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月の下で大樹に誓いなさい

作者: そら


◇◇◇ Side リナーリャ ◇◇◇


リナーリャとランハルがその日、学校からの帰り道に喧嘩をしたのは、よくある日常茶飯事だった。

いつもと同じ、ランハルの言葉にかちんと来たリナーリャが言い返して、ランハルが不機嫌そうに黙り込んで、その後は一言もしゃべらずに黙って歩いて。別れ際に捨てぜりふのような挨拶を言い捨てて。


二人は物心つく前からの幼なじみで、喧嘩友達で、ちょっとした言い争いなんていつものことだった。

多少やりあっても、次に会ったら何事もなかったように仲良くできる仲だったのだ。


なのに、それからしばらくランハルの姿を見ないと思っていたら、ランハルは数日前に中立都市にある学院に留学してしまったのだという。当分は帰ってこないと母親から聞かされてリナーリャは愕然とした。


ランハルの一番の友だちだと自認していたのに、ランハルはリナーリャに何も言わず黙って行ってしまった。仲直りも、別れの挨拶もなく。

リナーリャは、それから数日間、深く落ち込んで過ごすことになった。


----------


ランハルとリナーリャが幼なじみになったのは、家がそれなりに近かったことと、母親同士が親友だったからだった。

同い年だったということもあり、物心つくころにはお互いに一番よく遊ぶ友達になっていた。


ランハルは、放っておけばずっと本を読んでいるか、ぼうっと宙を見て考え事をしているような子供だった。

紫がかった黒髪はいつもくしゃくしゃで、前髪の隙間から見える髪と同色の瞳はいつも不機嫌そうにすがめられていて、近所の子供たちからは遠巻きにされがちだった。


リナーリャは、引きこもりがちなランハルを、しょっちゅう子どもたちの輪の中に放り込んでいたものだった。

分かりづらいランハルの表情をリナーリャが通訳することで、ランハルも少しずつ周りに馴染んでいったが、それでも、ランハルは一人で過ごしているかリナーリャと二人でいることが多かった。


小さい頃は、リナーリャがランハルの家へ行って遊んでいることが多かった。

ランハルの部屋にある本を読んだり、ランハルの周りをうろうろしてランハルの邪魔をするのに飽きると、リナーリャはランハルを引きずって庭に出たり、ごっこ遊びをしたりして遊んだ。

ランハルは物知りで、庭の植物や虫たちにも遠くに見える雲や星にも詳しく、リナーリャが気になったことは大抵知っていたし、分からなくても、二人でいろいろ考えるのは楽しかった。


リナーリャが特にお気に入りだった遊びは、物語作りとごっこ遊びだった。

ランハルはたくさんお話を知っていて、いろんな国のいろんな時代の物語を教えてくれたり考え出したりしてくれたから、リナーリャは飽きることがなかった。

リナーリャは冒険ものも大好きだったが、お姫様の出てくるおとぎ話や恋愛ものも大好きで、無愛想なランハルがたどたどしく恋の言葉を紡ぐのを聞くのも楽しみにしていた。


学校へ通うようになって、互いの家を行き来することは減ったものの、ランハルと一緒に登下校するのが習慣になっていて、ほとんど毎日顔を合わせる仲だった。お互いに、一番長く過ごす友人だったと思っている。

リナーリャにとってランハルは、小さな頃からずっと、他の友だちとは違う、特別な友だちだったのだ。


----------


ランハルが留学してしばらくは、きっとすぐにランハルから手紙を送ってくるだろうと思っていた。ランハルは、いつもリナーリャより先に気づいて声をかけてくれていたから、リナーリャはランハルの行動を待つことに慣れきっていた。

