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15.

「あれは、そのう、事故なんだ」


 香葉のあごをに結香は指をかけ、視線が合うまでもちあげた。


「すでに言った。弁護士には隠しごとをするなと。これ以上、同じことを言わせるな」

「どうしようもなかったんだ。母さんはオレの前ではいつも可愛くて優しい母親だった。

 でも、檀の傷はどんどん増えていた。ある日、母さんが笑いながら檀の足を折るのをみて、母さんが完全に壊れていることに気づいた。

 だから、だからオレは――、母さんが洗濯の時に使っていた踏み台に細工をして――」


 氷賀香葉はほそい腕で頭をかかえていた。

 手も首も骨格も、あまりに細くて、色が白い。

 はじめに見た瞬間は、氷賀一彦の情人であると確信した。警察の方でも、同性愛の愛人関係で、戸籍を入れるために養子縁組をしたとみなしている。

 だが、香葉と話していくと、その確信もゆらいでくる。言葉の端々にも、矛盾がない。あくまでも気の合う同居人、父子としての一線を超えていない、と香葉はいい、嘘をついているとも思えない。


「ねえ、弁護士さん。

 檀を――檀の人生を、守りたい。

 一彦も守りたい。一彦の原稿も、一彦が存在していたことも、世の中に知らせたい。

 でも、いまは、檀の人生が、檀の将来が、オレにはいちばん大事に思えるんだ」


 香葉は震える手を、朱に染まるほどにかたく組み合わせていた。


「あ、あのう、報酬とか、原稿が見つからなければナシになっちゃうんだろ。オレ、どうにかして稼ぐから。なにをやっても、どうやっても。だから、お願いします」


 氷賀香葉は髪が長椅子につくほどに深く頭を下げた。結香があっけにとられていると、ずっとそのまま、顔を上げようともしない。

 やわらかな髪をくしゃりと撫でて、顔を上げさせた。


「報酬の件はべつにいいよ。もともと君が値切るだろうと思っていたから、75%なんてふっかけたんだ。相場からすりゃ3割程度だろうけど、内容が内容だから、5割と思ったんだ。

 それに原稿が売れなければ、無報酬というのはそもそもの予定通りだ」

「いいんですか」

「そうだねえ、折角の申し出だから、いざとなったら君に体を売ってもらうくらいは勘定に入れておくよ」


 そういいながら、上から下まで香葉をさっと値踏みしたが、あまり売れないだろうな、という気がしてくる。外見は良いのだが、どうにもこうにも色気がない。社会から隔離されて育ったせいか、会話がずれるし、感覚もどこか違う。サービス業、とくに接客業にはぜったい的にむいてなさそうだ。


 やはり氷賀一彦の幻の原稿を入手して、それをなんとか細工して高値で売るのが、依頼も果たせるし、いちばん利益が出そうだ。

 いざとなれば作品をでっちあげるか、と考えながら帰り支度をはじめて、ふと気づいた。


 色白のほそい身体で、ちまっと氷賀香葉が座っている。

 結香がかえればひとりきりになる。

 養父の亡くなった――自殺した家で、荒廃してはいるが広い家で、ひとりきりだ。

 その昏さに、ぞっとする。


「君、どこで寝泊まりしているの」

「どこって、ここがオレの家だから。もうすぐ無くなるけど」

「嫌じゃない? 養父が亡くなった家でひとりきりって。

 ボク、今日は実家に帰るから泊っていく? まあ、古さは歴史的、居心地は悪いだろうけど、ひとりじゃないだけマシだと思うよ。兄さんの本とかもあるし、家捜しするのに人手が欲しかったし」

「えっ、いいの、オレなんか行って」


 あれほど念を押したのに、また「オレなんか」という。よほど人生にたいして屈折しているのか。結香はいささかむくれたが、香葉は興奮しきって続けていた。


「オレ、誰かの家に行ったことなんてない――しーちゃんの隠れ家以外には。

 いつも街を歩いていて不思議だった。たくさんの家があって、みんなどんな生活しているのか、どんな間取りになっているのか、ずっとずっと想像だけしてたんだ」

「あれに比べられるのはちょっと――あれは、家じゃないでしょう。

 ってなにやっているの」


 氷賀香葉は大きいつばの帽子に、手袋、サマーコートという重装備をひろげた。


「あ、オレ、日光アレルギーだから」

「昔から?」

「東京に来てから。

 なんかいろいろ環境も変わって、学校もなじめなかったから。

 一彦は治るまで無理しなくていいよ、って言ってて、けっきょく学校はそれきりになっちゃった」


 あの男らしいな、とため息が出る。病院に連れていくなり、食事を変えるなり、積極的に治療するのが普通だろうに、「日光に当たらないために、通学を止める」というもっとも消極的な選択をする。

 もっとも当の義子がそれで満足しているのだから、そういう意味では、相性の良い父子だったのかもしれない。


 香葉は皮膚がでないように身支度をしながら、よほど嬉しいのか長谷部時宗の家だ、とくりかえし騒ぐ。結香は香葉の鼻先にゆびを突きつけた。


「言っとくけど、兄さんはいま、いないから。

 それに君を招待したのはボクなんだからね」

「うん、うん、一彦からいつも話をきいていた。狭くて古くて、雑然としているのに、調和のとれた居心地の良い部屋で、しぜんとあんな部屋にできるのは、当人がいくら否定したって、生まれ育ちがずばぬけて良いからなのに、当人がぜったいに認めないんだって」

「そりゃあ、まあ、兄さんは良くも悪くも無頓着だから」

「それでね、すごい可愛い双子の童子がいて、見た目は人形のようなのに、性格がものすごく悪くて苛められたとかって、だからオレ、仕返ししてやるんだ、一彦の敵打ちだ……ん? 一彦が大学生の時の童子って、いまだったらいくつくらいだろ?」


 氷賀香葉はゆびをおって数えると、なにか言いたそうな眼で結香を見た。


「なにか?」


 結香はにこりとして微笑みかけたのだが、失礼にも香葉はさっと視線をふせた。


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