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遠いいつかに手を伸ばして

作者: 赤城 十一

 通学路のアスファルトは夕日の斜光を受けて、金属を溶かしたような光沢のある赤色に染まっていた。周りに人気はないし、近くに民家はない。そばにあるのは野生の狸でも出てきそうな薄暗い林ばかりだ。おまけに、夕焼けにさらされた空気は日が落ちかけているせいか、どこかつめたく、アタシをよけいに心細くさせる。

 きっと、それは幼い頃に知り昨日たまたま読んでしまった怪談のせいだろう。ちょうどこんな時間の、こんな場所が舞台の都市伝説。


 A君は、学校の帰り道で女の人に呼び止められました。

 その女の人はA君に『私、きれい?』と聞いてきました。

 彼女は大きなマスクをしていましたが、すっきりとした目鼻立ちから美人に思えたので、A君は『きれい』と答えました。

 すると女の人はマスクを外してこう言いました。

『本当に、きれい?』

 マスクの下の女の人の口は、耳にまで達するほど大きく裂けていました。

 A君はあまりのことにしりもちをついてしまいます。そんなA君に口裂け女はゆっくりと近づいていきます。そしてその大きな口で食べてしまいました。バリボリと咀嚼音だけが道に響いていました。


 いやね、さすがに私も高校生だからね。そこまで信じているわけじゃないよ。この話を読んだときも、そんなに怖くないなって思ったしね。けど、アレだね。そういうことは関係ないわ。

 作りものだってわかっていてもお化け屋敷が怖いように、こういうのは理屈じゃない。

 否定する材料がいくらあっても、簡単に納得できるわけじゃない。

 たとえ、お坊さんがお祓いしていたとしても、月明かりのない夜に墓場を歩けば、誰だって怖いはずだ。

 まあ、ようするに対処方はないので、おっかなびっくりなまま急いで帰るしかない。口裂け女の好物のべっこうあめでも持っていれば、気も楽になったんだろうけど、違うおやつを持ってきたしな。

「――まあ、常識的に考えて口裂け女なんていないよね」

 自分を安心させるために、軽い調子でそう口にした時だった。

 音が聞こえた。アスファルトを叩く甲高い音色は私のものと似ていて、すぐに靴音だと気づいた。もちろん、私のものとは別だ。

 聞こえてくるのは前方、私が進む先だ。近くに分かれ道もなければ、民家もないから、はちあわせするのは確定だ。

 でも、大丈夫、慌てる必要はない。常識的に考えて、こちらに向かってきているのは主婦とか、同じ学生とか、その辺りに決まっている。ここで焦って、口裂け女が来たんだと下手な妄想に走ることがまずい。そういうのが墓穴を掘ってしまうんだ。私のように沈着冷静であれば、問題はない。

 靴音の主と距離が近づくにつれて、その容姿が見えてくる。私と同じ紺のブレザ―にスカ―ト、首に結んでいるリボンは赤で、我が校の二年生のようだ。ちなみにリボンの色は一年生が私のつけている青で、三年生が、緑となっている。

 視線を顔の方に向けると、肩まで伸びる長い黒髪が目に入った。そして、遠目でもわかる、大きめの瞳に整った鼻梁に、口元を覆う白いマスク。えっ、マスク。

 目を凝らして見て、それが私の見間違いじゃないことに気づく。しっかり、はっきり、マスクをしている。

 落ち着け、落ち着くんだ、私! 大丈夫、まだ距離はある。つまり、考える時間はあるということだ!

 選択肢は二つある。

 やられる前にやるか。

 やられる前に逃げるかだ。

 正直、どちらも悪手だ。怪談じゃそのどちらも通用しないことが書いていたし。

 本来なら正当な対処方である、ポマ―ドを唱えるべきだ。ちなみになぜポマ―ドなのかというと、口裂け女の口が裂けている理由は、整形手術に失敗したからで、その担当医が髪にポマ―ドをたっぷり塗り付けていて、そのせいで口裂け女はポマ―ドの臭いが嫌いになり、聞くのもダメになったらしい。 で、このポマ―ドと言えばいいだけのお手軽撃退術だが、問題が一つある。

 それは相手が口裂け女じゃなかった場合、私が痛い子になってしまうことだ!

