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「――――……酷い、人」
そんな事は、子供の頃から知っていたのだけれど。……どうして、私は彼と暮らしているのだろう。なんて、疑問の形にして問い掛けても、意味は無い。私は馬鹿なのだ。あの憎らしい兄様が言うとおりの。このまま戻らずに実家に帰って、両親を頼って一人暮らしでも始めれば、私は兄様があれ程焦がれて足掻いても手に入らなかった「普通の幸せ」を手に入れる事が出来るのだろう。そうしてやった方が、いい復讐になるに違いない。歯軋りして喚く彼の姿が想像出来る。自分の思考に私は小さく笑ってしまった。皮肉な事に、私は兄様が思っている以上に、どうしようも無い程の、馬鹿なのだ。
そんな事を考えながら歩いていたから。
「――――わっ!?」
「――――へぇっ!?」
……背の低い男の子にぶつかってしまった。
「えっ……あぁ、あのっ……ごめんなさい……」
相手だってまさか避けずに其のまま歩いて来るとは思っていなかったのだろう。頭を下げて必死に謝る。
「っけ、怪我とか無いですかっ……!?」
「えっ……だ、大丈夫ですけど……?」
良く顔を見ようとして……気が付いた。彼は確か兄の部下だ。……高校生の男の子じゃなかったのか。相手も私に気が付いた様で、あぁ、と小さく声を上げた。
「あの……妹さん……ですよね?」
そこで少し顔と声を曇らせて、お兄さんから何か聞いてはいませんか。と尋ねて来た。一瞬、警戒する。兄様と私が一緒に暮らしている事は、誰にも言っていない筈だ。兄様だって、自分の立場が危うくなる様な情報は他人に漏らしたりしないだろう。彼は自分の身を守る事に掛けては完璧だから、そこだけは信用出来る。
「いえ……何か、有ったのですか?」
少し首を傾げて尋ねた。本当に分からなかったので、私の声の調子は自然に聞こえていただろう。兄程の演技は私には出来ない。
「あっ……と。今日急に休むという連絡が会社に入りまして……あの人は体調管理を疎かにする人では無いですし、そうだとしても、体調を崩しそうになったら事前に言う人ですから……」
「…………えっ」
そうなのか。……いや、考えてみれば昔から、学業にはとても真面目に取り組んでいた気がする。あんな風でも、仕事はきっちりこなしているのだろう。私が黙りこくった事を勘違いしたのか、彼は慌てて言葉を付け足した。
「いえ、あの。只のお節介なんですけど、さっき送ったメールにも返事が無いし、変だなって……」
考えてみたら、幾ら兄妹だからって、逐一連絡したりとかしませんよね。
人の良さそうな微笑みを浮かべて、素朴な茶色の髪と焦げ茶色の目をした青年は言う。きっと、私が其の兄と関係を持っている事なんて、微塵も疑っていない顔。そう。其れが当然で、当たり前で、そんな思考に至る事自体が、既に異常に違いない。……彼が、急に休んだ事と、私の間に何か関係が有るんじゃないか何て、そんな事すら本来なら繋がる事は無い。きょうだいなんて、そんな物だ。そう。普通なら。
「……ふふ。そうでしたか。ふふ。うふふふ……!」
堪え切れなくなって、私は笑ってしまった。傍から見ればただの気違いにしか見えないだろう。いいや、きっと私はもう頭がおかしいのだ。だって私を見て呆気に取られている青年の顔を見ても、おかしさしか込み上げて来ない。勿論、ただの偶然の可能性だって有る。けれど、人の目ばかり気にして、良く見られる事ばかり考えている彼が急に休むというのは、多分周りが思っているよりもずっと重い事に違いない。あぁ、全てに対して意気地の無い人! このまま私が帰らなかったらどうなるんだろう。きっと簡単にくしゃりと潰れて、益々駄目になってしまうに違いない。その姿を眺めて嘲ってやったら、きっと今まで生きて来た中で一番楽しい見世物になるだろう。
「……あ、あの……どうしました……?」
どこか怯えた様子で、青年が私に尋ねる。あぁ、いけない。普通の振りを、しなければ。
「あっ、済みません……兄が休んだ理由に心当たりが有ったものですから」
この言い訳には無理が有っただろう。それくらいは分かっていたから、とびきり品良く微笑んでみせた。こうすれば少し位の矛盾は誤魔化せる事くらいは、知っている。案の定彼は少し呆けた後、頬を染めて、ほんの僅かに目を逸らした。ぁあ、そうなんですね……。等と言いながら。……純粋な人なんだなぁ、と感心する。兄の傍に居ながらこれ程素直さを保っている人は珍しい。大抵は彼の信者になるか、敵対者になる。そうでなければ、離れていく。兄はそういう人だ。周りの人間を歪ませる。意識的か、無意識かに関わらず。
――――私は、どちらだろう?
