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11.

 朝一に出署した志摩津吉鷹が、男子便所でタイルの床に膝をついて掃除していると、用を足そうと小便器に向かいあった村上が気づいて、うわっと前を両手でおさえて飛び上がった。


「し、し、し、志摩津警部補っ? こんな朝っぱらから、なにされてんですかっ?」

「掃除をするように言われましたので」


 村上は両手で前をおさえたまま、眼をむいた。


「志摩津警部補にそんなことを命じる人がいるんですか」

義父(ちち)がこれから九ヶ月間の見習い期間中、一日も休まず、朝一に出署して便所掃除をするようにと。村上警部補もずいぶんと早いんですね。

 どうぞ、気にせず使ってください」

「そう言われたって、ここで使えるわけないでしょう」

「あ、上の階ならば掃除が終わってますよ」

「志摩津警部補が清掃したトイレを汚すなんてできますかっ」

「じゃあ、下の階ならばこれから掃除しますから」

「これから志摩津警部補が掃除すると思ったら、出るものも出ませんっっっ」


 吉鷹は掃除の手を止めた。ズボンの前を閉めながら、どうやら怒っているらしい村上を見上げた。


「なにか怒っていらっしゃいますか。

ああ、人事の件では一方的にご迷惑をかけ、申し訳なかったと思っています」

「それはどうでもいいんです。

ただもう、世の中にはこんな化け物みたいな人もいるんだと知って、腹が立ったんです」

「化け物?」

「顔がいい、家柄がいい、文武両道、そのくらいならばまだいるかもしれない。

 でもしょっぱなから休みを取ったと思えば、実のところ、ひとりで自費で捜査して、戻ってきたら便所掃除をしている。そんなヤツはいませんよ。

そもそも、今回の事件の捜査だって、志摩津警部補がうまく口添えしたからでしょう。わたしは駄々っ子のように主張するだけ、現実にはなにもできなかった。人を動かす、世の中を変えようたって、口先で言うだけと、実現させるのはまったく別物だと思い知らされたんですよ」

「はあ」


 なんだか話が面倒臭くなった。吉鷹はたちあがると水を流した。水流が吸い込まれていくと、小便器がぴかぴかと白く輝く。満足してうなずき、清掃道具を抱えて移動する。

 村上はまだ言い足りなさそうに視線を吉鷹に向けていたが、追っては来なかった。


 氷賀一彦の死亡よりすでに3日目。72時間以内には自殺か他殺か結論を出す必要がある。司法解剖の結果も出ていていたが、不審な点は無い。

 自殺と断定して、ほぼ間違いがないだろう。

 最後の結論を出す前、ベテランの捜査一課の刑事が氷賀香葉を訪ねるのに、吉鷹と村上が同行することとなった。あからさまにお前らの研修のためにやってんだ、と言われているようなものであるが、署内で書類作成をしているより面白いのは事実だ。


 五十代半ば、脂の乗った叩きあげのノンキャリアが肩で風を切り、静かな夏の住宅街を歩くのを、ふたりならんで供をする。たがいにひとことも口をきかないのを、このノンキャリアの刑事は露骨に面白がっていた。


 住宅街の袋小路、廃屋のような氷賀家では、氷賀香葉とともに長谷部結香が三人を出迎え、弁護士だと自己紹介した。


「弁護士? なぜ?」


 戸惑う刑事に、氷賀香葉が固く強張った顔で頭を下げた。


「すみません、オレが一彦を殺しました」


 ぎょっとする刑事と村上の傍らで、結香は陶器のような顔で静かに香葉を見下ろしていた。


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