 ……本当はわかっているんですよ。風邪やなんかで、マスクしているんだろうなっていうのは。でも、理屈じゃないんだよ! 本当は口裂け女で油断をしていたら殺されるんじゃないかって、想像がどこかにあるから身構えちゃうし。

 何かないかな、解決策。カバンの中に、あめ玉とかないかな。何事もなければ握っていればいいし、何かあれば投げつければいい話だ。それに一個くらいなら、おやつの残りとかでありそうだし。うん、それいい! とりあえず、探してみよう。

 私は立ち止まりカバンをあさる。黒色の人工皮でできた横型の、高校生なら誰もが持っているカバンの中は菓子特有の甘い匂いがかすかに香っていた。けれど、あくまでも芳香だけで大本となるようなものは見あたらない。

 キャンディとかチョコとか入れていたのは、昨日だからな。どこか奥の方にないかな。そんなことを思いながらカバンを整理していると、手がすべった。

 今日持ってきたおやつは私のカバンから飛んで、路上へと転がっていった。

 そしてそれはお約束のごとく、彼女の足下へとたどり着いた。

「これ、あなたのだよね?」

 マスクをしているせいだろう、少しだけくぐもった、けれど高いソプラノが聞こえた。

「あっ、はい、まあ」

 なんだか気恥ずかしくて、少し顔を伏せた。その時ちらりと見えた彼女の顔は、口元こそ見えないものの、目は微笑んでいるように見えた。暑い夏にふわりと響く風鈴のような、からっとしたさわやかな気配がそこにはあった。

「じゃあ、はい。もう、落とさないよう気をつけてね」

 彼女は瞳を弓なりに細め、そっと私の手にそれを握らせた。かすかに触れた手がやけに冷たかったのと、彼女から漂う芳香が桜を連想させるわずかな甘さがあったせいか、ふと、死体のようだと思った。

「あ、ありがとうございます」

 慌てて頭を下げる。声がうわずっていたのは、そんなバカな発想をしたせいだろう。さすがに突飛すぎる。

「どういたしまして」

 彼女はそう言うと姿勢良くお辞儀をして、去っていった。

 結局の所、口裂け女なるものはいなかったらしい。急に安心して気が抜けたせいか、急におなかが空いてきた。

 行儀が悪いけれど、私はさきほど彼女に拾ってもらったおやつを食べることにした。

 白いビニ―ルをむき、一気にかぶりつく。チ―ズの酸味とカマボコの絶妙な塩味が、口の中に広がる。うん、やっぱり、チ―カマっておいしいよね!


 学校は今日も今日とて、いつも通りだ。眠たくなるような英語の授業に、おいしいお弁当に、おやつのチ―カマ。

 放課後になり、さて帰ろうかと支度を始め適当に参考書などをカバンに詰めて、意気揚々と廊下を歩いていると、視界の隅に白いマスクをとらえた。

 昨日会った先輩で、間違いなかった。ただ、ずいぶんと変な所にいる。そこは完璧な空き教室で、授業はおろか、部活でさえも使っていない場所のはずだった。おまけにそんな場所に一人でいる。ちなみに、私が昨日と今日も一人なのは、帰宅路が同じ友達は部活やバイトで忙しいからで、友人がいないわけじゃない! ……まあ、そんな多くもいないけど。

「おじゃまします」

 とりあえず、アレこれ考えるのは面倒なので、先輩のいる教室に入ってみた。

 教室の中は埃っぽく、むせてしまいそうだった。けれど、それ以外問題はないように見えた。部屋の広さは四十人ほどいる私のクラスを、ちょうど半分にしたくらいだろうか。イスや机といった調度の類はなく、何に使うんだろうというぐらい、がらんとしている。ただ、日当たりだけはよく、奥にある窓からは光が降り注いでいて、がらんどうの割には不思議と暗い感じだけはしなかった。

「あなたは昨日の――」

 先輩は驚いた様子で目を見開いていた。誰かが来るとは、思っていなかったのかもしれない。だとしたら、一人になるために、こんな場所にいるということになる。それは少しばかり寂しすぎる気がした。図書室や誰もいない教室とか、一人になれる場所はいくらでもある。あえて、ここを選ぶ必要はない。

 この部屋には何もない。教室や図書室なら、空気にひといきれの残滓めいた温もりがある。けれど、誰もいない、何もないここにはさび付いた鉄を思わせる硬質な冷たさが、埃と混じって漂っていた。

