メイベルの秘密 (4)
一人、服を着直していたミハイルは、背後でメイベルが身じろぐ気配を感じベッドに振り返る。
緩慢とした動きで起き上がったメイベルはぼんやりとした表情で。白い肌から滑り落ちるシーツをもぞもぞと羽織り、ミハイルを見ることもなく、静かに涙をこぼしていた。
「それは、喜びの涙と解釈しておこうか」
手を伸ばし、メイベルの涙を拭う。メイベルはミハイルの手をはっきりとは拒まなかったが、わずかに顔を背け、自分を守るような仕草を見せた。無言で泣き続けている。
――こうして見ると、やはり、どこにでもいるありふれた小娘でしかないな……。
表に出すことなく笑顔を取り繕うが、ミハイルの胸は失望で占められていた。
十年前、自分の本性を一目で見抜いた聡明な少女と思っていたのだが、買いかぶり過ぎたのだろうか。あれは偶然でできることではないはずだが……。
何であれ、いますぐ手に入れるほどの価値はなさそうだ。
ミハイルは立ち上がり、近くの椅子の背もたれにかけっぱなしになっていた上着を手に取る。ベッドに取り残されるメイベルに振り返ることもなく、さっさと部屋を出た。
どうやらルスラン王は妻に了解も取らずにミハイルの閨の相手をさせたようだが、それにしてもミハイルを喜ばせるような振る舞いもできず、そのくせ拒否するために機転を利かすこともせず、されるがままとなって事が終われば恨みがましく涙を流すような女に、これ以上時間を割くのが惜しい。
おかげさまで興は削がれた。
今回はルスラン王の思惑に乗ってやって、大人しくイヴァンカに帰ることにしよう――メイベルのことも、もう少しだけ様子を見てみたい気持ちもある。
妻のラリサからの報告を受け、将軍アンドレイはルスラン王の部屋を訪ねた。無事にルスランの思惑通りになったことを皮肉交じりに伝えれば、そうか、と王は短く答える。
「……お休みにならなかったので?」
部屋のベッドは使われた様子がなく、腰かけた椅子のそばのテーブルには酒の用意がされてはいるが、それに手を付けてもいないようだ。
将軍の問いに、ルスラン王は自嘲するような笑みで応えた。
「ろくでなしの私でも、この状況で眠る気にはなれんさ」
ミハイル皇帝がどう動くか気になったのか、メイベル王妃への罪悪感なのか……どちらもかな、とアンドレイは思った。
「メイベル様は泣き伏せっていらっしゃるそうです。ラリサたちの世話を淡々と受け入れてはいるようですが、お声をかけてもほとんど反応しないと。陛下は……謝罪と労いに向かうつもりはないのですね」
長い付き合いだ。幼馴染でもある主君にその気がないことぐらいは、何となく察することができる。王妃を気にかけてはいるが、彼女を慰めるつもりは一切ないらしい。
「そんな空々しい真似をして何の意味がある?黒雷を見送ったら、我々もヴォルドーを出て王都に帰る。用意を進めておけ」
そう言って、ルスラン王は立ち上がり、ゴロンとベッドに横になる。
それ以上は話をしたくないという、彼なりの拒絶だ。こうなっては、アンドレイが何を言っても無駄だろう。
やれやれと言わんばかりに肩をすくめて見せた後、頭を下げ、アンドレイは退出した。
ヴォルドーから王都までの帰り道は長い。行きもそうだったのだが、途中でいくつかの町に立ち寄って休憩を取ることも少なくない。
今日も日が暮れる前にそれなりの規模の町に立ち寄り、王や王妃は宿に入っていた。
女官のオリガは、休憩時間に町へ買い物に行く許可が欲しいと申し出た若い女官が小走りで宿に戻って来たのを見て、声をかける。
「待ちなさい。それを王妃様に持っていくつもり?」
「あ、はい。町で買ってきたんです。王妃様のお部屋に飾りたくて……」
若い女官が持っているのは、小さな可愛らしい花束。オリガは眉間に皺を寄せた。
「王妃様を喜ばせたい気持ちは分からなくもないけれど、規則は守りなさい。王妃様の部屋に置くものは、すべて複数人での検査が必要です」
「すみません……。少しでも王妃様の慰めになればと必死で考えてたら、そういうことすっかり忘れてました……」
しゅんと縮こまる若い女官に、ため息を吐きながらもオリガも強く咎める気にはなれなかった。
「王妃様が、あまりにも気の毒で……。あんなに陛下を慕っていらっしゃったのに……あの日から、陛下のお部屋に行くこともなくなって、ずっと閉じこもって……」