けれど、学校帰りに毎日郵便受けを確認しても、ランハルからの便りは届かなかった。


ランハルからの連絡がなく、落ち着かない気分で日々を過ごしていたリナーリャは、思いがけないルートでランハルの近況を知ることになった。


「ランハルくん、学院でがんばってるそうよ。手紙を見せてもらったんだけど、中途入学にしてはよくやってるって褒められてるんですって。さすがランハルくんねぇ」


リナーリャの母が、ランハルの母親とお茶をしに行った時に聞いてきたらしい。


ランハルが学院で元気にやっているらしいと聞いて、病気をしたり辛い目に遭っていないと分かってほっとする。

同時に、リナーリャには手紙をくれないのに、ランハルが家族には手紙を出していると分かってショックを受ける。

家族と比べるのはおかしいかもしれないが、親友だと思っていたのに、なぜ連絡をくれないのだろう。


もしかして、最後に会ったときに喧嘩別れしたから、ランハルはまだ怒っているのだろうか。

正直、喧嘩の内容は忘れてしまったが、かっとして言い過ぎてしまったのかもしれない。


顔を見れば、ランハルが怒っているかどうかはすぐに分かる。でも、今、遠く離れた学院にいるランハルがリナーリャをどう思っているかは分からない。


ランハルの気持ちを知るには、リナーリャから手紙を出すしかない。中立都市は遠いし、入国制限が厳しいことでも有名だ。未成年のリナーリャが会いに行くのはまず無理だ。


だが、リナーリャは手紙が苦手だった。

話すのは得意だし、語彙も豊富な方だ。でも、便箋を前にすると、途端に何を書けばいいのか分からなくなる。言葉をいざ手紙に書こうとすると、途端に訳の分からないおかしな言葉の羅列になってしまうのだ。


リナーリャが書き損じを山ほど作りながら葛藤している内に半年近くが過ぎ、暑期が近づいてきた。

学院も含めて大陸にあるほとんどの学校は暑期に長期休暇があり、留学生は地元へと戻ってくる。


ランハルも帰ってくるだろうから、さりげなくランハルの家に様子を見に行こうと、リナーリャは緊張しながらその日を待った。

なのに、リナーリャの期待を裏切って、その年、暑期休暇にランハルは戻らなかった。

学業が忙しいから、というその理由も、リナーリャの母経由で聞くことになり、リナーリャはますます手紙を出す勇気がなくなっていった。


ランハルと会えず、沈んだ気持ちのままで暑期が終わり、リナーリャは中等科を卒業して就業科に進学した。


----------


就業科では、自分に合った職業と職場を探すために、様々な職場を紹介されて、見学したり、試験雇用されて実際に働いたりする。


リナーリャは父が役人で身近に感じていたこともあり、まずは父の職場である中央役所を最初の体験の場に選んだ。

新人と同じ扱いで仕事を任され、初めての労働でたくさんの衝撃を受けながらもがむしゃらにがんばっている内に、あっという間に季節が一つ過ぎてしまった。


学校と職場は違うと骨身に染みたが、それ以上に一番リナーリャにとって衝撃的だったのは、中央役所におけるランハルの家であるイリド家の影響力の大きさだった。


ランハルの父が国の政治の最上級職である議員をしているのはもちろん知っていたが、リナーリャにとってはランハルの父であり、これまでは近所のおじさんという認識が強かった。

だが、中央役所において、代々議員を輩出しているイリド家は権力者だった。

役所の中には議員の派閥ができており、少し大きな案件を進めるには議員の顔色を伺う必要があった。


ランハルが留学している学院も、エリートだけが行ける狭き門であり、家柄と能力を兼ね備えたランハルは、すでに議員や役人の中で、次代の有力者と目されていた。

ランハルと友人であると知って態度を変える人もいて、リナーリャはランハルの付属物として見られるという初めての経験に戸惑ったし、心底ぞっとした。


自覚してから思い返せば、父も母も、イリド家の影響力が子供たちに及ばないように気をつけてくれていたのだ。

だから、リナーリャはこれまでイリド家のことをほとんど意識せずにランハルと付き合ってこれた。


ランハルと遠く離れて、イリド家の大きさを実感して、ランハルとは立場が違うのだと突きつけられる。

リナーリャの遊びに付き合ってくれて、口喧嘩ばかりしていた頃は対等だったのに、役所の中で語られるランハルは特権階級の子息であり、庶民でしかないリナーリャからははるかに遠い存在に思えた。


