東国より人は来たりて (1)
浴槽の縁に肘をつき、メイベルは風呂を楽しんでいた。この体勢でゆったり湯に浸かると、自分の身体がちょっと浮くのが面白い。銀色の髪が湯にぷかぷか浮いているのを、一緒に入るルスランも面白がっている。
「来週、サディクから僕の結婚を祝いに客が訪ねてくる。妻である君にも、もちろん彼らを出迎えてもらう。また着飾ることにはなるが、今回は気楽にしていて大丈夫だ」
「雪も積もってるこの時期にはるばるお祝いに来るなんて、大変だね」
自分の腕にもたれかかって枕にしながら、メイベルはルスランを見上げる。ルスランは水の滴る髪をかき上げていた。
「ヴァローナまでは船で来ているのさ。内海だから冬場でも船が出せる――それでも、あまり旅のしやすい季節ではないが」
「船……。私、船に乗ったことがないから、船旅のお話とか聞いてみたい」
「質問してみればいい。アルカラーム公は気のいい好人物……を演じ、我が国には友好的に振る舞っている。君が興味を持てば、喜んでお喋りに乗ってくれるだろう」
「意地悪な言い方」
濡れたメイベルの髪を指先でくるくると弄びながら、ルスランが笑う。
「利害関係で結ばれた友情でしかないからな。いまはヴァローナ……というか僕に勢いがあるから笑顔で接してくれているが、陰りが見えればあっさり見捨ててくるだろう。過度な期待は厳禁――と言えど、僕なりに彼との友情は大切にしている」
そう言って、ルスランはメイベルを抱き寄せてくる。のんびりと揺蕩っていたメイベルの身体は、すっぽりとルスランの腕の中におさまった。
「東の国の人に会うのも初めて。サディクは宗教も文化も何もかも西側と違っているんでしょう?」
「この宮廷にも、サディクの職人に設えてもらった部屋は多い。この風呂なんかはまさにそうだな」
頬にキスされ、メイベルはぱちくりと目を瞬かせた後、体勢を直してルスランの首に腕を回す。満足げにルスランは笑い、改めてメイベルに口付けた。
夜明けも遠い時刻に、メイベルは突然目を覚ました。まだ頭はぼんやりと霞がかり、瞼は重い。まだ明らかにメイベルの身体は睡眠を必要としているようだ。
もぞ、と動くと、自分に触れていたぬくもりが消えた――メイベルを抱きしめる体勢のまま銀色の髪を撫でていたルスランが、その手を引っ込めたらしい。
ルスランはどうやらメイベルの柔らかい髪がお気に入りのようで、最近では本人も無意識のうちに、手癖のように触れていた。
「すまない。起こしたか?」
返事の代わりに、メイベルはルスランの胸にすり寄って目をつむる。ルスランも改めてメイベルを抱き寄せて。
――でも、彼が何かを考え込んでいることは明らかだった。
王である彼には考えなくてはならない多くのことがあり、自分が独り占めしていられる時間が短いことは分かっている……が、やっぱり。二人きりでこうしている時には、あまり見たくない色だ。
東国からの客人が訪ねてくる日、メイベルはラリサたちに手伝ってもらって身支度をしていた。ヴァローナ衣装も、すっかり着慣れたものだ。
着替えを終えると、タイミングを見計らっていたかのようにルスランが迎えにきてくれて、彼の手を取って謁見の間へと向かう。
イヴァンカの皇帝の時とは異なり、ルスランもメイベルも、玉座に並んで座って客人を待った。
それでも、アルカラーム公到着との知らせを受けると、ルスランは立ち上がってサディクからの客人を出迎えた。
「久しぶりだな、我が友よ。私を祝うために遠路はるばる訪ねてきてくれたこと、嬉しく思う」
メイベルも玉座を離れ、親しげにアルカラーム公を出迎えるルスランの後ろにさり気なく控える。
アルカラーム公は四十を超える男性で、立派な髭を蓄え、メイベルが本で見た通りの豪奢なサディク衣装を身にまとっていた。彼も後ろに、人を連れている。
同じようにサディク衣装を身に着けた少年で……髭はなく、メイベルと同い年ぐらいかもしれない。黄金の髪に、黄金の右目――少年は、右と左の瞳の色が違う。
「王妃のメイベルだ」
ルスランが自分を紹介していることに気付き、メイベルは慌てて視線をアルカラーム公に戻した。
こういう時、なるべく表情を出さないように訓練してきた自分を褒めてあげたくなる。おかげで、いまも内心の焦りを顔に出すことなく済んだ。
「噂に違わぬ美しさ。新たな夫婦の門出を祝うために私からも贈り物を用意してきたのですが、彼女の前では持参した宝石も霞んでしまいそうだ」
そう言って、アルカラーム公は連れてきた召使いに目配りする。召使いは腰も低く近寄ってきて、ルスランとメイベルの前に恭しく宝石の入った箱を差し出した。
美しい首飾りに、ルスランは感心したような声を上げる。
「これは実に見事な宝石だ。ヴァローナでも、これほどのものはめったに手に入るまい」
言いながらルスランが首飾りを手に取り、メイベルはルスランに背を向けて首飾りを付けてもらうと、彼に向き直った。
メイベルの顎を少し持ち上げて首飾りを付けた姿を確認し、ルスランが笑う――ルスランを見上げたメイベルは、礼を述べる言葉は本心のようだ、と心の内で思った。
「もう一つ、結婚祝いに贈りたいものがある。シャーヒーン――私の息子だ」
アルカラーム公が振り返り、少年は頭を下げ、初めてルスランとメイベルに向かって挨拶した――少年はこれまでずっと空気のように振る舞って、ルスランもアルカラーム公も気付かぬ素振りで彼を見ようとしなかった。
