4.
沈黙があった。
だれも動かない。
吉鷹は直ぐに立ったまま、前を見ていた。
誰へも視線を向けない。戦いたいと思う者がみずから前へ出てくるまで待つ。戦いたくないと思う者には無理強いをしない。
教えを乞う者には、その者の身の丈に合った指導をする。
ただそれだけ。
単純明快である。
気の遠くなるほどの沈黙ののち、黒帯の男が動いた。
すでに身体の動きがぎくしゃくとしている、吉鷹の張りめぐらした気に呑まれていて、当人も体が自由に動かないのを承知して、それでも行きがかり上動かないわけにもいかず、出てきたようだった。
負けを悟っている熟練者を、甚振る必要はない。対峙した瞬間に、襟首をつかんで投げ飛ばす。
床に叩きつけられた黒帯は、苦痛ではなく夢見ているような、恍惚とした顔をしていた。
皮きりに、他の者たちも次々と挑んできた。
試合というより、吉鷹は相手の技量にあった指導をしていると分かると、道着の用意をしていない捜査一課の者も、靴下を脱ぎ、腕まくりをして手合わせをのぞんだ。
髪をひっつめた女性捜査官もいれば、おずおずと初心者だけれども、と申し出る者もいる。それぞれに応じた技量で相手をする。ひと手合わせすると、すがすがしい顔に皆がなる。そうやってよろこばれると、自分がここに存在している意味があるのかと、すこしばかり嬉しくなる。
体が温まってきて、指の先から髪の先まで、無駄な力なく自然に体が動くのを見て、綺麗、舞っているみたい、と女職員は目元の涙をぬぐいながら、呟いた。
戦った者たちも、見ているだけの者たちも、放心して見惚れている。なぜ署長が吉鷹に惚れこみ固執するのか、名門の家という肩書や、紙の上だけでの経歴ゆえではないとひしと実感しているようだ。
村上はじっと道場の隅で正座し、こぶしをひざ上で握りしめたまま、吉鷹を見つめていた。細い眼には反発ではなく、憧憬が浮かんでいる。いまひとつ本性の分からないヤツである。
それでは、と真打の署長が勿体つけて重々しく立ち上がった時、着メロの微かな音が聞こえた。どのような状況下であれ鳴るように設定してあるシンプルなベルの音は、特別な人からの通話だ。
吉鷹はすっ飛んで更衣室に戻った。切れそうなタイミングで通話ボタンを押せた。
『初出勤おめでとう、まだ牛込署?』柔らかな声が聞こえてきた。長谷部結香。名門長谷部家の四男で、吉鷹にとっては兄弟子でもあるし、一生の恩を背負っている人物でもある。現在は大阪で弁護士事務所を構え、かつ、なぜか祇園で芸子もしている。肩書だけでも通常の人にはなかなか理解しがたいが、中身はさらに複雑怪奇で、理解不能な人物だ。
「ええ、まだちょっと、道場で」
『なるほど』目から鼻に抜ける聡明さで、結香は事情を察したらしい。『管内で早々に事件あったでしょ、ネットに出ていた。自殺だって? 好きだったのにな、最近の氷賀一彦』
「まだ断定はされていませんよ」結香がカマをかけているのか、本当にネットでそう書かれているのか、判じられないまま吉鷹は慎重に応じた。結香のことは大好きだが、信用したことは一度もない。
『あ、っそ』耳をくすぐる柔らかな声で結香は笑った。『それにしてもあのチビ牛若くんが、大きくなっちゃって。もう社会人だなんて』
「その呼び方、もうやめて下さいよ。昔の話でしょう」
『でも、自分で名乗ったんだよ。「鞍馬山のしーちゃんだよ」って。そりゃあもうふんぞり返って、可愛かったんだから。志摩津の家じゃ、しーちゃんだらけだからね、それで李香が鞍馬山なら牛若丸、ちっちゃいから、チビ牛若でちょうどいいってと名づけたじゃない』
あ、っと吉鷹は声を立てて、息を呑んだ。
そうだ。
吉鷹が志摩津の家に引き取られる前だ。その頃の記憶は吉鷹にはない。
今回、養父の人事への横槍もずい分と不自然だった。いつもは無理をする人物ではないのだが、配属先が京都府の所轄と知ったあと、かなり強引に吉鷹の配属先を変えさせた。
京都?
京都に吉鷹の過去のなにがあるのか。
それがあの氷賀香葉と結びつくのか。
「結香さん、今から会える? そっちに行く」
『ええっ、だってそんな、急に。志摩津家だって、ご当主さまだって、今日はみんなお祝いしようと待っているんじゃないの?』
「会いたい」
暫くの沈黙があった。
『じゃあ、交換条件。
明日いちにち、つきあってくれるのなら』