----------


ランハルに学院で親しい友人ができたらしいと聞いたのは、留学から一年と半年近くが過ぎた頃だった。


「隣国の公女様と同じ教授についているそうなんだけど、公女様がずいぶん熱心にランハルくんを誘ったのですって。ランハルくん、人気なのねぇ」


母がのんびりと言った言葉にリナーリャは自分でも不思議なくらいに動揺した。


ランハルと特別に仲がいいのはこれまでリナーリャだけだったし、リナーリャも、ランハルが留学してから女友達も男友達も増えたけれど、相変わらずランハルが一番のままだった。

だから、今でも、不機嫌顔で無口なランハルの一番近くにいられるのはリナーリャだけだと思っていたのに。

リナーリャがランハルを一人占めすることはもうできないのだと思うと、なぜか胸が潰れるように苦しかった。


ランハルと公女の話題は、しばらくすると役所内でも囁かれるようになった。

噂話は、いつの間にかランハルの婚約話と混ざるようになってきて、今や、ランハルが公女と婚約するのではという話が毎日のように耳に入ってくる。


来年、リナーリャとランハルは十七歳になり、成人して結婚できる年齢になる。

議員の子息令嬢は婚約や結婚が早いので、すでに役人たちの間ではランハルの婚約についても頻繁に話題に上がるようになっていた。


ランハルが学院から帰ってきたら、きっと議員である父の仕事を手伝って、中央役所の上層部で働き始めるのだろう。そして、同じような身分の見知らぬお嬢様と結婚するのかもしれない。


