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瓶詰の地獄  作者: 灰色
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 妹が、いなくなった。


 この言い方は適当じゃない。別に彼女は死んだ訳じゃない。死んでいれば良かったのに。そうであれば。僕だって、躊躇いなく死ねただろうに。

窓の外に目をやると空は嫌な位に晴れていて、不愉快だった。でも、雨が降っていたら出来過ぎていて、それはそれできっと苛立っただろう。結局同じだ。結局の所、僕はおかしくて、妹はまともだったのだ。ただ、それだけ。其れ位の事は、知っていた。ずっと前から、知っていたんだ。だから。

僕は別に壁に頭を打ち付ける事も無かったし、喚く事も無かったし、泣く事も無かったし、誰かを腹いせに殺す事も無かった。でも。

もしベッドの脇に拳銃が有ったら、うっかり引き金を引いていたかも知れない。自分に向けて。そうしたら。


 彼女は少しでも、笑ってくれるだろうか。


 結局その日は仕事を休む事にした。声が出ないからと嘘を吐いて、メールを打った。部下はただ「分かりました」とだけ返事を返して来た。あの子はとても優秀だから、まぁどうにかなるだろう。こんな時でも僕は仕事が回るかどうかを気にしていたし、急に休んだ事によって他人の評価が下がらないかどうかを気にしていた。つまりは、そういう事だ。


 僕は、そういう人間だった。


 きっと僕以上に彼女は分かっていたに違いなかった。だからだろうか。だから、僕から離れていったのだろうか。

……ぁあ。違うか。ただ、目が覚めただけだ。寧ろ今までが狂っていて、正常で無く、おかしかったのだから。


 そうだよな。


 ハッピーエンドというやつだ。


 喜ばしい事じゃないか。なぁ?


「はは」


 僕はそこで初めて声を洩らして。


 今まで息を止めていたのだという事に気が付いた。



 こうして、世界はめでたく正常になったのだ。


 哀れな妹は狂った兄の元から正気を取り戻して逃げ出して。


 兄は兄で、ゆっくりと妹の居ない生活に慣れていって、そして多分普通にどこかの誰かと結婚したりしなかったりして普通に正常に死んでいくのだ。


 おめでとう。


 実におめでたい話だ。


 世界は平和だ。


 此の世は地獄だ。


 僕は胃の中の物を全部吐いた。


 昨日の夜から何も食べていなかったから胃液しか出なかった。


 内臓が下からどろりとしたもので焼かれていくのが分かる。


 食道を酸っぱい黄色がかった液体がせり上がり続けていくのを、他人事みたいに感じていた。どうして僕はこんな事になっているんだっけ? 風邪でも引いたのかな? ははは。


「…………気持ち悪い……」


 口から漏れた声は、只それだけで。


 喉が胃液で焼けていたから、淀んだ呻き声の様だった。


 このまま便器と付き合っていても良かったのだけれど、身体の方はもう便器カノジョに貢ぐ物が無い様で、目の前の景色はぼやけて、ぐらりと揺れた。

音よりも先に鈍い衝撃が来る。頭を打った拍子に意識でも失えれば良かったのだけれど、そう簡単に人間は気絶なんか出来やしない。……ただ、無意味に目が冴えただけだ。1日前まで、妹は此処に居た筈だった。別に何時もと変わりなかった。

だから、多分、限界だったのだろう。たまたま溢れたのが今日だっただけで。


 思い返してみても、大した思い出なんか無かった。


 子供の頃だって仲良くも無かったし、別に特別な出会い方をした訳でも無いし、たまたま再開して、何となく関係を持って、其のままズルズルと繰り返して、同居する事になって……。あぁ、何だ詰まらないな。本当に何も無い。何も無いんだから。何で。何で僕はこんな事に為っているんだろう。

確かにまともに付き合った女なんて殆どいなかったけれど、セフレなら幾らでも居たし、それで足りていたんだ。そうだよ。何が違うんだ? もう、終わったんだから、さっさと次を見付ければいいんだ。そう……女なんて大体一緒じゃないか。だから、動け。動いて探せ。別の女をあてがえばいい。空っぽの胃に、無理やり押し込んで、それで、代わりにすればいい。どれも同じだ。そうだっただろう? なぁ僕。誰の事だって、大して好きでも無かったじゃないか。ずっと、ずっと。僕は、そういう男だっただろう? ずっと、自分の事だけが大切で、大事で、大好きだったんだろう? 


「…………だった?」


 口から漏れたのは意味の無い言葉と、胃液交じりの涎だった。



 汚れてしまった服を着替えて、外に出る。風が冷たい。僕は寒い時期に生まれたけれど、冷え性だから冬は嫌いだった。妹は身体が温かい癖に寒がりで、冷たい風が吹く度に身を縮こまらせていたっけ。猫みたいに。店の中に入ってコートを脱いだ瞬間に、背中に冷えた手を入れてやるのが面白かったな。其れをする度に彼女が怒って、文句を言うのが。其れを笑って聞き流すのが、面白かった。聞き流されている事に気が付くと更に怒って黙りこくってしまうのも。でも、僕に対して子供みたいだと繰り返すのは……心外だったな。僕のどこが子供っぽいんだか。僕の年齢で社長を務めていて、此れだけの年収を稼いでいる男何て中々居ないよ、と言って聞かせても『そういう問題じゃない』としか言わなかったっけ。


 長い事歩き続けている筈なのに、身体は余り温まらなかった。仕方無く、其の辺りに有ったチェーン店の喫茶店に入る。……チェーン店自体は其れほど嫌いじゃない。店員が馴れ馴れしくないから。でも、大体恐ろしい程コーヒーが美味しくない。だから仕方無く紅茶を頼むのだけれど、僕はコーヒーが飲みたいのだ。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘いコーヒーが。……甘い、と言えば……妹はコーヒーが飲めなかったな。苦いだけで、全然美味しくないと言っていた。温かいココアばかりを頼んで、生クリームが乗っていると凄く喜んでいたっけ。……どっちが、子供っぽいんだか。そんな物ばかり食べたり飲んだりしているから、痩せないんだと言うと少しだけ手が止まって、彼女は悲しそうな顔をする。其れから、また僕に怒るんだ。……うん。絶対に、妹の方が子供っぽいぞ。やる気無く運ばれて来た紅茶とウェイターに一応礼を言って、僕は紅茶をそのまま啜る。その度に、妹は奇妙な物を見る目で僕を見ていた。彼女にとって甘くない物は飲み物じゃないのだろう。僕だって、彼女が甘い物を食べながら甘い飲み物を啜るのを、奇妙な目で見ていたに違いない。僕らは根本的に味覚が合わなかったのだ。味覚以外の部分も。

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