14 黒バラと紫バラ
手のひらに暖かな感触を感じながら、ウルスラは目を開けた。
見慣れた寮の部屋が視界に入る。夕方なのか、あるいは朝方なのか、窓から見える空は赤みを帯びた紫で、部屋の中は薄暗い。
確か校外実習に行っていたはずなのだが。それともあれは夢だったのだろうか。じつに変な夢だった。
校外実習で、出るはずのない凶悪な魔獣が出た。そして親友のハンナの恋人が死んだ。
ウルスラは泣きながら、自分でもわけのわからない魔法を使った。魔法陣自体には全く意味がない。ただただ魔力を直接叩き込んだだけだった。そんな無茶なことをすれば、反動で自分の体が壊れることくらい、基礎で学んだというのに。
左手は何かに抑えられて動かなかったので、右手を持ち上げて確かめる。
夢では黒焦げになり、おそらく神経も死んでしまっただろうに、今は綺麗な状態だ。
やっぱり夢か。ほっとしたウルスラは視線を動かして硬直した。
ウルスラの左手に手を重ねたバルドリックが、椅子に座ってうたた寝をしている。
どこから突っ込めばいいのかわからなくて、ウルスラは戸惑った。
なぜウルスラの部屋にバルドリックがいるのか。なぜ手を握られているのか。なぜうたた寝をしているのか。
思考が停止した状態でバルドリックを見つめていると、閉じられていた瞼がうっすらとあいた。暗闇でもなお明るく輝く青い目がウルスラを見据える。
「起こしてしまいました?」
ウルスラは思わず聞いていた。なんとも的外れな質問だ。もっと聞くこともあっただろうに、とウルスラは後悔する。
「いや、寝ていない。君に魔力を供給していただけだよ。空っぽだったから」
空っぽになるほど、魔力を使っただろうか。不思議そうに見上げるウルスラに、バルドリックは説明した。
「空間転移で俺たちは一足先に戻ってきた。他の奴らは予定通り明日帰る。まあ、今回は実習どころの騒ぎではないが」
「実習……」
「魔力枯渇の弊害か、一時的に記憶が混乱しているようだな。とりあえず教えておくが、君が助けたあの男は今のところ後遺症もなく回復傾向にあるようだ。彼の恋人も今夜は寝ずの看病するといっているし、問題はないだろう」
恋人、という単語に、ウルスラは顔を跳ね上がる。飛び起きてバルドリックに迫った。
「無事なんですか!?」
あれは夢ではなったというのか。
「そうだといっている」
興奮するウルスラをなだめるように、バルドリックは彼女の頭を撫でた。興奮していた感情が、少し落ち着いた。
「無事だったんだ」
ほっと息をつく。誰かを助けることができたのがうれしくて、ウルスラの口元に笑みが浮かんだ。
「殿下、そろそろお時間です」
影がもぞりと動いてバルドリックに話しかけた。
密室に男女が二人きりだとまずいからだろう。オーディーがそばに控えていた
「大がかりな魔法を使って疲れているだろう。明日はもちろん、数日休んで養生するといい」
相変わらずの無表情でバルドリックはそれだけ言うと、部屋を出て行った。
翌日、ウルスラは使い切った魔力を補うように、食事もとらず一日爆睡した。あれだけの魔力を失いながら体調が悪化しなかったのは、バルドリックがある程度補ってくれたからだろう。
夜中に目が覚めた時、ドア下に手紙が挟んであることに気が付く。ハンナからのお礼の手紙だった。感極まりながら書いたのか、濡れた後がいくつかあった。読んでいるうちにウルスラ自身も涙ぐみ、手紙のシミが一つ増えた。
最後まで読んで、目を閉じる。手紙にはとても大切なことが書かれていた。それを知らせたくて、ハンナは筆を執ったのだろう。深く息をつき、ベッドから降りた。今後の身の置き所について考えなくてはいけない。
大事なことを考えていたのに、お腹がグウと鳴った。
ほぼ丸一日食べていない。お腹が空いたウルスラは、のろのろと食堂に行った。食事担当者は当然もういない。食糧庫の中を探し、簡単なものを作って部屋に戻る。
カーテンが揺れていた。もちろん、ウルスラには開けた記憶などない。前にもこんなことがあった。
「ナハト?」
ベランダに向かって呼びかけると、ガラスの扉がからりと開いた。
相変わらずの黒づくめの服に、顔の上半分を覆う仮面。黒い髪はベランダから入る風に少しだけ揺れていた。紫の目が優しくウルスラを見る。
先ほどの手紙の内容を思い出し、ウルスラは自分の服の裾を握りしめた。
「三日ぶり。今日はお見舞いに来たんだ」
ナハトはウルスラに花束を差し出した。黒いバラと紫のバラは彼の髪と目の組み合わせだ。ウルスラはベランダに近づき、花束を受け取る。受け取った花束からは甘い香りがした。
「君の武勇伝を聞いたよ。まさか、死者すらよみがえらせるとは」
夜の静けさに寄り添うようにそっと、ナハトはささやいた。
「相変わらず、情報が早いですね」
室内に招き入れながら、ウルスラは苦笑する。彼には会いたくはなかったが、とても会いたかった。嬉しさと悲しさが同時にこみあげる。
