第1話 スラムのゴミ拾い
ポンタ、15歳。
この街のスラムで、彼の名前をまともに呼ぶ者はほとんどいなかった。
「おい、臭いぞ! ゴミ漁りが来たぞ!」
朝の市場裏。生ゴミが山のように積まれた木箱に、ポンタは頭を突っ込んでいた。
痩せた身体に、穴だらけの服。伸び放題の髪は油と泥で固まり、頬には乾いた汚れがこびりついている。履いている靴は左右で形が違い、右足の靴底など半分以上剥がれていた。
どう見ても、まともな暮らしをしている人間には見えない。
実際、ポンタには家がなかった。
寝床は市場の裏にある崩れかけた物置か、雨の日には橋の下。食事はゴミ箱から拾った残飯が中心で、運がよければ商人が捨てたパンの切れ端にありつける。
それでも、腹が減れば食べなければならない。
「……おっ、これ、まだ食えるな」
ポンタは潰れたキャベツを拾い上げた。
葉の外側は茶色く変色していたが、中身はまだ緑色だった。泥を払って鼻に近づける。
少し臭う。
だが、今のポンタにとってはご馳走だった。
「へへっ、今日は当たりだ」
「おい、何を笑ってやがる!」
突然、背後から声が飛んできた。
振り返ると、同じスラムに住む男たちが三人、こちらを見下ろしていた。全員がポンタより年上で、日雇いの仕事をしたり、通行人から小銭を巻き上げたりして暮らしている連中だった。
「お前、またここを漁ってやがったのか。臭いんだよ!」
「す、すみません……」
ポンタは慌てて頭を下げた。
「謝れば済むと思ってんのか、このゴミ虫が!」
男が足元に転がっていた腐りかけの野菜を拾い上げ、ポンタに投げつけた。
べちゃっ。
野菜が額に当たり、汁が顔を伝って垂れた。
「ぎゃははは! 似合ってるぞ!」
「こいつには新鮮な野菜なんかもったいねえよ!」
もう一人が、どこからか拾ってきた卵を投げた。
ぱしゃん。
卵の中身がポンタの髪に広がった。
「うわっ、くせえ!」
「お前らが投げたんだろ……」
ポンタは小さな声で呟いた。
「ああ? 何か言ったか?」
「い、いえ! 何も言ってません!」
ポンタはすぐに頭を下げた。
男たちは満足そうに笑った。
「そうだよなあ。お前みたいな役立たずが、俺たちに口答えできるわけねえもんな!」
ポンタが逃げようとした瞬間、横から伸びた足が彼の足首に引っかかった。
「あっ!」
地面に顔から転んだ。
手をついた場所には、昨日から捨てられていた魚の内臓が散らばっていた。生温かい汚水が袖に染み込み、鼻を突く臭いが広がる。
「ぎゃははは! 転び方まで間抜けだ!」
「おい、立てよ。いつまで寝てるんだ!」
背中を蹴られた。
ポンタは歯を食いしばりながら、ゆっくりと立ち上がった。
痛かった。
悔しかった。
腹が立って仕方がなかった。
だが、ポンタは殴り返さなかった。
殴り返せば、三人がかりで袋叩きにされる。運が悪ければ、持っている食べ物まで奪われる。最悪の場合、今日の寝床すら失うことになる。
だから、彼は笑った。
「へへ……すみません。俺、どんくさいんで」
「知ってるよ! だから、お前はいつまでたってもゴミ拾いなんだ!」
男たちは笑いながら去っていった。
ポンタは彼らの背中を見送った。
拳を握りしめた手が、小刻みに震えていた。
いつか見返してやる。
そんな言葉は、もう何度も心の中で繰り返していた。
だが、15歳の孤児に何ができるというのだろう。
剣を買う金もない。
まともな仕事に就くための身分証もない。
読み書きだって、露店の看板をどうにか読める程度だった。
この世界では、力がなければ踏みつけられる。
金がなければ食べられない。
そして、何も持たない人間は、誰からも人間として扱われない。
ポンタはそれを、嫌というほど知っていた。
昼過ぎになって、ポンタは市場裏を離れた。
収穫は、傷んだキャベツの半分と、固くなったパンの切れ端。それに、誰かが捨てた古い布だった。
パンを少しずつかじりながら、スラムの奥へ歩いていく。
途中、子供たちが石を投げてきた。
「ゴミ虫!」
「臭いぞ、ポンタ!」
石が肩に当たった。
ポンタは振り返らず、足を引きずるように歩き続けた。
やがて、街の外れにある下水道の入り口へたどり着いた。
石造りの壁には苔が生え、黒い水が流れる溝からは腐臭が漂っている。普段なら近づくのも嫌な場所だが、今日はここで食べ物を探すつもりだった。
下水道の近くには、街の住人が捨てた品物が流れ着くことがある。
運がよければ、金属片や古着だって拾える。
「よし……もうひと頑張りだ」
ポンタは壁に手をつきながら、下水道脇の細い通路へ入った。
そのときだった。
ガコンッ!
