第2話 旅立つ君へ
教会を後にする。通り抜ける市場からは、徐々に商人たちが引き上げ始めている。
市場の喧騒は、昼過ぎになると一気に静まる。それから夕刻までが、この通りの一番静かな時間帯だろう。夕刻を過ぎて陽が沈むと、如何わしい客引きが増えて、別の盛り上がりを見せる。以前、数回同僚や上官に誘われてきたことがある。好ましくは無いが、気分転換は出来た。
騎士団の本部に入り、馬小屋へ向かう。騎士団が所有するそれは、小屋と呼ぶには躊躇いを感じるほどの大きさで、ともすれば僕たちの宿舎よりも大きいのではないかと思われるほどだった。
その理由は、この小屋に収められている馬の所有者にある。この小屋には僕たち下級騎士の馬だけでなく、上級騎士や幹部の馬も飼育されている。当然ながら、そういう身分の高い馬には広い空間が与えられる。見かけの広さに反して、僕たちの馬に与えられるスペースは大変狭い。それは、馬の素質に関わらず決められることだ。
小屋の周りのトラックで騎馬術の訓練をしている新人や、それを教練する隊長クラスの騎士を横目に小屋へ入っていく。
馬一頭がぴったりおさまるくらいの空間に入れられている彼ら彼女らを見ると、同情を禁じ得ない。僕の馬もここにいると思うと、ひどく腹立たしい。
東から五列目の通路、十五番のケージ。
「やあ、ソフィア」
僕の愛馬は、嬉しそうに嘶いた。
黒い毛色に、しなやかに伸びた四肢。鬣は風に靡かなくとも勇壮さを纏い、その風格は間違いなく名馬のそれだと、乗り手である僕は自負している。まあ、親バカとリオには言われたが。
「昨日は来れなくてごめんな」
顔から首にかけてを撫でると、ソフィアの方からも擦り付けてくるような動きをする。
「やあ、アルト殿じゃないか」
声の方に振り返る。五十を過ぎたほどの老人が水桶やブラシやら仕事道具を手にして微笑んでいた。
「こんにちは、ジスさん。いつもありがとう」
ジスは馬小屋の主だ。下級騎士の馬の世話を担当しているが、年中入れ替わる上の馬の世話役と違って、俺が生まれるずっと前からここにいるという。
「ワシなんかに“さん”づけをしてたら、また他の連中に笑われちまいますよ」
「いいんだ。俺の馬の世話をしてくれているんだから、ジスさんは俺の恩人だよ」
腰の少し曲がった老人は、こちらに歩み寄って同じようにソフィアを撫でる。
「この娘は世話のし甲斐があって楽しいんですよ。アルト殿は馬を大事にしますからな」
「そんなこと言って、他の馬だって同じように可愛がってるじゃないか」
「可愛がられていない馬を見ると、かわいそうに思えちまうんです」
ジスさんの言葉に、二人そろって笑う。
馬に対する考えは、騎士毎に大きく異なる。
相棒、足、道具、伴侶。身分の高い騎士の大半は、馬をそれこそ妻のごとく大事にする。彼らは馬が騎士にとってどれほど重要であるかを理屈ではなく経験で知っている。
「アルト殿はこの娘を恋人として見ておりますな。よい心がけですよ」
「何を冗談を。――――――ああ、だけどソフィアの毛色の髪を持つ女がいたら、それはとんでもなく綺麗だろうよ」
「東洋では、こういう色を“濡烏”と呼ぶそうですよ」
「なんだそりゃ、不吉だね」
僕はその名前の由来になった烏の様子を思い描いて、とても不吉な感じがした。だが、実際に見ればもしかしたら、その姿は凄絶な美しさを秘めているのだろうか。
ジスさんがソフィアを見つめる。そして僕はその横顔に向けて、絞り出すようにぽつりぽつりと話し始めた。
「秋の日だったか。メルトア隊長に連れられて、ここに来た」
「ちんまい小僧が来たもんだと思いましたよ、失礼ながらね。眼に芯の強い光はあったけれど、それでも馬を与えるのは早いんじゃないかって、メルトア殿にも申し上げたんですよ」
「知らなかった。僕は、馬を貰えるっていうだけでワクワクしていたから。あんな胸の高鳴りは、あれ以来感じたことも無い。で、ジスさんが仔馬を連れてきてくれた」