 こんな場所は一人でいるべきじゃない。入ったことはないけれど、牢獄とかそういう場所とここは似ている気がした。――孤独に打ちのめされるだけの場所に。

「はい、昨日はありがとうございました。おかげさまで、下校中にひもじい思いをせずにすみました」

 私は右手を挙げておどけた調子で言う。

「たいしたことは、していないわよ。転がってきたものを拾っただけなんだし」

 先輩は小首を傾げ、目を細めた。そんな何気ないなしぐさが、とても上品に見えるくらいきれいな所作だった。母に何をしてもガサツと言われる私とは、正反対だ。

「ところで、こんな所で何をしているんですか? 部活のわけはないですよね?」

「何もしていないわよ」

 私の問いに、あっけらかんとした答えが聞こえてきた。

「ただ、ここにいるだけ。何かをしているわけじゃないの。無為に過ごしているのよ」

 そう言って、先輩は微笑んだ。口元は相変わらずマスクでわからないけれど、目元が弓なりに細くなっていた。その調子は何でもない、たわいない言葉を口にしたような、軽い雰囲気だった。けれど、内容とのチグハグさが、どこかおかしい気がした。

「……無為ですか。それじゃ、こんな何もないところに一人でいたら、退屈なんじゃないですか?」

「そうね。暇つぶしをたくさんするくらいには、退屈かも。――あっ、良かったらだけど、話し合いになってくれないかしら?」

 先輩は手を叩き、ナイスアイディアが思い浮かんだとばかりに瞳を輝かせた。

 話し相手か。部活やバイトをしているわけではないので、ここで数時間過ごすくらいは問題なかった。それにこの部屋にこの人を一人で過ごさせるのは、よくない気がした。ここにいればいつまでも取り残されてしまうような、そんな気がしてたまらなかった。

「いいですよ。私でよければ、話し相手でも、トランプでも、ちょっとした大人の階段でもつきあいますよ」

 ちなみに、私の中で許容範囲の大人の階段は、学校でおやつの飲食くらいだ。校舎の窓を割るのは器物破損なので管轄外である。

「――つ、つきあってくれるの?」

 先輩は驚いているのか、声がうわずっていたし、瞳はこぼさんばかりに大きくなっていた。

「話し相手くらいなら、大船に乗ったつもりでいてください! ――性的な意味でしたら、泥船に乗ったつもりでお願いします!」

 胸を張って言ったが反応はない。私の混ぜたウィットに富んだジョ―クにも、ツッコミはなかったしな。……つまらなかったわけじゃないよね?

「あの、先輩、どうかしましたか?」

「えっ、あっ、ううん、大丈夫! 大丈夫だよ。ちょっと、驚いただけだから」

「アレ、私、何かびっくりさせるようなことしましたか」

 まだ一発芸の猫の声まねをした犬は、見せていないはずだ。

 しかし、先輩は笑った。何がツボに入ったのか、声を上げて、最後には涙まで浮かべていたのか、目尻を手で拭っていた。白い手が雫にぬれて、微かに光っていた。

「あ―、おかしい。なんだか、こんな風に笑ったの、すごい久しぶりだよ」

「――そんなに、私、変なことしましたか?」

 私がおそるおそる聞くと、先輩は慌てて首を横に振った。

「ああ、違う、違う! あなたが変なことしたとか、そういうのじゃないの。単純に原因は私よ」

 先輩はそう口にして背後にある窓から、空を眺めた。春特有のあたたかな日差しを含んだ、まばゆい青空だ。特別な景色なんかでは、もちろんない。けれど見つめる先輩のまなざしは、まるでファッション雑誌でお気に入りのアイテムを見つけたような、熱のこもったものだった。ただ、ファッション雑誌を見つめている時、欲しいと思いながらもどこかであきらめているような、そんな近くて遠い羨望に見えた。