足元の石板が突然外れた。
「えっ?」
身体が宙に浮いた。
チンピラリンホーが仕掛けた落とし穴だった。
「うわああああっ!」
ポンタは暗闇の中へ落下した。
ドボンッ!
全身が冷たい汚水に沈んだ。
鼻にも口にも、猛烈な臭いの水が入り込む。必死にもがき、壁に手をかけて這い上がったときには、頭の先から足の先まで糞尿と泥にまみれていた。
「げほっ、げほっ……!」
目に涙が浮かんだ。
誰かが上から覗き込んでいる気配がした。
「おい、ポンタ! そこがお前の家だ!」
聞き覚えのある笑い声。
「一生そこで暮らしてろ、ゴミ虫!」
石板が戻され、頭上から光が消えた。
ポンタは暗闇の中に取り残された。
「……くそっ」
声が震えた。
泣きたかった。
叫びたかった。
だが、叫んだところで誰も助けてくれない。
ポンタは壁に手を這わせ、出口を探し始めた。
どれほど歩いただろう。
足元の汚水は深くなったり浅くなったりを繰り返し、何度も転びそうになった。壁の隙間から差し込むわずかな光を頼りに進み続け、ようやく風の流れを感じた。
その先に、細い横穴があった。
身体をねじ込むようにして進むと、急に視界が開けた。
ザーッ。
川の音が聞こえた。
ポンタは斜面を転がるように下り、川辺へ飛び出した。
「はあっ、はあっ……助かった……」
澄んだ水が流れていた。
ポンタは服を脱ぎ、川の中へ飛び込んだ。何度も身体を洗い、髪をすすぎ、ようやく息をつく。
そのとき、泥にまみれた小さなものが、川辺の石の間に引っかかっているのが見えた。
「なんだ、これ?」
拾い上げると、それは手のひらに収まるほどの小さな神像だった。
人のような形をしているが、顔は削れていて、男なのか女なのかもわからない。全身が黒い泥に覆われ、片腕も欠けていた。
ポンタは自分の服と一緒に、神像も川の水で洗った。
「神様か? こんなところで何してるんだよ」
もちろん、返事はなかった。
神像の表面を指でこすったとき、ポンタの指先が小さく切れた。
赤い血が一滴。
神像の額に落ちた。
その瞬間だった。
カッ!
神像が、かすかな光を放った。
『弱者システム、起動』
「……は?」
目の前に、見たこともない文字が浮かび上がった。
『契約者を確認』
『特殊能力、弱者システムを付与します』
ポンタは口を開けたまま、空中に浮かぶ文字を見つめた。
そして、次の文章が表示された。
『成功報酬:対象が自分より弱いと認識している相手を殺害した場合、経験値を大幅に獲得する』
『失敗時:対象が自分より強者であると認識している状態で死亡した場合、レベルが大幅に低下する』
「……殺したら、レベルが上がる?」
ポンタは自分の手を見つめた。
今まで、誰かを殴り返すことすらできなかった。
自分をいじめる連中に、逆らうこともできなかった。
そんな自分が、人を殺せば強くなれるというのか。
だが、最後にもう一つ、文字が浮かび上がった。
『注意:対象に自身の実力を見抜かれ、弱者という認識が崩れた場合、報酬は発生しない』
ポンタは、しばらく黙っていた。
やがて、濡れた髪をかき上げ、神像を握りしめた。
「……そうか」
口元が、ゆっくりと歪んだ。
「俺は、弱いままでいればいいんだな」
川の向こうでは、街の灯りが一つずつ点り始めていた。
誰も知らない。
ゴミ箱を漁り、野菜を投げつけられ、下水道に落とされた15歳の孤児が、今まさに世界の裏側へ続く扉を開いたことを。
そして、いつの日か。
誰もが恐れる裏社会の王が、盲人のふりをして街角を歩くことになるなど、まだ誰一人として想像していなかった。
ポンタは神像を懐にしまった。
「まずは……あいつらからだ」
その瞳には、もう涙はなかった。