頭の中に、仲良さそうに寄り添うランハルと顔も知らない公女様が浮かび上がる。

ただの幼なじみで庶民のリナーリャが割り込む余地なんてない。


「割り込む……?」


リナーリャは当たり前のように浮かんできた言葉に首を傾げた。

リナーリャは考え込み、答えは意外とすんなりと出た。


リナーリャはランハルの隣にいたい。そしてそれは幼なじみとしてだけでなくて、ランハルを独占できる立ち位置で隣にいたいのだ。


その気持ちは、多分。


リナーリャは、その答えがすとんと胸の中に落ちてきて、これまで揺れていた気持ちが落ち着くのを感じた。

自分の気持ちに納得がいくと、ランハルがいなくなってから小さくなっていた強気で負けず嫌いな自分がむくむくと大きくなっていくのを感じる。


ランハルに嫌われたのかもしれないなんて、遠くから指をくわえているなんて自分らしくないし、似合わない。


生まれたときから十六年も一緒にいるリナーリャが、ランハルへの思いで公女様に負けているはずがないし、負けられない。

仮に公女様といい仲だったとしても、ランハルに会いもしないで退くことなんてできない。


幸いなことに、もう少しすれば二回目の暑期の長期休暇だ。

前回のように、何もせずにランハルを待つなんて、今のリナーリャにはできなかった。


手紙ではやはりうまく思いを書けなくて、悩みに悩んで、リナーリャはカードを送ることにした。

カードには、

「月の下で大樹に誓いなさい」

と書いた。


小さい頃のごっこ遊び。

ランハルは記憶力がいいからきっと忘れていない。きっとリナーリャの伝えたいことが分かるはずだ。


何度も郵便受けを確認して、一年半ぶりに届いた封筒を開けると、中のカードには、素っ気なく日時だけが書かれていた。

昔と変わらない右肩が跳ね上がっている癖の強い文字。

ランハルの存在が久々に確かに感じられて、リナーリャは文字を指でなぞって嬉しくなる。


日時だけが書かれたカード。まだランハルの答えは分からない。

それでも、とリナーリャの胸は高鳴る。

ランハルは昔の約束事を覚えていた。そして、リナーリャに会いに帰ってきてくれるのだ。


----------


数日前からそわそわしていたリナーリャは、ランハルが帰ってくる日ともなると、完全に浮き足立っていた。


部屋にいても落ち着かずにうろうろしてしまうし、本も勉強も身が入らない。

気づけば庭の方を見てしまっていることを、そろそろ自覚している。


リナーリャは、庭でランハルを待つことにして、約束の大樹の陰で座り込んだ。

カードを出したときの強気は強い緊張で萎んでしまって、ランハルが近づいてくるのを堂々と待つ勇気が持てそうにない。


ランハルは、ここで何を言うのだろう。

一年半前なら、二人は間違いなく親友だった。


ランハルは、多くの優秀な、そして魅力的な人たちが集まる学院で一年半を過ごしている。

ランハルは変わっただろうか。いまもリナーリャを特別な友達だと思ってくれているだろうか。公女様とは恋人なのだろうか。


緊張してあまり眠れていなかったリナーリャは、木陰の気持ちよさに、うとうとと目を閉じた。


「……リャ、リナーリャ」


懐かしい声が名前を呼んでいる。

夢と現実が曖昧な中で、リナーリャは目を開いた。


「呼びつけておいて昼寝とはいいご身分だな」


再会したら嬉しさで泣いてしまうかも、という心配は吹き飛んだ。

変わらないランハルの不機嫌な顔と声に泣きそうなくらいにほっとしているのに、ランハルを見たとたんにリナーリャの態度は昔に戻ってしまった。ランハルの前でずっとそうしていたように、リナーリャは座ったままでつんと澄ましてランハルを見上げた。