「手に入れるのは簡単なのに、私が勝手にあきらめていただけなんだなってわかったから、笑えたのよ。――ああ、こんな簡単なんだなって、安心したのかも」

 先輩は窓から視線を外すと私を見て、そして右手を差し出してきた。

「それじゃあ、これから、よろしくね。私の名前は佐倉志穂」

「こちらこそ、よろしくお願いします。私の名前は柳優月です」

 私は差し出された手を握り、笑った。先輩――志穂さんも目元が細くなっていた。


 放課後、志穂さんと会話するようになったけど、特別何かが変わったわけじゃない。しいてあげるなら、帰宅時間が遅くなったことと、放課後が楽しみになったくらいだろうか。

「しかし、私は柳さんと話していると楽しいけど、柳さんの方はつまらないんじゃないかな」

 ある時、いつもの空き教室で日が来れ始めた頃、志穂さんがポツリともらす様に言った。

「私って話し上手でもなければ、聞き上手でもないから、柳さんにきっと気を使わせているわよね」

 そう口にする志穂さんは目を伏せていて、そんな自分を責めているような気配が声音から伝わってきた。そんなことないですよ、なんて言葉をかけらも望んでいないようだった。

「私ね、いつも空回るの。何かをしていても、楽しいのは私だけで、他の人は違うの。私だけがね、勝手に一人で楽しんでいるの」

 志穂さんは何でもないことのように、まるでカサブタをはがすかのように、もう過ぎ去った過去なんだと、どこか遠くを見つめるまなざしでつぶやくように言った。

 ただ、それはまだ生傷に近いカサブタを無理矢理はがした様な、思わず目を背けたくなるような痛々しさがあった。

「だからね、いつも思っていたんだ。――キレイになりたいなって」

「キレイに、ですか?」

 思いがけない言葉が聞こえて問い返すと、志穂さんは静かにうなずいた。

「そう、キレイ。なんていうのかな、キレイはさ、強さのような気がするんだ」

「……強さですか」

「うん、花とか、景色とか、絵画とかさ、キレイなものって人の心を癒すよね。そう言う風にさ、私が空回ったせいで傷つけた人を、キレイがあれば癒せる気がしたんだ」

 志穂さんは語る。瞳を輝かせ、まるで夢を話すような情熱をかけて。私はそこに違和感を覚えてはいたけれど、黙って聞いていた。

「そうして、癒すことができれば、私はいてもいいよね。空回ってしまう私だけど、大丈夫だよね」

 志穂さんが口にする言葉は、ひどく歪だった。ガラスを割っても弁償するからいいよね、とでも言うような、屁理屈にもならない理屈がそこにはあった。

 否定することは簡単だ。正論を言えばいい。そうじゃない、人はものじゃないから、そんな風に考えるのはおかしい。けれどそれは正しいだけで、意味があるようには思えなかった。

 だから私は何も答えなかった。反論も肯定もせずに、志穂さんの論理を耳にしていた。

「私は、キレイになりたい。そうすれば、誰も傷つけないし、私も傷つかずにすむから」

 そう言う志穂さんの背には窓があり、そこからは西日が差し込んでいた。それは怖いほどに赤く、怖いほど暗くて、志穂さんはその炎のような夕日に染まっているようにも、その血潮のような黄昏に沈んでいるようにも見えた。


 この学校に佐倉志穂という人物は、在籍していなかった。

 生徒名簿を閉じると机の端にずらし、私は寝そべるように上半身を机の上に広げた。幸い、図書室に人気はなく、図書委員の人も奥で何かしているので、だらしない格好をしていても文句は言われない。

「……先輩は、何者かしらね」

 橙色のテ―ブルに意味もなく指を、滑らせる。古いのだろう、座っているパイプイスが低い音を立てた。

「……幽霊とか、そういうのなのかな」

 口に出して思う。その線は悪くないなと。仮にそうだとしても、驚かないな。あの人にはそう言った雰囲気があった。とはいえ、それで納得するのもね。

 志穂さんのことを調べているのは、たまたまだった。委員会の用事で来月に迫っている学園祭の準備のため、いろいろと調べごとをしていた。

 私は全校生徒の名前を確認する作業があったので、生徒名簿で確認していたのだが、そこに志穂さんの名前はなかった。生徒名簿は今日中に先生に返すものだと言うことだったので、返却を買ってでてその道すがらここで念のため確認していたのだ。

「資料に名前が載っていないのは事実だし、次は先生にでも聞いてみますかね」

 

「――佐倉志穂、ああ、佐倉ね。懐かしい名前だ」

「知っているんですか?」

 部活の顧問や、帰宅した先生もいるのか、昼間と違って職員室は閑散としていた。コ―ヒ―の香りが鼻につき、視線を動かすと書類が雑多に積んであるスチ―ル製のラックの端に、申し訳なさそうに湯気を立てるコ―ヒ―カップが置いてあった。

