我が町
旅に出る日まであと三日となった昼、ユラは自宅前から棚田を眺めていた。今日も天気は良く、棚田の背後に聳える青々とした山と麓の森、青空が眩しく映える。大小の岩山は所々から生え、厳かに佇んでいた。
山と森を囲むように延々と続く棚田は、はるか遠くを眺めても変わらない。規模の大きい村だが、現在の村長と先導者がまとめてくれている。
まとめると言っても大きな争いごとはなく、その役を使うのは大切な行事の時や細々とした雑務なのだろう。
真の先導者とは言えど、それが変わることはない。父の言う通り、気負いせず旅を楽しめばよいのだ。そう考えると、ユラは心が軽くなるのを感じた。
家の北側に立つ小さな、しかし家よりも高い岩山に足を向ける。ユラは当たり前のように軽々と跳び、家の屋根を伝って岩山の頂上へ乗った。
ユラは小さい頃から身体が丈夫で、飛び抜けた脚力を持っている。近所の子らと遊ぶ時もその力を存分に活かし羨望と信頼の眼差しを受けていた。今も尚、その脚力は劣らずむしろより強くなっている。ユラが気に入っている岩山も、登れる数が増えた。そのお気に入りの一つがこの岩山だった。
棚田から受けるよりも強い風を顔に受けつつ、南に広がる風景を眺める。今日は雲がなく空気が澄んでいるため、はるか遠くまで見渡せた。
(外の世界か…)
岩山からはとても小さく見える彼方の山を見据え、高鳴る鼓動に身を任せる。まだ見たことのない世界を知ることが出来る喜びと不安の中、鼓動と共鳴するかのように、蜂蜜のような石が光った。
坂道を上ってくる一つの人影が視界に入り、ユラは目線を移した。まだ遠く、米粒ほどにしか見えない。だが、ユラにはその人影が誰のものなのか分かっていた。
近くまで来るのを待ち、端整で色白な顔を認めると軽やかに降りていく。家の前の坂道を下りると、目の前に先日の男が微笑を浮かべ待っていた。
「覚えていて下さってよかった。帰る間際の短い時間にお伝えしただけだったので、心配しておりました。」
瞳と同じ黒の柔らかそうな髪が風に煽られ乱れているが、気にする素振りもなくユラを真っすぐ見る。ユラもまたこげ茶の瞳で見上げる。
「次期村長であるツーロウさまのお言葉を忘れるなんて、そんな失礼なことはしません。今日はよろしくお願い致します。」
立ったまま、両の掌を胸の前で合わせ、深々と頭を下げた。ツーロウもまた、苦笑しつつ同じ最敬礼で返す。
村長とツーロウが来た日、ツーロウは帰り際にユラに約束を取り付けていた。長い間共に旅をするにあたり、少しでも互いのことを知っておいた方が良いだろう、と話し合いの場を設けてくれたのだ。
「ユラさんは、私の住む地区に来たことがないと聞きました。少し歩くのですが、来てみませんか?」
微笑を浮かべ返事を待つツーロウに、ユラは目を輝かせ頷く。
「是非!一度行ってみたかったのです。」
ツーロウは答える代わりに踵を返しユラを振り返った。ユラも一歩後ろに立ち、共に歩き始めた。
村は大きな山の周りを囲むように形成されている。全部で五十の地区に分けられており、一から十の地区が学者や商人が住む商い地区、十一以降の地区はユラのような農民が住む地区となっている。商い地区には学舎や店があり、村の中では発展した場所だった。
ツーロウもまた商い地区に住んでいる若者だ。その中でも山の南側にある一の地区に住んでいるということを、ユラはヤヌイから聞いていた。ツーロウの父が武術を教える学舎を営んでいるようで、本人もその才能を受け継いでいると、ヤヌイの熱のこもった口調が耳に残っている。
父は毎年米を収めに出向いているため知っていたのだろう。ユラが付いて行けるような場所ではなく、いつも指を銜える思いで見送っていたのだ。だが、今回は正々堂々と訪れることが出来る。ユラは早くなる足を抑え、ツーロウについて行く。
「そういえば、名前以外何も知りませんね。色々と教えていただけますか?」
ツーロウの言葉で我に返り、ユラは顔を赤らめた。
「そうですね、すみません。年は十五になります。母と共に米と野菜を育てて生活してます。ツーロウさまは、武術に長けていると聞いたのですが…。」
言葉を継ごうとした時、ツーロウが小さく笑った。驚き見上げると、ツーロウは困ったような照れているような、曖昧な顔でユラを見下ろしている。
「難しいことかもしれませんが、ツーロウ、と呼んで下さい。それに、丁寧な言葉ではなくありのままの姿を知りたくて今日は参ったのです。…どうでしょう?」
微笑を湛えたままユラを見つめる。色白な肌を引き立てる黒い瞳に思わず引き込まれ、ユラは頷くしかなかった。
「分かりました、努めます。ですが、それはお互い様だと思います。」
ユラが眉根を寄せていると、ツーロウは再び歩き出し片手で顎を撫でる。
「そう、ですね。…では、お互い努めよう。私の年は二十四、武術の学舎を営む父の元で様々なことを学んできた。旅中、貴女をお守りしよう、ユラ。」
口を一文字に閉じ眉をぎゅっと寄せているツーロウは、なぜか初めて会った時より若く見えた。
お互いの身の内話や、地区の特徴などを話し合いながら、二人はゆっくりとした足取りで一の地区へと向かって行った。
投稿が遅くなってしまいました、
申し訳ありません。