「ランハルが待たせるからでしょ」


リナーリャを見下ろすランハルの顔がちょっと歪む。これは、笑うのを堪えた顔だ。

なぜ笑われるのか分からず、リナーリャもむっと顔をしかめる。


「伝えた時間より、かなり早いよ」

「知らないわよ」


ランハルの言葉からすると、それほど長くは眠っていなかったらしい。


「待っててくれたんだ?」


ランハルが、口の端をほんの僅かに引き上げる。懐かしい、リナーリャしか分からないランハルの笑み。

昔より男らしく感じる表情に、リナーリャは言い返そうとして言葉に詰まってしまう。

よく見ると、顔の輪郭が一年半前と少し違う。会わなかった内に、ランハルが大人っぽくなっていた。

なんとなく悔しくて無言で見上げていると、ランハルが片手を差し伸べてきた。


「リナーリャ、立って」


腕を掴まれて、強引に立たせられる。


ひょろりとしていたランハルは相変わらず細身だったが、弱々しい印象はなくなっていた。

見慣れない服は、学院の制服だろうか。洗練された出で立ちなのに、むっつりした表情が子供の頃のままでなんだかおかしい。


ランハルが不機嫌顔に更に眉間に皺を寄せる。

リナーリャを見てそんな表情をするランハルに腹が立って、リナーリャも睨み返す。


「なによ」


腰に手を当てて見上げると、


「背が伸びてる」

「そりゃ伸びるわよ」


言われてみれば、二年前より身長差が小さいかもしれない。

ランハルが何を気にしているか分かって、リナーリャは思わず吹き出した。臆病になっていた気持ちはすっかり吹き飛んでいた。

笑いながら、今日のために履いていたヒールの高い靴を脱ぎ捨てる。

素足で地面を踏むと、ランハルの顔が記憶より少し遠くなった。


「ほら、ランハルもちゃんと伸びてるわよ。そんなこと気にしてるの? ひょろひょろランハル」


かつてのあだ名を言うと、ランハルはむすっとしが、機嫌は直ったらしい。

しばらくして笑いが収まってくると、リナーリャは急に緊張してきた。

起き抜けでよく分かっていなかったが、ランハルだ。一年半ぶりのランハルが目の前にいる。ずっと、ずっと会いたかったランハルだ。


リナーリャの伝言に、ランハルはどう答えるつもりで帰ってきたのか。


リナーリャの緊張が移ったのか、ランハルも無表情になった。

不意に長いため息を吐くから、リナーリャは体をすくめた。


「リナーリャ、そこに立ってて」


言って、ランハルがリナーリャの正面で姿勢を正した。

そして、片膝をついてリナーリャの片手を取り、リナーリャをまっすぐに見上げてくる。


「月と大樹に誓って、私はあなたを愛しています、リナーリャ」


リナーリャには本気の表情だと分かる、固い無表情で告げられた言葉に、リナーリャの顔に一気に熱があつまる。


心の奥底では期待していた言葉を、本当に口にしてもらえるとは思っていなかった。

離れている間に実感した身分差のこともあるし、子供の頃のごっこ遊びを真面目に取り合ってくれるかどうか、不安だった。

それが、こんな、絵本に描かれていた騎士そのものの姿勢で告げてくれたことが嬉しくて、息が詰まる。

小さいころは、台詞としてお互いに言い合っていたけれど、今はまるで違う言葉に聞こえる。


「つ、月の下じゃないわ!」


まだ日は高い。

リナーリャは、動揺してとっさに反論した。

ランハルの顔が盛大にしかめられる。不服を訴えるランハルに視線で理由を問えば、また大きなため息をつかれた。


「あそこ」


大樹の葉と屋根の間に見える空をランハルが指差す。


「月が出てる」

「え?」


よく見ると、確かに月の影がうっすらと見えた。


「なんでこの時間を指定したと思ってるんだよ。今日は、夜だと月が出ないんだよ。気づいてなかったのか?」


気づいてなかった。

リナーリャは、羞恥で更に顔を赤くした。そういえば、昔は昼の月を見つけてはこの遊びをしていたんだったと今更に思い出す。

恥ずかしさのあまり逃げ出したくなったが、ランハルが指先を掴んでいて逃がしてくれない。


「で、返事は?」

「え?」

「返事」


ランハルの言った台詞には、その返答となる台詞ももちろんある。

月の下でランハルが言ったのだから、リナーリャも言わなくてはならない。


ランハルは真剣な表情でリナーリャの答えを待っている。

リナーリャは、大きく息を吸った。気づくのに時間はかかったけれど、長い間ずっと胸の中にあった大切な気持ちをやっと言える。言うためのきっかけをランハルがくれたのだ。


「月と大樹に誓って、私もあなたを愛しています、ランハル」


言い終わった瞬間に、体ごと抱きしめられた。苦しいくらいにぎゅうっと力を込められる。

リナーリャも動かせる範囲で腕を回して、ランハルの背中をぎゅっと抱きしめた。


大きくなってからは、あまり触れ合うことはなかった。こんなにお互いを近くに感じるのは、何年ぶりになるのだろう。

そう思うと、嬉しくて幸せで笑いが込み上げる。


しばらくして落ち着いたらしいランハルが少し上半身を離してくれる。

ようやく顔を見ると、ランハルは珍しく緩んだ表情で分かりやすい笑みを浮かべていたが、リナーリャと目が合うと、意地悪そうな笑みに変わった。

これまでに見たことのない、背中がぞくりとするような笑みに、リナーリャは笑いを引っ込めた。


「ああ、久しぶりのリナーリャだ。暑期の休暇は、リナーリャから離れないから。次の長期休暇までの一年分、リナーリャにたくさん触れておかないと」


頬に置かれたランハルの手のひらが艶めかしい動きで下がってきて、かさついた親指が唇のそばを掠めていく。


「キャアアアアア!」


リナーリャはとっさに逃げ出した。

再会初日、学院で体力もつけたらしいランハルに捕まって、リナーリャの家の夕食の席に連れて行かれるまで、リナーリャはランハルとひたすら追いかけっこをすることになった。


