表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/36

1.

「桜散る」のすこし前の話となります。


 And still more labyrinthine buds the rose.

 そして薔薇は迷宮のごとく成長する

 (SORDELLO,Robert Broening,1989,London)


 管内で死亡事件が発生したと一報が入った時、志摩津吉鷹(しまず よしたか)は署長室で訓示をうけていた。


 東京のほぼ中心に在って、管内には名所旧跡も多いこの警視庁牛込警察署は、志摩津道場のおひざもと。

 署長も志摩津道場の出身である。

 警察や自衛隊に指南をする武道の名門志摩津家の次期当主であり、I種合格者(キャリア)の吉鷹を、九ヶ月間という限定の見習いとはいえ、自分の暑に迎え入れることができた幸運に初老の署長は()けてしまったか、吉鷹をもて(はや)したと思えば、はっとなって署長として虚勢をはり、かと思えば、ほおを少年のように赤くして吉鷹に見惚れる。そのくりかえしの、支離滅裂な訓示が続いていた。


 この人事に於いて、一方的に迷惑を被った同期の村上は、無表情で直立不動のまま拝聴している。

 その頑な顔が、吉鷹に対する怒りの深さを示唆していたが、吉鷹にはすべてがどうでもいいことで、署長室の開いた窓から見える薄靑の空や、古い家屋が並ぶ街並みとその向こうの外堀公園の桜並木、初夏の爽やかな風に頼りなげにゆれる一輪ざしのなかの鉄仙を、見るともなく見ていた。


「死亡したのは作家の氷賀一彦、第一発見者は養子の氷賀香葉、自室の机で、拳銃でこめかみを打ち抜いて死亡しているのを発見し、通報したそうです、現在、鑑識、強行犯係がむかっています」


 刑事課長がひと息に報告をした。顔は署長にむきながら、視線は吉鷹へ流れる。署長室に直参して報告にきたのも、吉鷹を見たかったからのようだ。

 今朝、この牛込警察署に吉鷹が足を踏みいれてから、署長以下のすべての警察官、職員、一般市民や護送中の被疑者までが、警察官らしくない吉鷹の容姿に目を止め、息を呑み、その華やかな外見をさらに上回る出自と経歴、身分を聞いて、世の中にはこんなにも恵まれた男がいるのかと絶句した。


「現場に行っても宜しいでしょうか」


 吉鷹が願い出ると、一瞬の沈黙ののち、署長室は湧きあがった。

 さすがは次期さま熱意が違う、そもそもキャリアの見習い初日に事件があるのは珍しい、見習い期間中に事件ひとつないこともある、持って生まれた資質の差と署長、副署長、刑事課長、刑事課員、女職員の世辞が、自分も、とせき込んで追随した村上の声をかき消した。

 

 もっとも。

 吉鷹自身には思慮も熱意もない。

 条件反射で、目の前の動くものに手を伸ばしてしまうだけ。

 口の悪い友人、吉鷹をよく知る者ならば、動くものすべてをぱくりと食べる蛙のよう、幼稚な習性と呆れ嘲笑し、揶揄(からか)うのだが、彼らはもういない。

 いまの吉鷹にあるのは、実体のない賛美称賛と、浮ついた追従だけだった。


 牛込警察署より車で数分、徒歩でも十分はかからないであろう、住宅地の袋小路の行き止まり、木製の門戸が色褪せ朽ちた廃屋のような一軒家が、現場であった。

 まだ鑑識の作業中で、警察官は路上で待機している。

 江戸時代の区画のままの古い住宅地、文豪の街でもある。平日の午前中に通行人はほとんどなく、近所の主婦らしい女性が出てきても、ちらりと男だらけの集団をみて黙礼して屋内に戻る。遠くに油蝉の声がする。まだ風は冷たいが、アスファルトに反射する日差しは刻々と強くなりつつある。今日は暑くなりそうだ。


 自殺、との声が聞こえてくる。争った痕跡も、動機等もなにもないと課長に報告がはいる。世間からとうに忘れられた、昔の流行作家。家屋敷も抵当入りし、ほそぼそと年金で生活していたらしい。作業にあたる警察官たちの緊張も緩んできている。吉鷹は日差しを避けて、塀の陰にうごいた。車内で待機しますか、暑に戻りましょうかとたずねた刑事課長のひたいにも汗が滲んでいた。異例のことではあるが、刑事課長みずから車を運転し、吉鷹と村上を現場に案内してきたのだ。

 吉鷹は苦笑して、丁重に断った。


「ですが、まだまだ時間がかかりますよ。現実にはテレビドラマのようには行きません」

「これから本庁へ報告して、自他殺を判定ですよね。貴重な機会ですから最後まで見届けます。課長はお忙しいでしょうから署にお戻りください。道は覚えました。

 お気遣いありがとうございます」

「そうですか、署長が待っておられると思うのですが、言っておきましょう」課長はひたいの汗を、ハンカチで押さえながらつづけた。「後ほど道場では稽古いただけるのですよね、それはもう、署長以下みな楽しみにしていまして」

「自殺に偽装した殺人事件の可能性もあるわけでしょう、気を抜きすぎていませんか」村上が身を乗り出して、課長を遮った。「だからネットで、人手が足りなくて検死もロクにしない隠蔽体質と書かれるんじゃないですか。初動捜査の失敗は、後々挽回できませんよ」


 村上の語気は荒く、何人かが作業の手を止めて顔をこちらに向けた。こめかみに血管を浮き上がらせた課長と、一方的に憤っている村上、ふたりとは異質な外見ですらりと立つ吉鷹の組み合わせを、興味深げに眺めている。


 実体を知らない頭でっかちの青二才め、現実は小説やテレビとは違うんだ、課長の怒りの心のうちが伝わってくる。

 自殺、他殺を決めるのは検察官か検視官。だが今の日本では人手は圧倒的に足りておらず、グレーゾーンの他殺が自殺と判定されたまま、捜査されないケースも村上が指摘するように多い。いちど自殺と判定されれば、遺族がどれほど希望しようとも、その判定が覆される確率は非常に低い。だがその判定に対して、所轄署が口出しできる立場ではない。


「捜査一課ではいま帳場は立っているのでしょうか」吉鷹はつぶやいた。「余裕があれば、見習いふたりも押しつけられた牛込警察署が、研修も兼ねて教科書通りの捜査を要望しても、つきあってくれるのではないでしょうか」


 すこしばかりのかけひきの後、自殺、他殺未定のまま捜査を行うことになった。本庁捜査一課からも刑事が入り、急に現場が引き締まる。

 遺体も運び出されて、鑑識の作業が終わり、吉鷹たちもようやく屋内へ入った。


「そうだよ、だから自殺じゃないって、一彦が自殺なんてするわけないって、言ってるじゃない。

 だから探してよ、原稿、原稿がないんだ」


 辟易とした顔の警察官たちに、一方的に喚いていた青年が、はいってきた吉鷹を見て色素の薄い瞳を大きくみひらいた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