旅立ち前のひと時
少しずつ見慣れた棚田や岩山の風景へと移ろいでいく。賑わっていた人の声の代わりに、田に棲む虫の鳴き声が静かな道に音楽として奏でられた。
徐々に興奮も冷め、慣れた景色を眺めると何とも言えない安心感がユラの心に沁み、疲れを感じた。今まで、余計な力を入れていたのだと知る。ひとつため息を付くと、それに気づいたツーロウが心配そうに足を止めた。
「疲れたかい?少し休もうか。」
ユラは断り、歩くよう促す。
「疲れたのもあるけれど、あぁ、家に帰ってきたなぁ、と思ったの。」
ユラは学舎での出来事を思い返し、ふと気になったことを問うてみた。
「そういえば試合の時、ノウラさんだけ手を挙げなかったね。」
ツーロウは記憶を手繰り寄せ、あぁそれは、と付け話す。
「いつも試合をするとき、ノウラが相手になるからね。わざわざ手を挙げて試合するほどでもないだろうと思ったのではないかな。」
一呼吸置いた後に、ツーロウは続ける。
「それにノウラの方が強いから、気を遣ったのかもしれないな。」
悪戯な笑みをユラに見せたが、後ろめたさを感じていることを目が語っていた。
踏み入って良いものか迷ったが、ユラは決心して尋ねる。
「ノウラさんが次期村長を辞退したの?」
この村の村長は、力と勇気を持った者が選ばれる。ユラの父ヤヌイ曰く、武術に自信のある者が集められ、力比べが行われるという。獣が起き出す春に、凶暴な獣を狩ってその力を競い、次期村長を決めるのだ。
ツーロウは沈黙の末、首を振った。
「いや、私も何故自分が、と思っているんだ。今回の試練は予想外な出来事があったから。」
話が長くなるという理由で詳細は話さず、真剣な表情でユラを見る。
「ただ、選ばれたからには名に恥じぬよう努めようと思っている。その為に、今も武術を学んでいるのだ。」
ユラはまだ解せぬ表情だったが、ツーロウの硬い表情は和らぎ、すっと前を指差した。
「貴方の家が見えてきた。今日は貴重な時間をありがとう、ユラ。」
途中、坂道へと続く道を曲がると、遠くにユラの家が姿を現した。遠くからでも判断できるのは、家の裏に佇む小さな岩山のお陰だ。
ユラとツーロウは顔を見合わせ笑う。
「こちらこそ、楽しい時間をありがとう。遠いのに、送り迎えまでしてくれて。」
屋根に突き出る煙出しから白い煙が立ち昇っている。北の空は深い青が滲み、橙に焼けた空を包んでいく。一の地区を出た時には薄青だったはずの空は、すっかり夕暮れの顔に変わっていた。
「それでは、また三日後。」
ユラを家の傍まで送り届け、礼を言う間もなくツーロウは颯爽と帰って行ってしまった。姿が見えなくなるまで岩山で見送り、ユラは家の中へ入った。
見慣れた家と、見知った顔に一息つく。オネが気付き、前掛けで手を拭い笑顔で出迎えてくれた。
「お帰りユラ。どうだった、一の地区は?」
興味津々と顔に出ているオネ。ユラが今日の出来事を興奮気味に話すと、オネは宙に空想を描き話を楽しんでいるようだった。ヤヌイは地形を把握しているようで、弁当の話では笑顔で同調した。
「たしかにあそこの弁当は美味いな。学舎からなら近いだろうし、良い商売している。」
夕食を食べ終わるまでユラの話は続き、一つの話題に焦点が置かれた。
帰り際、時間がかかるという理由でツーロウが教えなかった試練の話だ。ヤヌイなら何かしら知っているだろうとユラが尋ねると、しかしヤヌイは眉に皺を寄せ首を振る。
「試練を受ける十数名の若者と村長、あとは守役のみで行われる行事だから、私が知っているのは試練の粗方な内容だけだな。」
「それでも良い、どういう試練なの?」
ヤヌイは食べかけの器を置き、腕を組んだ。記憶を手繰り寄せ言葉を区切りながらユラに説明してくれた。
「たしか―猪の群れを若者たちが狩って…その様子を見て、村長が次期村長を決める、というものだったな。」
ヤヌイや村の民は基本、罠にかかった猪を持って帰るのだが、試練では数頭の生きた猪を若者全員で狩るという試練らしい。怪我や最悪死に至ることもある危ない試練だが、伝統ある試練だという所以で今尚続いている。
ツーロウが話した“予想外”の言葉がユラは気になったが、答えが出るわけでもなく、とりあえず試練の内容を知れただけ心が晴れた。ツーロウは恥だと言わんばかりの悲しみようだったが、武術に優れているのは間違いない。話す機会があればいつか聞けるだろうと、この話題を終わりにした。
旅に出るよう言い渡されてから一度も棚田に出ていなかったユラは、最後の一日は母と共に棚田の様子を見に回った。相も変わらず緑の美しい棚田は、大きくなった苗が雨に打たれ揺らされている。
ここ最近、雨と晴れを繰り返し雨季が近付いていることを告げていた。村を旅立つ前日も雨が降り、二人は薄い外套を羽織り雨を凌いでいる。
途中振り返りながら棚田の頂上まで上ると、坂の一番下は霧に覆われ見えなくなっていた。ユラの家は坂の中央に位置しているのだが、それすら霞んで見える。日のない空はどんよりと曇り、肌寒い。
オネはユラを大きな木の根元へ呼び寄せ、持ってきていた竹の水筒を開けた。
「少し寒いでしょう、これ飲みなさい。」
同じく竹で出来た茶碗に、温かい茶を注ぐ。立ち昇る湯気を嗅ぐと、鼻がじんわりと温まり良い香りが抜けていった。
「いただきます。」
ユラが一口飲み、満足げに息を吐くのを見届け、オネも自分の茶碗に茶を注ぎ啜った。
棚田と森の緑以外白んで見える風景を眺め、二人はしばらく余韻に浸る。体に温かい茶が行き渡ると、体の強張りが少しずつ解けていくように感じた。
「ユラ、母さんね、お守りをつくったんだけど…」
オネは水筒を入れていた袋から、手の平に収まるお守りを取り出した。ユラの少しかさついた手に置かれたお守りは、手織りでつくられたものだった。
「わぁ、綺麗。裏が家の文様になってる。」
表と裏に違う文様が織り込まれ、裏にはユラの家の目印となる二つ目を縦に並べたような文様が、小さなお守りに収まっている。
「そう。表は、昔から伝わる旅の安全を願う文様よ。」
首飾りに付けられるように、とお守りには短い紐が通され、オネが器用な手つきで首飾りに結び付けた。
ユラは礼を言い、首飾りを手に取って眺める。蜜色の石の脇に新品の小さなお守りが付き、鮮やかな首飾りになった。複雑に編まれた文様は多彩で、不思議にも石と調和されている。
「ユラが、楽しく旅ができますように。」
そう願ったオネは、優しさに満ちた表情で微笑んでいた。