6.
香ばしい味噌の香りと、リズミカルな包丁の音で、吉鷹は目を覚ました。
狭いがすっきりと片づけられたマンションの一角、ソファーの上だ。風が流れこんできている窓の外には五重塔。カウンターキッチンではエプロン姿の結香が青葱を刻んでいた。黒ぶちの眼鏡に、髪をゴムで結んだ無防備な姿。こういう人と共に暮らしたいと、とっさに思う。
小皿に味噌汁をとり、味見をする姿を背後から抱きしめたかったが、はね除けられるのが容易に想像できた。
「起きた? 顔を洗っておいで。今日一日しか時間がないのでしょう、すぐに出るよ」
急きたてられて朝食を摂り、結香が手配していたレンタカーにエンジンをかけた。ぼったりとしたフォルムの黒い軽自動車だ。吉鷹としては運転どころか乗ることすら、全力で拒否したい。だが、結香に対しては文句が言えない。ナビの設定をする。
「どこへ向かうんですか」
「とりあえずは鞍馬山でしょう。氷賀香葉の情報集めはすでにしているけれど、チビ牛若くんと出会ったころの生活が不明なんだ」
「結香さん、氷賀香葉の弁護をする気ですか。なんのために、なんの容疑から」
結香は切れ長の瞳を美しく細めて吉鷹に流し、意味ありげな笑みをみせたが、答えなかった。助手席の窓を数センチあけ、長い黒髪を風に流す。地味な紺色の一重のスーツである。
長谷部結香の表の職業は弁護士。どんな罪状でも無罪にしてしまう辣腕で、巨額の報酬と引き換えに極悪犯を無罪とすることもあれば、手弁当で弁護を引き受けもする。いっぽうであからさまにやる気なく、あっさりと有罪判決を受ける時もある。
まったくもって理解不能で、やりにくい。法曹界では「触らぬ長谷部結香に祟りなし」と拝まれて忌避されている、祟り神のような存在だ。
洛北を抜けると、結香はひとり言のようにつぶやいた。
「ボクはね、法律は99パーセント以上正しいと思っている。でも時たま、法律では悪となる正しさもあると思う。そんな悪を罪とさせないのがボクの目指すものだよ」
「つまり、氷賀香葉は法律では悪となる罪を犯しているのですか、やはり氷賀一彦を殺害したのは」
「ほら、すぐにチビ牛若くんはそうやって先走る。
すこしおとなしく聞いててよ。
そうだね、ボクはもともと、氷賀一彦に注目していたんだ。機内誌の紀行文を読んで、ずいぶんと作風が変わったと思ったから。
氷賀一彦は兄さんとおなじころ、共に学生で文壇デビューした。兄さんはバリバリの純文学で一作だけ、氷賀一彦はセンチメンタルで不実な恋愛ものを大量生産して、よく比較されていたけど仲は良かったよ。うちにも遊びに来たけれど、ものすごくシャイでね、ぼくたち子どもを相手にしても、視線もあわせられず、敬語で、ろくにしゃべれないような気の弱い男性だった」
それについては吉鷹には疑問がある。
結香李香の双子は、少女のような外見ながら、悪知恵は大人顔負け、演技力は女優級という性質の悪さだった。身内ですら、大人は太刀打ちできなかった。氷賀一彦だから、という話ではないはずだ。
だが、せっかくのドライブに口に出すのは慎んだ。
「不実な恋をしてしまう女性心理の描写が細やかで、時代にもはまって、ドラマ化も映画化もされて一時期は世を席巻したけど、大流行した分、飽きられるのも早かったな。妬み僻みのバッシングもすごかったし。
氷賀一彦は大地主で生活にも困っていなかったら、あっさりと絶筆してしまったんだ。
それが久々に氷賀一彦の文章を読んだら、別人みたいに落ちついた、骨太の硬派な文章でね。これから楽しみにしてたのに、亡くなったのは惜しかったな」
「別人のような? 別人だとか」
