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10.

 東京に戻るとすでに夜であったが、警察署に顔を出した。

 勝手な欠勤を詫びて、氷賀香葉の母親と兄弟のこと、吉鷹が京都にいると情報が漏れていたことを報告し、帰宅した。

 大学に入った時、多少の自由も必要だろうと実家の近くにマンションを買ってもらい、ひとり暮らしをしている。

 マンションの廊下で、ふたつ年上の従兄、志摩津松芳が壁にもたれ、文庫本を読んでいた。


「来てたの、中で待っててくれればよかったのに」


 ひとり暮らしを始める時、合鍵を養父、志摩津本家の母、松芳の三人に渡した。頻繁にやってくるのは松芳だが、生真面目な性格はつねに変わらず、吉鷹の許可なく中に入ってきたことがない。

 水戸地検の検事で、抜き身の刀のような印象の、すらりとした長身の男である。嘘か本当か、「女性有罪率100%」の異名を持つ。

 松芳は音を立てて本を閉じた。

 銀縁眼鏡の奥の、鋭い瞳が吉鷹を見据える。


「叔父貴からの伝言だ。九ヶ月間の見習い勤務中、もう二度と休むな、道場の掃除には来なくていいから、朝一に出署して、毎日、全男子便所の掃除をするように、と」

「うん……」


 吉鷹は曖昧に返事をして室内にはいった。

 広めのワンルームである。モノを置くのが嫌いな吉鷹は、ほとんど家具を設置しておらず、知らない人が来たら、引っ越ししてくる前か、荷を運び出した後と思うような部屋だ。

 室内の色彩は全てモノトーン。

 キングスサイズのベッドに黒いカバーをかけたまま、あおむけに倒れ込む。

 全身が重く、ベッドに沈み込んでいくようだ。


「疲れているな。どうした」


 松芳はベッドをたわませて腰をおろし、吉鷹のひたいに手をあてた。指の長い、骨ばった綺麗な手だ。

 吉鷹は目を閉じた。髪を撫で、もてあそぶ松芳の指の感触が心地よい。


「しょっぱなから仕事さぼって、なにやってたんだ」

「結香さんにプロポーズをした。ふた周り年上になったら検討するって言われた」

「そんなことのために京都に行っていたのか」

「頑張ってタイムマシンつくらなきゃ」

「えらく前向きな解釈だな。

 ふつう、ふられたって理解するぞ。それ以前にも色々と問題はあるが。

 つか、結香さんなんかに関わるな」

「うん……」


 松芳は吉鷹のほおを親しげにひと撫ですると、立ち上がった。

 吉鷹があわてて起きあがろうとすると、身体をおさえてベッドに横たわらせる。


「寝とけ。鍵は閉めておく。ひと晩熟睡すれば、回復するはずだ」


 吉鷹はうなずきながら、松芳の手を捕えた。すがりつくように握りしめてしまう。

 松芳のこめかみに青筋が浮かぶ。色白の細面の顔に、銀縁の眼鏡。理知的で綺麗な顔だ。

 鋭い瞳でまっすぐに見つめられ、歪みのない人格で理路整然と問いつめられ、嘘をつけなくなる女性被告人の気持ちがよく分かる。法律がどうとか、罰則がというより、ただ単純に、人として、生物として、本能的に嘘をつけなくなるのだ。


「あのな、私は公判を抱えている身だし、お前は明日から休みなしで働けと言われている。分かるな」

「うん」


 吉鷹は聞きわけよく、こっくりとうなずいてみせた。

 だが、松芳の指に指を絡ませ、指のいっぽんいっぽんの存在をたしかめるように撫でてしまう。肌になじんだ松芳の手を、離すことができない。


「よっしぃ、だから」


 松芳は重く長い息を吐いた。松芳はクールでぴしゃりとした物言いをするが、兄貴肌で、根が優しく面倒見がいい。あきらめきった松芳の顔を見ながら、「兄貴業って大変だな」とひとごとのように思って、同情してしまう。吉鷹だったらこういうとき、さっさと見捨てて帰るのに、松芳にはできないのだ。


「すこしだけ。終わったらすぐに寝て、明日からはきっちり出署するんだぞ」

「うん」


 吉鷹が目をつぶり身体の力をぬくと、松芳の手が下着の中にもぐりこんできた。吉鷹の体のことを知りつくした指先で、愛撫をはじめる。

 気持ち良さに吉鷹が体を震わせて息づくと、意地悪く、焦らしはじめた。


「松っちゃん」

「なんだ」


 悪戯をふくんだ声が、夜にふさわしい響きでわらう。端正な顔を淫らに歪めて、吉鷹を弄んだ。


「ねえってば」


 身をよじってその先をねだる。腕をのばして松芳のくびに絡め、くちびるを重ねる。

 松芳の優しい舌使いを味わっているうちに、疲労が甘く溶けていく。極上の睡眠薬。最高の精神安定剤だ。いつも一方的にあまえてしまう。自分は恵まれている。


 事が済んだ時には全身が心地よく疲れており、指一本動かすのもおっくうで、泥に沈み込むように全身がゆっくりと眠りに引きこまれていく。


「次はお互いひとだんらくしたら。ゆっくり楽しもう」


 松芳の声も遠く弱く、聞こえなくなった。


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