5.
終電ののぞみに吉鷹は乗った。
意気消沈している署長に平謝りに謝った挙句、明日は休ませてくれと申し出て、周囲が唖然としている中を飛び出してきた。
志摩津の家へメールを入れようとして、指が止まる。誰になんと告げればいいのか。今日は吉鷹の初出署を祝うため、忙しい家族が集まったはずだ。
義父にするか、本家の母にするか、迷って、いちばん気易い松芳に「ごめん、いまから京都に行きます。明日は休みを取りました」とだけ打った。
志摩津の者はみな親切にしてくれるけれども、自分は他人だという意識がある。他人だからこそ、みな吉鷹に優しくしてくれているのも、事実だ。
いつかは志摩津から離れなくてはいけない、それは就職した時ではないか、とぼんやり考えていたものの、未だ言い出せずにいた。
不意に、氷賀香葉の青白い美貌が蘇った。あいつも他人の家で暮らしている。養子だ。実の家族はなく、京都の出身である。
もしかしたら本当に、吉鷹の過去とつながっているのかもしれない。
薔薇の迷宮
それはあの荒れ果てた庭の、野茨の固まりのことか。
それにどんな意味があるのか。
あの時のように助けるとは、なにを指しているのだろう。
京都駅からタクシーに乗り小半時、祇園の奥、ひかえめな門構えの料亭に入ると、なじみの女将がでてきた。
間が空くのを嫌う吉鷹のために、すでに座敷からは三味線の音が響き、舞妓ふたりが華やかに笑っていた。
賑やかにしておいてほしい、けれど自分には構わないでくれ、というのが吉鷹の肌にいちばんあう。
手酌で酒を呑み、肴をつまみながら、舞妓たちが仲睦まじく遊んでいるのを見るともなく見ていると、京言葉になりきっていない挨拶が聞こえ、襖が開いた。
二羽の蝶の戯れた濃紫の着物の裾を引き、先笄に柳結びの芸妓が左褄をとって入ってきた。
白塗りの顔は涼やかに整い、ついた三つ指の指先までもが美しい。重さなどないように立ち上がるのも華やかで、隙がない。
心得ている舞妓ふたりがにこりと視線を交わし、だらり帯を揺らして地方と出ていこうとするのを吉鷹は呼びとめた。
「ひとさし、舞っていただけませんか」
地方が三味線を鳴らして唄いはじめた。芸妓が金屏風の前に立つ。京舞ではない。千代の寿。縁起の良い祝いの舞いだ。吉鷹の初出勤を祝って、用意していたのだろう。
吉鷹は杯を置き、居ずまいを正した。舞妓たちも滅多に見られない舞を拝見できると、真剣な顔となる。
長谷部結香の舞の基礎は、志摩津古武術のひとつ舞術にある。余計な動きを省き、体幹を安定させ指先にまで神経をつかう。この舞術に於いて、志摩津の者でも結香には太刀打ちできない。
扇を構えて、空気を張りつめさせる。動きのひとつひとつは一見、緩やかだ。だがそれがめくまし。右手に目を奪われれば、左手の短剣が胸を突く。華やかな扇の舞に気を取られると、後ろをとられる。 分かっていても騙される。酔わされる。
かつてはその傍らに相方がいた。
瓜二つの一卵性双生児、長谷部結香と李香。いつ、どんなときでも一緒で、以心伝心で、ふたりきりで世界は完成しているように見えた。
それを吉鷹が奪った。
李香は吉鷹を庇って、絶命した。
吉鷹は結香に対して責任を負う覚悟だが、結香はむしろ李香が命を賭して守った吉鷹を、兄のように見守ろうとする。それで、つい、この人相手には甘えが出てしまう。
地方と舞子が去って静まり返った座敷で、吉鷹は泥酔し、結香の膝枕で横になった。
吉鷹が氷賀香葉の話を語るのを、結香は吉鷹の髪を撫でながら聞いていた。
「半分、ボクの予想通り。チビ牛若くんとのつながりは想像外だったな。それにしても薔薇の迷宮か、なんだろうね。
ますます興味がわいてきた。明日は忙しくなりそうだな」
「ってなんの話?」
「そんなの言えるわけないじゃない。刑事に情報を洩らす弁護士を、誰がやとうの」
「えええっ、まさか、結香さん」
飛び起きたとたんに、酒が回り出す。
芸妓ではなく、弁護士長谷部結香の顔で胡散臭くにっこりと笑うのがぐにゃりとゆがみ、吉鷹は意識を失った。