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自作小説倶楽部 第5冊/2012年下半期(第25-30集)  作者: 自作小説倶楽部
第29集(2012年11月)/「冬支度」&「ストーブ」
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4 やあ 著  「ストーブ」

『ストーブ』 少女の学習机は二階の廊下の隅に置かれていた。

 傍らの和室は父の後添いとして家に入った義母の部屋、そして続きの間は夫婦の寝室に充てられていた。

 ある日、父方の祖母が少女の家を訪れた。

 約一年ぶりの来訪であった。


 齢70を超えた老女は、とりわけ一番幼い孫である少女を可愛がっていたせいもあり、板の間にぽつんと置かれた学習机を見て言葉を失った。

 少女の痩せこけた小さな背中と明らかに不適切な位置にある学習机を交互に見つめながら、老女は激しく懊悩した。


 だが先妻と別れた息子がようやく再婚した相手と不仲になることを恐れた老女には、少女に2畳のピンクのカーペットと小型の石油ストーブを買い与えることしか出来なかった。


 少女は祖母に教えられた通り、慎重にストーブに給油をしては暖を取った。

意外なことに義母も実父も年の離れたふたりの姉も、少女がストーブを使用することを黙認した。

 或いは祖母からの懇願があったのかも知れなかった。

 しかしその辺りの事情は少なくとも少女には伝えられなかった。


 石油ストーブは週末毎に泊まりに行く祖母の家と同じ匂いがした。

 少女はその匂いに束の間の安らぎを覚えるのであった。


 実母は離婚を決意した時、末っ子であった少女だけを連れて家を出た。

 児童福祉施設に少女を預けて働き始めたものの、少女が頑なに周囲と馴染もうとせず、やむなく連れ帰ったという経緯があった。

 少女を残して再度、単身で出奔した実母には、自分のその行動が少女とその姉たちとの間に深い亀裂を生じさせてしまったことなど知る由もなかった。


 現在なら児童相談所が介入するケースとなるのだろう。

 少女は血の繋がった姉から壮絶ともいえる虐待を受けることとなった。

 思春期の長姉と義母との間では激しい口論が絶えず、やがてノイローゼ気味となった長姉から殴られたり蹴られたりがごく当たり前のことのように繰り返されるようになったのである。


 いつしか長姉に追いかけられると、少女は浴室に逃げ込んで施錠することを覚えた。

 浴室は少女にとってしばし安全なシェルターとなった。

 しかしそれはほんのわずかな期間のことで長くは続かなかった。

 浴室での籠城に逆上した長姉が、ドライバーでドアを叩き破ったのである。

 

 力任せにドライバーの金属部分をぶつける音に少女は怯えた。

 ドアが開く前に息絶えてしまいたいとさえ思った。

 少しずつ凹みが大きくなって、軋むアルミのドア。

 後に同じ浴室で少女が自傷を繰り返すこととなったのは、この時の記憶と何らかの関係で繋がっていたのかも知れなかった。


 ベランダに出され、内側から鍵を掛けられることなど日常茶飯事であった。

 降りしきる雨の中、ベランダで膝を抱えていて、外を歩く同級生と目が合ったこともある。

 少女は居ても立ってもいられないような恥ずかしさに駆られて、同級生の姿が見えなくなるのと同時にベランダのガラスを足で蹴破っていた。

 一瞬、自分が何をしたのかわからなかった。

 我に返った時には大きく割れたガラスの上にべたりと座り込んでいた。

 すぐに階下から駆け上がって来た長姉に頬の裏を内出血するほど打たれた。

 その時のことだ。

 突然、次姉が

 「怪我をしとるんやでもうやめて!」

 そう叫んで少女の上に覆い被せさった。

 次姉は泣きながら少女の足から流れる血をティッシュで拭い、傷の手当をしてくれた。

 そしてその時の記憶は長期に渡って少女の生きる糧となって、彼女の心を暖め続けた。


 ベランダに寄りかかるように植えられていた月桂樹の木を伝い降り、裸足のまま庭に身を隠したこともあった。

 二階から飛び降りたと思い込んだ長姉の「気違い」と罵る声が鋭利な刃物のように少女の胸深く突き刺さった。

 その刃は少女を内側から切り裂き、彼女の心身を急激に崩壊させた。

 土曜日の午後が来る度に父方の祖母の家へと預けられていた少女は、日曜日の夕方になると決まってひどい下痢に見舞われたが、祖母にはひた隠しに隠し続けた。


 長姉が進学のために家を出て身体的な虐待に終止符が打たれるのと同時に、少女は自傷行為に耽溺することとなった。

 安心して過ごせる筈の日々が訪れた途端、皮肉にも自分で自分の体を傷つけずにはいられなくなったのである。

 気持ちが沈む度に剃刀を腕に当て、ひと息に刃を引いた。

 肌の上を走る鮮血を見ると、ほんの少し心が軽くなった。

 もう一度だけ。

 あと一度だけ。


 まるで麻薬にとりつかれたように少女は切り続けた。


 深く切り過ぎてしまい、タオルが絞れるほど出血したこともある。

 しかし彼女は既にその危険な行為を止めることが出来なくなっていた。

 腕に切るところがなくなると、太ももに剃刀を当てた。

 当時の彼女は切ることでようやくいのちを繋いでいた。


 それからのことは多くを語らないでおこう。

 ただいくつかの幸運な出逢いを経て、少女は生き直すことが出来たということだけを伝えるのみに留めておく。

 どんなに深いところまで落ちても、その後の状況次第で人間には這いあがる能力があるのだと思う。

 少女はやがて成人し、良き伴侶を得て子どもにも恵まれたが、いわゆる虐待の連鎖は起こらなかった。


 現在、幸せに暮らす彼女の家に石油ストーブはない。

 しかし祖母から与えられた石油ストーブは、今も彼女の脳裏に鮮やかな映像として存在している。

 時折、かつての少女は堪らなくそのストーブから目を逸らしたくなった。

 腕や太ももに自らがつけた傷跡と同じように。

 逃げてはいけないことはわかっていた。

 彼女は敢えて自分の軌跡を見つめることで、手を差し伸べてくれた人々へ想いを馳せ続けた。


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