----------


「月の下で大樹に誓いなさい」


それは、昔、リナーリャとランハルが二人で作った物語の台詞だ。


リナーリャの希望に合わせて、お姫様が恋人の王子様と結ばれるまでの物語をいくつも作った。


リナーリャの家の庭にある大樹に興味を持ったランハルが、月の下でこの樹に愛を誓うと幸せになれるという伝承があると調べてきて、リナーリャは早速それを取り入れて、お姫様が王子様に愛の言葉をねだる台詞にした。

この言葉を聞くと、王子様はお姫様を大樹の下に連れてきて愛を告げるのだ。


愛の意味をよくわかっていなかった幼いころの遊び。


「月と大樹に誓って、私はあなたを愛しています、お姫様」

「月と大樹に誓って、私もあなたを愛しています、王子様」


幼いころに繰り返した台詞は、いつしか本物になって、伝承通り、二人に幸せをもたらしたのだった。



◇◇◇ Side ランハル ◇◇◇


急遽学院を退学することになったとある議員子息の代わりにランハルが留学することに決まったのは、あまりにも突然の出来事だった。

決まった三日後には出発で、準備に追われていたランハルは、家族以外に挨拶もできないまま鉄道に乗り込み、二日後には国境を越えた。


喧嘩別れしたリナーリャに何も言わないままだったと気づいたのは、学院のある中立都市に入ってからで、その時は、すぐに手紙を書こうと思っていた。リナーリャは、知らせなかったランハルに怒っているだろうから。


だが、結局のところ、ランハルは手紙を出せなかった。

それどころではなく、まさに目の回る忙しさだったからだ。


学院には、大陸中の同盟国から、有力な家の子弟や、優秀な人材が集められている。

各国間で交流を深め争いを防ぐためでもあるが、それ以上に、各国の統治に関わる者の能力向上が主目的だ。どこか一国が荒れれば、それは大陸中に飛び火しかねない。


大陸中の叡智が集うとも言われる学院の教授陣による授業はハードだった。

座学もあるが、ほとんどが実践的な内容で、実際の国をモデルに、様々な分野の課題について、調査と対策案の立案をし、教授陣やその国の役人と議論する。

その国の実情や法律を調べ、データを集め、仮説を立て、授業で山ほど指摘を受けて、また一から考え直して策を出す。


途中入学だったランハルは、周囲について行くだけで精一杯で、授業と最低限の生活の他には手が回らなかった。

誰もがそうだが、ランハルも国を背負って学院に来ている。無様な成績で帰ることはできないし、可能な限り学び尽くさなければならない。


暑期の長期休暇も帰省する余裕はなく、周囲に追いつくための勉強に充てた。家族も理解してくれた。

長期休暇でも学院に残っている教授陣も何人かいたため、ここぞとばかりに質問責めにして、ランハルは長期休暇を勉強漬けで終えた。


そのお陰で、長期休暇が終わって次の学期が始まる頃には、上手く休みを取るだけの余裕ができてきた。

学院の授業以外のことを考える余裕ができてくると、ランハルの頭をよぎるのはリナーリャだった。


これまでも、リナーリャを忘れていたわけではなかった。

授業の合間に、眠りにつく前の一時に、昼の空に浮かぶ月を見上げたときに、庭の木陰を見たときに、リナーリャを思い出した。

中立都市に来てから、何かにつけて思い出すのはリナーリャだった。


リナーリャと話したかった。学院のこと。学院でできた友人のこと。様々な文化を持つ同級生達のこと。授業を通して得た様々なこと。


それを手紙で伝えきれる気がしなかった。

それに、ここまで、余裕なくがむしゃらだった自分の様子をリナーリャに知られるのは躊躇われた。


学期ごとに、学院から学生の保護者へ学業や交友関係、生活態度について報告書が送られる。

両親を通じて、ランハルの切羽詰まった様子がリナーリャにすでに伝わっているだろうと思うと、余計に筆が進まなかった。


----------


ランハルから手紙は出していなかったが、家族からは月に一度ほど手紙が届いていた。

主に母からの近況報告で、他の家族から一言二言書き足してある。

兄から学院での過ごし方アドバイス集が来たときは熟読した。人づきあいが苦手なランハルには、まさに天の助けだった。


母からの手紙には、大抵、リナーリャが登場する。

この前遊びに来てくれて話し込んでしまったとか。手製の焼き菓子を持ってきてくれて美味しかったとか。女の子同士で出かけていて楽しそうにしてたとか。進学した就業科でがんばっているとか。学校や街中でよく男性に声をかけられるようになって男友達もできたらしいとか。


