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30.

 氷賀香葉はやれやれと肩をまわすとぺたりと座り込んだ。サマーコートをだらしなく肩からずりおろした姿勢で、ほそい首をかしげた。色素のうすい瞳をまたたいて、吉鷹をみつめる。


「帰しちゃったけど良かった? 手続きとかある?」

「事情聴取はとっくに終わっている。預かっていただけだから、保護者がむかえにきて帰ってくれるならありがたい。

原稿が見つかったって言ったな?」

「うん。

 それがびっくり。結香さんの家にあったんだ。すごい偶然だよね。結香さんのお兄さんがたまたま一彦の友人で、一彦が原稿をおくってたんだ」


 吉鷹は道場の床につっぷした。

 あの家がからんで「偶然」や「たまたま」なんてありえない。すべて何らかの意図と意識でつながっている。だが、あそこから出てきたものならば、世界中の知恵者や国家権力があつまったところで、内容を否定したり、ひっくり返したりはできないだろう。


 もしからはじめからすべてが、長谷部家のてのひらのうえにあったのか、と勘ぐりたくもなる。

 いま、このことを養父や従兄たちが知ったら、すぐに全面的に手を引けと吉鷹に言ってくるはずだ。


「それでね、一彦の原稿を出版させてくれるって。二十年ぶりだ。二十年ぶりにやっと本が出せるんだ。

 時宗さんが協力してくれるって、結香さんがいまあちこちに話をしに行ってる。あの人やさしいね、すごくやさしい」


 吉鷹は床によこたわったまま、腕を伸ばして香葉の前髪を指にからめた。子ねこの柔毛をおもわせる、しっとりとした髪だ。香葉は目を細めてあどけな笑顔をみせた。

 もう潮時なのかもしれない。


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