「我々の友情と忠誠の証として、ぜひこの者をルスラン王に仕えさせてもらえないだろうか。射撃と馬術の腕はサディク宮廷でも並ぶ者のいない実力だ。それなり役には立てよう」
メイベルはアルカラーム公とシャーヒーンと呼ばれた少年を交互に見ながら、表情を顔に出さないようにする訓練をしていて本当に良かった、と内心で安堵のため息をついていた。
そうでなかったら、思いっきり目を丸くして、非難がましい表情をしてしまったことだろう。
アルカラーム公は……つまり……自分の息子を、ヴァローナに人質に差し出そうとしているのではないか。そう思えてならなくて。
ヴァローナとサディクの友情が薄っぺらいものであることは、アルカラーム公の色からも分かる。
彼が放つ色は、ここに来てからいままで一度たりとも気を抜くことのない、警戒心の色。対するルスランも、白々しい気持ちを抱いているような色をまとっている。
シャーヒーンと呼ばれる少年は……よく分からない。静かに緊張の色が揺らめいていて……でもそれも、ほとんど見えない。この場で交わされるやり取りに、関心がないような雰囲気だった。
「――おまえはヴァローナの人間だ。シャーヒーンという名も今日この場限り。これよりは、ヴァローナ人としての名を名乗るといい」
アルカラーム公は息子に言い、ルスランは自分の顎に手を当てて考え込む仕草をした。
「名がないと不便だ。メイベル。何か良い名は思いつくか?」
「私が考えていいの?」
話題を振られ、咄嗟のことで王妃らしからぬ口調で返事をしてしまった。
……こういうところは、もっと訓練しないとだめだ。顔はちゃんと取り繕えるが、口は全然だ……。
「なら……ファルコ。シャーヒーンは、鷹という意味でしょう?」
我ながらひねりのないネーミングだと思いつつも、むしろ凝った名前にはしたくないな、とも思った。
これから目の前の少年が一生名乗っていくことになる名前なら、彼のこれまでのことも大事にしてあげたい。
「あ。でも、ファルコはヴァローナ語じゃなかったね」
「ファルコがいい」
初めて、少年が口を開いた。女のメイベルも自信をなくしそうなほど美しい少年だが、声は男らしいものだった。
「これから、俺の名前はファルコだ。よろしくお願いします。ルスラン様、メイベル様」
サディク風の挨拶をしかけて、ファルコは動きを止め、改めて西国風の挨拶をした。
ぎこちないところはあるが、メイベルたちに向き合うファルコに迷いはないようだった。
アルカラーム公はもてなしの宴を受けて一泊だけしていくと、翌日にはあっさりと帰国していった。
もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれない息子とも、ヴァローナ人のほうが拍子抜けするぐらい手短に挨拶を済ませ、王都を出て行く。
見送る息子も、父親を乗せた大行列が城の門を出て行ってしまったら、それきり自分に宛がわれた部屋へ戻ってしまった。
王の執務室で、ルスランは客人の真意を考え込んでいる。
「ああも淡々としたやり取りを見せられると、サディクが送り込んできた間者かと疑いたくなる」
「陛下のご懸念もごもっとも。私も、正直同じ意見しか抱けません」
陸軍大将アンドレイが言った。宰相ガブリイルは積み上げられた書類を片付けつつ、疑念を抱く王や将軍の話に応じた。
「少なくとも、アルカラーム公の七番目の息子という素性は間違いありません。母親譲りの黄金の髪に美貌……そして何より、左右で異なる瞳の色。噂で聞いた通りの容姿です。あの目では、身代わりなども用意できるはずがない」
「オッドアイって初めて見た」
ルスランの机に近い長椅子に腰かけ、メイベルが言った。今回は、ルスランに呼ばれて執務室に来ている。
将軍や宰相には話していないようだが、相手の真意を探るのなら、やっぱりメイベルの能力に頼りたくなるのだろう。メイベルは、見えたままのことを話す。
「ファルコに間者をやらせてるのなら、アルカラーム公はもっと違う感情を向けるものだと思う。自信があるわけじゃないけど……あれは、何かを命じた人に見えるものじゃない気がする。ファルコも、私たちのやり取りにあんまり関心がないみたいだったし」
「君がそう言うのなら、いますぐ何かを仕掛けるような企てや命は受けていないということか」
ルスランが言った。それでもまだ考え込んでいるようだが、将軍は苦笑し、宰相は眉間に皺を寄せて王を見る。
当然だ。メイベルの能力のことを教えられていない彼らからすれば、メイベルの言葉を鵜呑みにしようとする王に不信しかない。
「……王妃様の洞察力と観察眼を疑うわけではありませんが……そう見える、というお言葉だけで全面的に信頼するのはいかがなものかと」
宰相が言い、ルスラン王が反論した。
「おまえの言い分は分かる。というか、本来ならばその言い分こそ正しいのだが、今回だけは引っ込めてくれ。いささか事情があるのだ。いずれ必ず説明するから、いまは私とメイベルの判断を信じてくれ」
「はあ……。陛下がそうおっしゃるのでしたら」
メイベルのことも、ルスランのその言葉も、納得したわけではないだろうが。
宰相や将軍が大人しく聞き入れて引き下がってくれるのは、主従だけではなく、幼い頃からの友情もあるからなのだろうな、とメイベルは思った。
メイベルでは割って入ることもできぬ男の友情が、ちょっぴり羨ましくて嫉妬してしまう。
登場する国のモデル
サディク→ペルシャ