「俺としちゃ、お前が知っていることの方が驚きだよ」

 白髪が混じった頭をかきながら、先生は言った。重苦しい何かを吐き出すように、ため息をそえて。

「二年前にあんなことがなけりゃ、アイツも元気に卒業していたんだろうけどな」

「あんなことですか?」

「あんまり詳しくは言えんが、聞いたことくらいはあるんじゃないか。――炎の部室って言葉はよ」

 私はその言葉に息を飲む。それは有名な話だ。

 二年前にこの高校で火事騒ぎがあった。そしてそのときに、人が一人亡くなった。いじめを苦にしての自殺だったらしい。

「……アイツと何の接点もないお前が、佐倉の名前を出すってことは、まだあの部屋にいて、囚われているんだな」

 先生はどこか遠くを見つめるようなぼんやりとした目で、私を見た。それは私というよりは、私の向こうにいる志穂さんを見つめようとしているようだった。

「――いつまでも、あんな場所にいたってしょうがないだろうに。まあでも、そういうものかもしれないな。簡単に、どこかへなんて行けないか」

 先生は悼むように目を細め、まるで、成仏できない幽霊に向けるかのように、哀しみと慈しみをにじませて言った。

 そういえば、最近噂になっていた。焼身自殺した生徒は、自分が死んだ場所から抜け出せず、夜になるとそんな自身の境遇を嘆き泣いているのだと。


 夜の学校は、やっぱり不気味で怖かった。

 消防所直通の緊急用ボタンの赤い光や、非常用通路の緑の光が暗闇をよけいに薄気味悪くさせる。廊下に響く靴音も、広い校舎の中で反響するせいか、私だけがいるとはとても思えなくてイヤになる。

「――何で、こんなところに来ちゃったのかね」

 わざわざ、一階の渡り廊下の鍵をこっそり開けておいて、夜中に進入する必要なんてどこにあるんだろう。怖い思いまでして来たけれど、これで志穂さんがいなかったら笑い話にもならない。

「そもそも、私が行ったからって、何が変わるってわけでもないのに」

 階段を昇り、いつも志穂さんがいる空っぽの部屋へ向かう。暗すぎて足を踏み外しそうになるが、なんとかこらえて足を進めてゆく。

 志穂さんの元へ、向かう理由はなんなのだろう。行く必要があるのかと問われれば、ないと答えるのが正しいと思う。つきあいがないわけじゃないけれど、長いというほどではない。親しいかと聞かれれば、それなりにと、返事をするしかない。

 否定する理由ばかりが出てきて、肯定のわけは一つも浮かばない。なのに、それでも、志穂さんの元へ向かおうという意志は揺るがない。

 キレイになりたいと、歪んだ理由で志穂さんは言った。それをどうこうできるわけじゃないけれど、ただあのままじゃ悲しいと思った。でも、それはそう思っただけで、形になることはなかった。だから今、形にしよう。そうしたからって何かが変わるわけじゃないけれど、志穂さんをどうにかしたい理由くらいにはなるだろう。

 要は、なんだか放っておけなかった。そういうことだろう。

 