「君よりもたぶん、多くの情報を持っているよ。魔の森で君たちを襲った魔獣は、おそらく人が飼っていたものだろう。森をもう少し進んだ先に、飼育の痕跡が見つかった」
巨牙熊の出現地点から考えて、何者かの思惑が絡んでいるのは当然のことだった。誰が、何のためにそれは目下のところ捜査中だと、ナハトは続ける。
「驚かないんだな。もしかして、もらった手紙にでも書かれていた?」
「じゅうぶん驚いていますよ。手紙をもらったことも知っているのも、驚きです。内容は別のことです。今回の件で、私に監視が付くようです」
ウルスラは監視という言い方をしたが、正確には護衛が付くことになった。ウルスラは、国にとって使えるものだという証明をしてしまった。イムルの件は、まだ死んでいなかったので厳密には死者蘇生ではない。だが広範囲における怪我人の完全治癒は、前代未聞の魔法だった。他国に知られれば、誘拐という恐れもありうる。ウルスラを狙うものからの護衛、そして逃亡しないようにとの監視だ。今、この時も見張られているかもしれない。
「そのようだな」
ナハトはあっさりと肯定する。
「学園は確実に卒業できるので、それに関しては喜ばしいことです」
ただ、卒業後に村に帰ることはかなわないかもしれない。医者も、治療師もいない村で、ウルスラはみんなをいやす存在になりたかったのに。
ウルスラは、ナハトに告げなければいけないと思ったことを告げた。
「もう、ここへは来ないでください。見つかれば、最悪死刑です」
ウルスラは監視されるのだ。接触を続ければ、いずれナハトの存在が伝わる。
「いやだといったら?」
ナハトはウルスラの前まで来た。紫の目と視線が絡まる。こうして会えるのがうれしい。けれど、それはとても危険なことだ。
「協力はできません」
ナハトが今盗み出そうとしているものについては、聞いたことがない。危険だから教えられないといっていた。それほど重要なものを盗もうとしているのだ。失敗すれば無事ではない。もしかすると、それは死を意味するかもしれない。
「もう、誰かが死ぬのを見たくないんです」
前世で、ウルスラのために犠牲になった者たちを思い出す。あれだけ犠牲にしておきながらも、結局はウルスラも勇者に殺されてしまった。
そしてその勇者はウルスラと同じ時代に転生した。
今のウルスラは魔王ではない。攻撃魔法は一切使えず、体も貧弱で、勇者に殺される理由など一つもない。だが、その勇者が犯罪者であるナハトに剣を向けないとは限らないのだ。勇者に体を貫かれた魔王と、目の前の怪盗の姿が重なる。いつか、ナハトがバルドリックに殺されてしまうのではないかという不安に駆られる。
「私は死なない。目的を達成するまでは」
そう。かつても、みんなそう言った。そういって死んでいった。
ウルスラはきゅっと唇をかみしめた。どうすれば、この人は引き下がってくれるのか。たぶん、ナハト自身やウルスラの身の危険を説いたところで、何があっても守ると断言してしまうだろう。ナハトの魔力は強い。おそらくバルドリックと並ぶほど。
巨牙熊を一撃で倒してしまうバルドリックと同等の力を持つナハトに、危険を主張しても意味のないことだ。
「好きな人がいるんです。こうやって会うのは、その好きな人に対して不誠実なので」
紳士的なナハトのことだ。こういえば二度と接触しては来ないのではないか。そんな浅はかな思いで、ウルスラは嘘をつく。
ナハトは紫の目を見開いた。
「好きな人がいるから会えないって……いや、そうだな、君は普通の女の子だ。普通はそれが切実な問題だ」
手のひらで口元を覆い、ナハトはにらみつけるようにウルスラを見た。
「その好きな人って、バルドリック?」
「違います」
言ってから、ウルスラは失敗したことに気づく。ナハトにとっては、盗んだものを何度か取り返されているバルドリックは鬼門のはずだ。ウルスラが好きな人がバルドリックなら、情報が流されるかもしれないと恐れて、もう二度とこないかもしれない。
「じゃあ、誰?」
「……教えません。きっとその人に何かするでしょう?」
一瞬、イムルの名前が浮かんだが、即座にリストから消去した。彼だということにしておけばいろいろと都合がいいが、偽りとはいえハンナとライバルになるのはあまりに悲しい。かつてウルスラを振った男たちの誰かにしようかと思ったが、不思議なことに名前を一切思い出せない。結局、何とかごまかすしかなかった。
「確認するが、本当にバルドリックではないんだな」
「違いますって。あの人はどちらかといえば苦手なんです」
確かに、学園に入ってから一番過ごした時間の長い男性ではあるが、前世で自分を殺した男だという認識が根底にあって、そういう感情を抱けない。
「そうか。今日のところはひとまず下がろう。君が心配になって見に来ただけだから。あきらめたわけではないから、そのことを忘れないでくれ」
風と共に、ナハトの姿は消える。
あとには泣き出しそうな表情のウルスラと、甘い香りを漂わせる花束が取り残された。