「貴方は、一番気性が荒そうな馬を選びました。お偉方も選ばなかったような奴をです。止めたけど、聞かなかった。それどころか、馬の気性が荒いって言ったら、貴方は、目を輝かせて喜びましたな」
「命知らずだったのさ。騎士団最強の神光騎士団に入るなら、頂点になったやろうと思ってたから」
「あの時の貴方の眼は、賭けに向かう目でした。分が悪くても、挫けずに立ち向かっていく眼。綺麗な輝きだった……。しかし、あの美しさは失くしていく煌びやかさです。そして、今も同じ眼をしていらっしゃる」
ジスさんは、ソフィアから俺に視線を移した。背がくすぐったい。思わず僕は視線を逸らす。親のような眼差しとは、こういう眼差しを言うのだろうか。
「―――メルトア殿たちの未帰還と、関係のあることとは思います。そして、貴方がそういう眼をなさるということは、犠牲を厭わない覚悟で何かをなさろうとしているということも。けれど、それらを承知の上で老婆心より忠告させていただきますと、人間生きているに勝ることはございませんよ」
皺くちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして、ジスさんは微笑んだ。
僕は、何も答えられずに苦笑するだけだった。
「よお、帰ってきたか」
リオが部屋で出迎えてくれた。平服のところを見ると、今日の外出は任務ではなかったようだ。
「ああ、ソフィアの様子を見てきた。ほら、土産」
リオに買ってきた肉と酒を見せる。
「お、こいつは重畳」
粗末な木製の椅子に座ったままリオは僕から酒の瓶を受け取ると、眺めながら唸る。
「こりゃ、いいもんだなぁ」
「なんだリオ、酒の目利きができるのか? 確かにいい品だとは思ったんだが」
「いやいや、さっぱり。でも、お前が選んで来た物なら、極上品に間違いない」
「ああ、そうか。自分から酒を買うのは、これが初めてだな」
リオが言うことは、傍から聞けば酔狂な話かもしれない。僕が著名な酒蔵家だったら話は別だが、当然そんなことはない。
しかし、これは僕が隊長たちからも認められた天賦の才だ。
初めて見る、もしくはそのモノの選抜に対する何の予備知識を持たない際には、僕はその中でも最高の物を選べるらしい。ソフィアもその例だ。自分から酒を買うのはこれが初めてなので、今回の酒はきっとあの市の中では一際良い物だろう。
「尤も、一回限りのチャンスを使い切ると凡庸かそれ以下になっちまうのが欠点だが」
リオがからりと笑った。
「まあ、否定はしないよ。だから、買い物は誰かと一緒の方がいいんだが」
今まで掴まされた不良品を思い出す。
服、書物、筆記具、パン、その他諸々。
「市場はどうだった? 久しぶりだっただろ、最近お前は忙しかったから」
「ん~、まあ前と変わらないな。強いて言えば、以前より物価の適正価格がわからないな。安すぎる物は粗悪品かもしれないし、かといって高ければ良い品かといえば、そうでもない。当たり前の話だがね」
肉と酒の他に買ってきた物を一つずつ確かめる。僕は最初に買ったものは大事にするので、長持ちする物はとことん長持ちするのだが、消耗品はやはり粗悪品が多い。
「お前はその駆け引きを楽しんでいる節があるぜ。……まあいい、呑もう。さっき食堂からグラスを二つくすねて来た。木や真鍮のコップじゃ味気無いからな」
「おいおい、それは隊長クラス用の―――」
「気にするな気にするな。ばれたら、お前がやったことにするから」
騒ぎ立てて抗議する僕を無視して、リオが瓶の栓を開けてグラスに酒を注ぐ。濃い赤色をした液体が半透明の器を満たしていく。
「ったく、左遷されるからって酷い扱いを……」
文句を垂れながら、小型のナイフで肉をスライスする。塊のまま齧り付くのもいいが、僕もリオも羽目は外さない人間なので暗黙の了解で品よく食すことにする。
「パンも盗ってくるべきだったな、リオ」
「はっ、そんなこともあろうかと」
リオはどこからかパンを二つ取り出した。まったくもって、抜かりがない。