 空き教室からは、呻くような泣き声がしていた。――志穂さんの声だった。

 ドアを開けると、そこにはうずくまりながら嗚咽を上げている志穂さんがいた。いつものようにマスクをしているせいで、相変わらず声はくぐもっていたけれど。

 窓から射す月光だけが唯一の明かりで、やわらかな光に抱かれる志穂さんはどこか神々しくさえあった。

「……柳さん、どうしてここに?」

 突然の来訪者が私だと気づくと、まだ悲しみの余韻が残る震えた声音で問いかけてきた。

「どうしてなんでしょうね、まあ、放っておけなかったってところで、一つお願いします。――そんなことより、志穂さんは何をしているんですか、ここで?」

「何もしていないわよ」

 抑揚のない吐き出すような口調で、静かに言葉をつなぐ。

「ただ、ここにいるだけ。何かをしているわけじゃないの。無為に過ごしているのよ」

 それは最初に志穂さんへ問いかけたとき、返ってきた言葉だった。

「泣きながら、哀しみながら、苦しみながらですか?」

 私の問いに返事はなかった。ただ、静寂だけが肯定するような響きを持っていた。

「そんな風に過ごして、何か変わったんですか?」

 答えはない。ただ、志穂さんの息を飲むような気配と、唾液を嚥下する音が暗闇を越えて伝わってきた。

「――私はね、キレイになりたいの。何にもできないから、何かをしたいの」

 志穂さんは私を見た。全てが密度の濃い闇に包まれてあやふやな中、彼女を照らす月明かりがその視線の硬さを明確にしていた。

「ねえ、柳さん、私、キレイ?」

「……わかりません。けど、願うだけじゃ、何も変わらないと思います」

「そっか、そうだよね。私はキレイになりたいと思っていただけで、なんにもしていなかったもんね」

 ため息とともに漏れた言葉は、張りつめたものがなくなったような、どこか軽い調子があるように思えた。

「ここでね、友達が死んだの」

「――志穂さんはこの学校の卒業生だったんですね」

「卒業はしてないかな、中退しちゃったからね」

 マスクをしていたのも、それが理由か。なるべく顔がばれないように、志穂さんは顔を隠していたのか。志穂さんのことを知っている先生はいるだろうが、髪型を変えて、マスクをしていれば気にも止めないだろう。そもそも、いるなんて思っていないのだから。

「いじめられていたのは知っていたし、私もね、できることはしていたつもりだったんだ。……けど、意味はなかったけどね」

 なんとなくだけれど、時が流れすぎたのだろうと思った。志穂さんは悔い入るように眉根を寄せているけれど、過去を語るとき特有の諦観した気配がにじんでいた。

「どうにも、できなかったな。それはきっと、私には何にもなかったから何だろうね。プラスもマイナスも、何にもなくて、ただいるだけの存在。だから何にもなくて、何にもできなかったんだろうな」

 志穂さんは笑った。雪のような笑みだと思った。日差しに溶けていく儚さのようなものが、漂っていたせいかもしれない。

「まあでも、いいか、柳さんに会えたし。柳さんと話せて、もう一度やり直せた気がしたんだよ。楽しかったな」

「それは私だってそうです」

「そう。それなら、私もうれしいな。――私はさ、何もできなかった。だから、せめて、そばにいようと思ったんだけど、エゴだったみたいだね。あの子はもう、どこにもいなくて、私だけが取り残されていたみたい」

 志穂さんは何もないがらんどうの教室を見回し、苦笑するような響きで言った。

「柳さん、ありがとう。いろいろなものが手には入ったよ。おかげさまで」

 笑う。軽やかに、一欠けらの哀しみも感じさせぬままに。

「後悔しているんですか?」

「後悔をしない人なんて、いないんじゃないかしら。皆、どうしようもないってことを、せおっているんだと思うわ」

 彼女はそう言うと、マスクを取った。

「でもね、それで良いんだと思う。後悔は消えないけど、それでも良いかって思えるから」

 彼女は笑う。月の光に照らされて、妖しく、けれど、夜特有のおぼろげな輪郭で微笑んでいた。

「私はね、あなたと出会えてそう思えた。こうしてあなたがここに来てくれて、私と友達になってくれた。それで、もういいの」

 志穂さんは、助けてと叫んでいたのではないだろうか。誰もいない教室で一人泣いていたのは、誰かに見つけて欲しかったからで、そうして、友達になりたかったんじゃないだろうか。

 本当はきれいとか、そういうのはどうでもよくて、何の理由もなしに手を差し伸べて欲しかったんじゃないだろうか。そうじゃなければ、いつまでも二人は取り残されていたのかもしれない。過去と未来、その両方で苦しんでいて、けれど、二人はすれ違うだけで、決して救われることはなく、互いに助けを求めるように泣いていた。でも今ようやく、お互いの声が聞こえたんじゃないだろうか。なんとなくだけれど、そんな気がした。

「――ありがとう」

 志穂さんに重なるようにして、もう一人、姿の見えない誰かの笑顔が浮かんだ。誰にも救われなくて、取り残されていた彼女は今ようやく、消え逝くことができたんじゃないだろうか。

きれいとかそういう一切を無視して伸ばした手を、遠いいつかの彼女は握ったんじゃないだろうか。根拠なんてない。

ただ、そう思えるほどに志穂さんの笑顔はきれいで、朗らかだった。形のないさよならが、やさしく鎖から解き放たれるような、そんな余韻が空気に満ちていた。


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