「それは無いよ。文体とか行間にクセがある。それに別人ならば、氷賀一彦の名を今さらつかうメリットは無いもの。最後の方は悪い噂しかなかったから」
「悪い噂?」
「役につけてやると女優をモノにしたとか、ファンの女性に手を出したとか。デマもいいとこ、あり得ないのに」
「本当にデマだったんですか? 火のないところに煙は立たないでしょう」
「ないない、絶対ない、あり得ない。だって」
結香はほそい眉をあげて、意味ありげに含み笑いを零した。
氷賀香葉のやたらに華奢な首すじが脳裏によみがえる。
「女性はまったくダメ。だからこそ実らぬ恋に苦しむ女性の心理描写が切実だったんだ、なにせ当人の実感覚だもの。
気になるのは氷賀一彦と香葉の関係だね、どういう経緯で養子縁組したのか。何パターンか考えられるけど、まあ、それは後々本人に直接聞くしかないかな」
結香の携帯電話が鳴った。「あ、兄さん?」と華やいだ声を結香があげたので、吉鷹はコンビニの駐車場に車を止めた。飲み物を買い、一服して戻ると「そう、薔薇の迷宮だって。ウソでしょ、兄さんに似合わないよぉ、あ、そ。じゃあよろしく。おやすみ」と会話が終わったところだった。
運転席で、ナビを操作して地図を確認する。
「もう貴船口ですが、どこに向かいますか。鞍馬寺にでも行ってみましょうか、それとも貴船神社がいいですか」
「なに言ってんの、観光に来たんじゃないよ。早く連れていってよ、『鞍馬山のしーちゃん』が住んでいたところに」
「はあ? 今までの話、聞いてました? オレ、京都に居た記憶すらないんですよ」
「近くまで行けば思い出すでしょう。
っていうか、道案内できなければ、チビ牛若くんがここに居る意味無いじゃない。死ぬ気で思い出してよ、命令、絶対命令」
「ええっ、まさかそのためだけにオレを京都でいちにち拘束したんですか。一緒に居たいとか、協力してくれるとかじゃなく? 分かってます? 出勤二日目で、いきなり有給休暇とってんですよ」
「社会不適応者、出社拒否と思われてたりして」
結香はけらけらと笑って、吉鷹の買ってきたペットボトルのキャップを開けた。こんなだったら、飲み物なんて買ってくるんじゃなかった、代金請求しようかなとも思うが、罵詈雑言で返り討ちにあうだけだろう。
吉鷹は無言でアクセルを踏んだ。
結香は冷抹茶を美味しそうに飲むと、眼を細めて上機嫌で笑った。
「それよりさあ、ビックリ。
兄さんが『薔薇の迷宮』に聞き覚えがあるから、調べてみるって。あの時宗兄さんがだよ。あの顔でねえ。似合わない、絶対ないよねえ」
「長谷部時宗さまですか? いまはたしかイギリス在住ですよね」
長谷部6兄弟の長兄、時宗は作家で知の巨匠とも言われているが、かなり昔に母国を捨て、イギリス国籍を取得したと聞いている。噂はいろいろと聞くが、吉鷹には面識はない。
「うん、なんか知っているかなって、メール入れたんだ。氷賀一彦から最近手紙をもらっていたらしい。ずい分と前向きに執筆中で、『完成したら自分の生涯最高傑作となる』と書いていたとか。帰国したら会う約束をしていたのにって、驚いていた」
かつての流行作家の自称最高傑作。
いかにも駄作そうな語感である。
原稿、と氷賀香葉が喚き続けているのも、不自然な気がする。
「本当に書いていたのかな」おもわず呟く。
「ええっ、書いててもらわなきゃ困るよ。原稿がなければおカネにならないじゃない」
ハンドルにつんのめりそうになり、腕をつっぱって堪えた。
それか。
それが理由か。
やけに積極的だと思ったけれど、今回乗りだしてきたのはそっちの理由か。
なんでこんな人を好きになったのだろう。自分自身に腹を立てながら貴船口から山道を走りはじめた。