学院に来る前は、リナーリャと二人で過ごすのはランハルの特権のようなものだった。

リナーリャは、ランハルと違って友だちがたくさんいた。人気者のリナーリャの気を引くために、ランハルはいつも必死だった。


「リナーリャ、新しい本を家で見つけたんだ。挿し絵が幻想的で綺麗だから、きっと気に入るよ」

「庭の木に花が咲いたよ」

「新しいお話を考えたんだ。一緒に続きを考えてくれない?」

「今日のおやつは赤い実がたくさん入ったタルトだって」


リナーリャが気に入っていた本は覚えて、自分の誕生日に両親にねだって続刊を買い揃えたし、庭の変化を観察するようにもなった。

勉強の合間にリナーリャが好きそうな情報をメモしては、寝る前に物語を考えた。

どうしてもリナーリャを呼ぶ理由が作れなかった時は、リナーリャが好きなお菓子を作って欲しいと厨房に頼み込んだ。

ランハルは昔からリナーリャを一人占めしたくて仕方がなかった。


それなのに、今、リナーリャは遠く離れた母国にいて、一人占めどころか顔を見ることすらできない。

リナーリャの周りには、いつでもランハルより魅力的な人物がたくさんいて、今はランハルに妨害されることなくリナーリャに声を掛けられる。


そう考えるといてもたってもいられない気分だったが、学院にいるランハルには何をどうすることもできない。

手紙を書こうと何度も思ったが、書けなかった。今のランハルは、リナーリャの気を引くものを用意できない。


イリドの家には本も庭もお菓子もあるが、ランハルがいないのにリナーリャだけ呼んでも仕方がない。

家には母がいるから、お気に入りのリナーリャを歓迎してくれるだろうが、家には兄も弟もいるのだ。

いつもランハルをからかおうとちょっかいをかけてくる彼らは、ランハルからすれば強大なライバルだ。ランハルと違って社交性の高い彼らは異性からも人気が高い。もしリナーリャが兄や弟に興味を持ったら、ランハルが勝てる気はしない。


リナーリャに本を送ったら、読んでいる間は他の人間とは過ごさずにいてくれるかもしれない。でも、本を贈る理由がないのだ。これまでずっと、家にあった、という言い訳でリナーリャを呼んでいたから。今更、リナーリャに何かを贈る勇気がない。


これまでも、贈り物はしてきたが、リナーリャにそうと気づかれないように気をつけていた。


「髪留めなくしたの? これ、うちでは使っていないから、あげる」

「母さんにもらったハンカチ、ちょっと可愛すぎて恥ずかしいからリナーリャにあげる」

「この本、もう読んじゃったからあげる」


色石の髪留めと刺繍のハンカチと金細工の栞までは、小遣いをやりくりしてこっそり買ってきてはさり気なくリナーリャに贈ることができたが、ある年のリナーリャの誕生日にワンピースを贈ろうとした時には、母に止められて、厳重に注意を受けた。曰く、恋人ならともかく、友だちから贈られたらリナーリャが困るからやめなさい、と。

それから、ちゃんと贈り物をする機会を逸したまま、今に至っている。


学院に来たことを後悔はしていないが、リナーリャの隣という立ち位置を失ったことは悔しくてたまらない。


同時に、ランハルがいなくてもリナーリャが元気に過ごしていることに腹も立った。

ランハルは、リナーリャがいない毎日で、日々寂しさや物足りなさを感じているのに、リナーリャはランハルがいなくても平気にやっている。


そう言えば、留学の少し前に喧嘩をしたんだと思い出す。いつものようにリナーリャを怒らせて、口喧嘩をして、怒ったままでリナーリャが「じゃあね!」と怒鳴って走り去る、いつものやりとりだ。