「盗ったのか?」
「買った。いつのかは覚えていない」
リオはパンに鼻を近づけ臭いを確かめる。見たところ、カビもないようだし食べられそうだ。
「パンがダメになっていないとすると、そんな最近買ったものを思い出せないお前は重症だな」
「うるせぇ」
二人で苦笑しながらグラスを掲げ、乾杯する。
「何への乾杯だ?」
「アルト=アーツの新たな旅路に、かな」
皮肉にしか聞こえない送辞だった。
飲んでも呑まれることが無い僕らの酒宴は静かなものだった。
酒を飲み、パンを切っては肉を乗せて口に運ぶ。
話題に上がるのは、懐かしい内容ばかり。昔の失敗談や武勇伝に悪戯、恋愛。騎士団へ入団当初から知り合いの僕らは、自分で言うのもなんだが、兄弟同然だった。
声を殺して笑いながら、酒を流し込む。パンを食べては、また思い出した何かを途切れ途切れに話し出す。他人が聞けば支離滅裂な内容でも、互いに脳内で情報を補完し合って一つの物語が浮かび上がる。
そんなことを何度も何度も繰り返して、お互いが予想以上に酔った頃、リオが真剣な眼差しで僕を見た。
「なあ、アルト。お前はこれからどうするつもりだ?」
「そうだなあ、もう少ししたら寝ないと明日から苦しいからなぁ……」
わざとだ。わざと、こんなおかしなことを言った。けれど、リオは何も言わずに続ける。
「今回の件はどうにもキナ臭すぎる。調べても調べても、情報ばかり出てくる」
今度は何も言わず、ただ酒を飲み干す。
「捏造だよ。当たり障りのない情報が作られて、流されている。素人はそこで満足しちまうが、俺はそうはいかない」
リオが自分の机の引き出しから紙の束を取り出した。
「――――――機密文章の持ち出しは死罪だぞ」
「持ち出してなんかないさ」
渡された紙に目を通す。カテリナに関する情報が、紙を無駄にしないようにびっしり書き込まれている。真否の定まらない情報だが、途方も無い量。そして、その文字は全てリオの物だ。
「資料自体は、神光騎士団ならば閲覧可能だからな。あとは、暗記すればいい」
リオは最後の酒を半分ずつ僕と彼の杯に注いだ。
「お前って奴は……化物か」
「憶えてないのか? 俺の将来目標は諜報部の頭だ。いい訓練だよ。まあ、これを作る代わりに、パンをいつ買ったかは忘れちまったが」
資料は、紙の枚数にして計五枚。カテリナ自身の情報、確認され始めた時期、戦闘履歴、使用魔術、死亡後の処分、親族。これは、一般の騎士の知りうる情報を遥かに凌駕していた。
「どうして、これを?」
「いつかお前の役に立つと思った。というより、お前の足枷の為に作った。それにどんな情報が載っていようと、俺が作った資料に基づいてお前が行動して、そんでもってお前に何かあったら、俺がどれだけ悔いるかは、お前がよく知っているからな」
「待ってくれ、リオ。酔いが回りすぎていて何を言いたいのかさっぱりわからない」
「まあ、要するにだ。無理するなってことだよ。機会はいくらでもある。今は雌伏の時だ。田舎で畑耕して、土臭くなって帰って来い」
リオが杯を突き出してくる。乾杯を求めているのだと気付くのに、少し時間が必要だった。
「俺は、そんなに死に急いでいるように見えるか……? ジスさんにも咎められた。確かに納得いかない部分は多いし、団長への不信感もある。けれど、まだ何一つ頭には無いんだぞ、そんなこと」
「だから、その状態がまずいんだよ。お前は思い込んだら、いきなり行動に移すからな。ある程度情報を与えて、ある程度の計画が立てば、逆に人間落ち着いてくる。で、しばらくしたらその計画すら忘れて綺麗さっぱりだ」
リオは惜しむように最後の一杯を僅かだけ口に含んだ。
「いや、そうであってくれ。お前の気持ちもわかる。俺も悔しい。けど、――――――頼むよ、アルト。お前にまで死なれたら、俺は惨めすぎる」
僕は、リオの小さな呟きが聞こえなかったふりをして、杯に視線を移す。注がれた酒の色は濃すぎて、そこに写っているはずの僕の表情は、ついぞわからなかった。