2.
悪寒がぞわりと足裏から喉元までせりあがってきた。吉鷹はすべてを後悔した。現場をみたいと言ったことも、捜査をするよう口出ししたことも。
吉鷹がいちばん苦手とするのは、白黒のはっきりしない面倒臭いこと、常識や教養のない、暇で、粘着質の鬱陶しい人物に絡まれることだ。
やっかいなことに巻き込まれそうな、ざわついた予感が心臓を圧迫しはじめた。
「お知り合いですか」村上が面白そうに、露骨に嫌な顔をした吉鷹をのぞきこんで尋ねた。
「いや、だが心当たりがある」
「心当たり?」
「昔から、奇妙なモノに懐かれる。人らしからぬモノとか人類外のモノとか」
ぷっと何人かが吹き出したが、村上は顔を険しくし、青年に向きあって座ると型どおりの悔やみを述べた。それで、と身を乗りだして発見当時の話を聞こうとするが、青年は大きく目を見開いたまま、首をめぐらし吉鷹を見つめつづけている。
からんでくる視線から逃れるため、吉鷹が現場となった書斎を見に行こうとすると、青年は立ち上がって吉鷹にかけより、青白い手でジャケットの裾をぎゅっとつかんだ。
「原稿がないんだ」
「皺になる」
体温のない手を生地からはずさせ、ジャケットの裾を丁寧に伸ばすと、青年は顔をくしゃりとくずして笑った。
「しーちゃん、変わらない」
しーちゃん? そのように、呼ばれた記憶はない。家族は「よっしい」とか「吉鷹」と下の名で呼ぶし、友人たちは志摩津家を背負う者として「志摩津」と名字で呼び捨てにする。
所轄の警察官も、本庁の刑事も、村上や刑事課長も、ぴたりと身動きを止め、息を殺して、ふたりのやりとりに神経を研ぎ澄ましている。
あらためて青年――氷賀香葉を観察した。
年のころは吉鷹とおなじくらいだ。鼻梁のすっとのびた、綺麗な顔立ちだ。病的に細く、青白い皮膚で、薄茶色のやわらかそうな巻き毛をながく伸ばしている。
そして心当たりも、記憶もない。
「人違いだ」
吉鷹が断言しても、香葉は確信した笑みで吉鷹をみつめている。
赤い唇がうごいた。聞きとれない。また動く。
バラノメイキュウ
吉鷹が眉根をひそめると、香葉は切れ長の瞳をほそめて視線を庭に流した。古い木造の家屋、埃だらけで掃除もされていない居間の、村上が座っている木製の長椅子の後ろは大きな汚れたガラス戸で、長いこと手入れのされていないらしい荒れた庭が見えた。
大都会の真ん中の、忘れられたような場所にぽっかりと日光が降り注ぎ、絡まり縺れた野茨の塊が、のたうつ大蛇のようにうねって庭を支配していた。
まるで獣か妖邪のよう。
ひどく禍々しく、心臓を鷲掴みにする。
氷賀香葉は髪を揺らすと、吉鷹の胸に飛び込んだ。むせ返るような薔薇の香が、華奢なうなじから立ち昇る。
「助けてよ、助けに来てくれたんでしょ」
あの時のように。
他の者には聞こえない声で甘く囁くと、氷賀香葉はひたいを吉鷹の肩におしあてた。密やかに吉鷹の身体を撫で、くつくつと嗤った。