捨て台詞でまた会うことを約束してくれる辺り、仲直りが前提のやりとりだから、これまで気にしていなかった。

実際、いつも次に会えば、リナーリャは忘れているかもう怒っていないかで、喧嘩は続かない。


でも今回は、顔を合わせずに留学してしまった。もしかすると、あの喧嘩は続いているのかもしれない。

リナーリャと会えればすぐに謝るし、きっと仲直りできる。だが、ランハルが次に戻れるのは一年近く先だ。


次に会ったとき、また前のようにリナーリャは隣にいさせてくれるだろうか。

これまでずっと一緒にいたから、リナーリャとこんなに離れているなんて経験がない。

リナーリャの様子が分からない。誰が近くにいるのかも分からない。当然、リナーリャが誰かと仲良くするのを邪魔することもできない。

リナーリャの近くにいないとこんなに不安になるということをランハルは改めて実感していた。


----------


結局それから一年、ランハルはリナーリャに手紙を出せなかった。

もう嫌われていたら、友人とは思われていなかったら、別のやつがリナーリャの隣にいたら。

生まれた不安は日々大きくなって、ランハルのペンを止める。


学院は女性の学生も多い。同じ教授についている隣国の公女は、ランハルの悩みを聞いて呆れた顔をしてから、忠告してくれた。


「あなた、それは恋だって自覚はあるのよね? あなたみたいな朴念仁と一緒にいてくれるような貴重な人はなかなかいないんだから、ちゃんと手紙を出して、長期休暇に口説きなさい」


苦手なデータ集めを手伝わせるために強引に同じ教授につかせてきた公女は、学院内でも有数の人脈の広さを誇っていて、人を見る目や洞察力もずば抜けている。


自分のリナーリャへの執着心は恋なのか、これまでも自問することは多かった。

リナーリャについて回っているのは物心つかない頃からだ。さすがにそんな頃からの感情が恋なのか、自信が持てないでいたが、公女が言うならそうなのだろう。

ランハルは人に関しての公女の意見は尊重している。


だが、リナーリャを口説くというのは、また別だ。

あれだけ物で釣って必死に囲い込んでいても、ちゃんと友人として見られているか自信がないのに、告白などしたら逃げられるに決まっている。

公女に背中を押されても、ランハルは動けなかった。


そうして、身動きができないままに数ヶ月が過ぎた頃、ランハルを動かす便りがやってきた。


----------


「月の下で大樹に誓いなさい」


リナーリャからの封筒を受け取って、自室に駆け込むなり破くような勢いで開封すると、一文だけが書かれたカードが出てきた。

その意味が頭に染み込むまでにはしばらくかかった。何度も読み返して、あらゆる可能性を考えて、ようやくリナーリャの意図を確信した時には、驚きと歓喜で涙がこぼれそうになった。


その言葉の意味は、「私に愛を告げなさい」というものだったから。


なぜ、リナーリャにはランハルの望みが分かるのだろう。

ランハルは、リナーリャに会いたかった。触れたかった。でもそれだけでなく、小さい頃からランハルの中に根付いていて、離れていた間も枯れることなく大きく育った愛しいという気持ちを伝えたかった。

その勇気がなかったランハルに、リナーリャはこれ以上ない後押しをくれた。


「やっぱり、リナーリャには敵わないなぁ」


あのセリフには決まった続きがある。

姫がねだり、王子が愛を告げ、それに姫が愛を返す。

姫に愛を告げれば、愛が返ってくるとリナーリャは暗に告げているのだ。

リナーリャらしい、強気で、潔く、ランハルを動かす熱をはらんだ言葉。それはリナーリャからの愛の告白だった。


end.



妹からのお題。

・すれ違い

・幼なじみ

・留学

・再会


妹からは、ファンタジー要素がないからちょっと…、という評価でした(T_T)



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