14.
高遠檀が刑事たちに連れられて出ていくと、氷賀香葉は胃をおさえ、床にひざをついた。緊張がつづいたためか、肩で息をしている。
長谷部結香の眼のしたに、細くしろいうなじがさらされる。やわらかな薄茶色の髪が、汗ばんだ皮膚にはりついており、いかにもその筋の男たちを挑発しそうだ。
だが氷賀香葉にはそうした欲望に曝されてきた者特有の、澱んだ匂いがない。
その一方で、すべてを正直に話しているとも思えない。なにか隠しごとをしているような感覚がある。それが弱者特有の身を守るためのごまかしか、ただ言葉足らずなだけか、結香を信用していないからか、まだ判断がつかない。
結香がおおまかに描いていたストーリーから、少しずつあちこちがずれてきている。このまま進むと、大きく道を誤りそうな嫌な予兆がある。
「やわだね、世間相手に大ばくちを打とうとしているくせに」
いらだち紛れに吐き捨てて、ガラス戸の前にすらりと立った。
全面からさしこむ陽光に眼を細めながら、庭の野茨の塊をみる。
吉鷹がひどく嫌な感じをうけたと言っていた野茨の塊だ。鞍馬山の野茨を見たあとだからか、結香からすれば、せいぜい手入れされていない庭、これを剪定しろと言われたら嫌だろうな、くらいの印象だ。
無意識下、吉鷹には隠されて育てられてきた記憶が、圧迫感として残っているのかもしれない。
「時宗兄さんが連絡をくれた。思い出したって。
昔、氷賀一彦と一緒に、イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの詩集『ソルデロ』を翻訳したとき、一節に、『薔薇の迷宮』という言葉があったらしい。『ソルデロ』は難解で悪評高いが、イギリス文学に影響を与え続けている。若気の至りで粋がって挑戦し、頓挫したと笑っていた。
懐かしがっていたよ」
結香は呟きながら、存外、あの兄が深くかかわっているかもしれない、もういちど確認をとろうと算段していた。
長谷部時宗は生まれついての王者。
波紋を呼び起こす中心者。
当人が意識しようとしまいとに関わらず、時宗のもとに人、情報、物、力があつまり、時宗の判断をへて散っていく。国を離れようとも、時がすぎても、それは変わらない。
「君からあの野茨のしたの隠れ家の話を聞いて、氷賀一彦は自分の庭で再現してみたのかしら。そして『薔薇の迷宮』と名づけたのかな。彼らしい感性だよね。
だがあの隠れ家はもうない。
そして氷賀一彦はもとより、君も余計な事はもう二度としゃべらない」
長谷部結香がちらりと香葉をみると、胃を腕でかかえたままうなずいた。
色素の薄いひとみで結香を真正面からみあげて、訴える。
「住んでいる世界が違いすぎる。
いままでだって何度も見かけていた。すぐ近くに住んでいるって分かったけど、声なんてかけれなかった。いつでも大人数で、楽しそうにしてたから。
この前はくちが滑ったんだ。だってオレ、どうしていいのか分からなくて。一彦が死んでいるのに、警察は自殺だっていって真面目に調べていないし、書いていたはずの原稿も書斎から消えているし。でもオレなんかが叫んでたって、だれも相手にしてくれない。聞いてもくれない。
そしたらしーちゃんが現れたから、前みたいに助けに来てくれたんだと嬉しくなったんだ」
声には乱れも歪みもない。
おそらく氷賀香葉が志摩津吉鷹に害をなすことはないだろう。
こういう素直なところは可愛いのだけど、と思いながら、傍らにひざをつき、やわらかな髪をなでながら囁いた。
「ボクが君の弁護人となる条件はふたつ。
今後、志摩津吉鷹警部補にかかわる話を、いっさい他言しないこと。
氷賀一彦の遺稿の印税、稿料、映像・放送権利料、あらゆる収入の75%がボクの取り分。