そんな事を考えながら、私は笑顔を作る事が出来ていた。何か分かったら、連絡しましょうか……なんて言いながら。嘘は言っていない。隠している事が有るだけだ。彼の部下に別れの挨拶を告げようとした、その時。
「――――クローディア!」
聞き慣れた声に、聞き慣れない声色。振り返ると、そこには兄が立って居た。顔をみっともなく歪ませた兄が。
「……何で、そいつと一緒に居るんだ」
珍しい事に、感情全てが表情に駄々漏れている。下手に言い訳をすると、後々面倒臭い事になりそうだ。部下の人は関係無いのだし、どうにか逃がしてあげたいのだけど。そういった素振りを見せると、また怒りに火を注いでしまうだろう。……本当に、面倒な人。
「……心配していたのよ。兄様」
そう声を掛けると、一瞬彼は怯んだ様子を見せた。
「……この人が」
言って、手を部下の人に向ける。急に話を振られた青年は、ねじまき人形みたいにぎこちなく首を縦に動かした。ここで手を緩めると長引いてしまうので、部下の人が連絡を入れても返事が無いから、偶然出会った自分に助けを求めて来たのだと説明した。別に彼は仕事をさぼっていた訳じゃないのだ。疑うのなら、メールを見ればいい。そもそも、信用出来ない人を秘書にする程、貴方の目は腐っていないでしょう? と。……兄が怒っているポイントを、ずらさないといけない。気が付かない、振りを。だって知られてしまう訳にはいかないのだから。その意図に気が付いたのか、彼は息を一つ吐いて眉をしかめる。
「……僕は、別に外出していた事に怒っていた訳じゃないよ。そもそも、仕事なんて結果が全てなんだから、やる事さえ終わっていれば昼過ぎに帰ったっていいんだ」
彼は即座に思考を切り替えてみせた。意外と判断が早い。いや、当然か。彼は元々の鋭い顔立ちに似合わない、へらりとした表情を浮かべて、笑ってみせた。
「ごめんね。ちょっと最近根を詰め過ぎたみたいだ。あと数日、任せていいかな。クリス君」
「……あ、はい。それは大丈夫です。えっと、じゃあ、また……」
純朴そうな青年、クリスさんは嫌味の無い笑みを浮かべて、ゆっくり休んで下さいね。なんて言いながら、去っていった。……本当にいい人なのだろう。彼の姿が見えなくなった所で、兄の浮かべていた笑みが消えた。……さて、次は何を言われるのだろうかと冷めた気持ちで心を固める。流石に人前で喚きはしないだろうけれど――――……。
「…………探していたんだ」
「――――は?」
自分が予想していたのと全く違う方向の言葉に、思考が止まってしまった。次に何を言い出すのか分からなくて、黙ってしまう。
「お前は僕から離れたいんだろうけどな」
言葉の調子は相変わらず皮肉っぽいけれど、声は静かだ。
「……生憎、僕はそうじゃないんだ」