるだけ自分に楽な環境を作っておきたいの。肩ひじを張っている状況が続くのはしんどいから」
なるほど、といいながらオーディーはウルスラの隣に並んだ。そのまま歩き出す。どうやら歩く位置については妥協してくれたらしい。
「あまりに堅苦しくて逃亡を図られるのも困るから、しばらくはこの距離でウルスラを護衛するよ」
ウルスラを見降ろしながらオーディーはいたずらめいた笑みを口元に浮かべた。堅苦しいから逃亡するというのは、きっとバルドリックのことだろう。
見上げる位置にあるオーディーの顔を見て、ウルスラも口元を緩める。目線は、バルドリックを見るときよりも低くて首が楽だ。
その後、二人は共通で知る教官や授業について話しながら校舎に向かった。