内容も不明、存在しているかすらわからない原稿に対する成功報酬制なのだから、妥当だと思うけど」
「わかっている。
オレは氷賀一彦が存在していたこと、世間で言われているような人物じゃないことが、残ればあとは構わない」
「それともうひとつ、追加だ」
「まだあるのか? 本当に強欲な悪徳弁護士……」
結香は香葉のくちびるを押さえた。
「もう二度と『オレなんか』と言わないこと。
クライアントが自信がなく、自己卑下しているなら、いくら弁護したって水の泡だもの」
「でもオレなんか」
結香が冷ややかに睨むと、香葉はおとなしくうなだれ、くちびるを閉じた。
からだを強張らせて、怯えているようでもある。
その方が素直で扱いやすいだろうと、結香が意図的に脅しているところもあるのだけれど。
「わかった」
「いい子だね」
結香は香葉の頭を撫でると、木製の透かし彫りの長椅子に腰をおろした。足を組んで、背もたれに肘をのせる。
「それにしてもまいったな、計算外」
香葉は大きな眼を見開き、結香にするりとすりよってならんで座った。
「なにが」と子どものような顔で尋ねる。
「色々と。
君の弟が絡んできたのも、原稿がないってのも。
警察に押収されたんだろう、と思っていたら本当にないんだね。氷賀一彦は家から出ていないはずなのに、書斎どころか家中さがしてもない。書いていなかったとしか思えないけど、それだとしても白紙の原稿用紙が残ってるはず。捨てたとしても、燃やしたとしても、残骸が残る。
誰かが殺して原稿を奪ったというならまだ分かるけど、どうみても自殺だ。
君の性格も想像とちがうし、君と氷賀一彦の関係も。なんで氷賀一彦が自殺したのかもいまひとつ分からない。
そうそう君にアリバイがあったというのも。そんな簡単に崩れるアリバイなら言っておいてくれないと。弁護士には隠しごとするだけ、損だよ」
香葉が色白のかおを朱に染めた。あからさまに動揺して、髪をいくども耳にかけ、もじもじと上半身をよじる。
「あ、あのう、警察、調べるのかな。調べられるとちょっと困るんだけど」
「そりゃあ調べるでしょう、仕事だもの。
なにが困るの、正直に言ってよ。隠されると後々、やっかいなんだ。なにより君のためにならない」
「じ、実は、女性と会っていて、そのう、彼女には、オレ、駆けだしのイラストレーターで、専門学校に通っているって言ってるんだ――だって、言えないじゃない、本当のことなんて。一彦からも正直に言え、嘘はダメだと言われてたんだけど」
結香はぽかんとちいさな口を開いた。
「ええと、君ってそういう系? じゃなく? 氷賀一彦とただの同居人というのは、氷賀一彦に関わらず、男性とそういう趣味がないと言う事? しかも氷賀一彦は知っていたんだ」
香葉はもじもじと、首をかき、うなじをかき、腕をかいた。
「いちおう、一彦にも紹介したし。
でもオレが専門学校に通っているイラストレーターと言っているのを知って、ずい分と怒ってた。
そう、昔、昔は檀を食べさせなきゃと思って、近所の男のいいなりになったりしてたよ。
だって怖かったんだ。妹が死んだ時、オレの腕の中で、どんどん弱くなっていった。なにもできなかった。からだをさすって、だきしめて、必死になってゆさぶって、呼んだ。
あいつ、ちっちゃかったんだ。人形よりもちっちゃくて、うすく眼をひらいてオレをみて、そのまま息が止まって鼓動も止まった。
消えたんだ。
本当にぽっかりと中身が、消えてしまったんだ。
真っ暗だった。
オレも引きずられそうだった。
でももういちど『まゆみ』が目の前に生きて、あらわれた。だからオレは今度はぜったいに檀をうしないたくなかった。
なにをしても、どんなことをしても檀を守りたかった」
「だから母親を殺した?」
結香が口を挟むと、香葉は視線をふせた。