彼女の心配ももっともである。
あの夜から、王妃メイベルはルスラン王の寝室を訪ねることはなくなった。もともと表情の起伏が乏しい女性であったが、いまはオリガたちが声をかけても反応しなくなっている。
ミハイル皇帝のこと――イヴァンカの皇帝はヴァローナにとって脅威だ。ヴァローナの王妃として彼女にもミハイル皇帝に応対する義務がある。
……と言っても、同じ女として気の毒な思いもある。職務に忠実なオリガですらそう思うのだから、若い女官たちはメイベルが可哀相に思えてならないことだろう。
いまの王妃の心を動かせる相手は、ルスラン王だけ……。しかし、王として決断したことについて、ルスラン王が謝罪など口にできるはずもない。王妃が自分で納得するしかないのだが……。
このまま二人は仲違いしてしまうのか。女官たちは心配している。
オリガも、内心かなり気にしていた。
王と王妃が言葉を交わすこともなく顔を合わせることもないまま、周囲がモヤモヤを抱えたまま旅が続き、ある日。
突然、ルスランがメイベルの部屋を訪ねてきた。
「外に出る。来い」
ノックもなしにいきなり入ってきて、焦る女官たちも無視して、ルスランは窓のそばの椅子に座るメイベルにズカズカと近付く。メイベルも、目をぱちくりさせてルスランを見上げていた。
そんな彼女の腕をつかみ、強引にルスランが引っ張っていく。
ルスランがその気になればメイベルは抵抗できるはずもなく、されるがままになるしかなくて。引っ張るルスランに連れられて宿を出、厩舎へと向かう。
ルスランの色は静かで、何をするつもりなのか見当もつかない。メイベルはルスランに抱きかかえられ、馬に乗せられてしまった。
陛下どちらへ、と将軍や兵士たちも慌てて駆け寄ってきたが、返事もせずにルスランは馬を走らせる。ルスランの前に不安定な体勢で馬に乗るメイベルは、思わずルスランにしがみついた――容赦なく走らせるものだから、そうしないと本当に馬から落ちてしまいそう。
「ルスラン、どこ行くの?」
乱暴な走りに、話すのもそれが精一杯。ルスランからの返事はない。
実際はもっと短かっただろうが、メイベルにはずいぶん長い時間に感じられた――馬を止めたルスランが、ようやく口を開く。
「あの山を越えればイヴァンカ。向こうの山の先が、ハルモニアだな。地図で見れば遠く感じるが、実際は目と鼻の先だ」
いきなり何の話を……と思いながら、ルスランにしがみついてぎゅっと目を閉じていたメイベルは顔を上げ、ルスランが指す方を見た。
宿を出て町を離れ、自分たちは小高い丘に出ていた。目の前には美しい山並みが広がり、緑の山々の合間に夕陽が沈んでいく。
その光景は、メイベルの心を奪った――ここ数日のぐちゃぐちゃになった気持ちを、一瞬ではあるが完全に忘れ去らせた。
「私はヴァローナの王で、この国と人々を守ることが自分の使命だと思っている。生涯をこの国に捧げ、妻となった君にも当然のようにそれを強いるつもりだ。そんな私でも、超えたくはない一線ぐらいはある」
ルスランが言った。
「――コルネリウス王にとっては、その一線に君も含まれていた。妹にまで強いるぐらいなら、自分が命がけで戦ったほうがマシだと思った。結果だけ見ればハルモニア国王としては誤った選択だったわけだが……選べなかったということは、コルネリウス王には最初からその選択はなかったも同然だ」
ルスランの手が、メイベルの髪を撫でる。最後の輝きの放ちながら山へと落ちていく太陽を見つめていたメイベルは、ルスランへと視線を移した。
「だから、君もいつまでも自分を責めるのはやめろ。自分の選択を否定されることのほうが、コルネリウス王にとってはよほど辛いことだろう――そうまでして彼が守りたかったものを、君が否定すべきではない」
メイベルは黙り込んだまま……ぽろりと、涙がこぼれた。一度流れ出したら、涙は止まらなくて。
兄の戦死を聞いた時だって我慢できたのに、この人はいつも簡単にメイベルを泣かせる。
涙を止めようとしたのに、嗚咽を堪えようとしたのに、ルスランに優しく抱きしめられて、メイベルは彼の胸にすがりついて泣きじゃくった。
ミハイル皇帝のこともたしかにショックだった。ルスランのことを信頼してたのに、こんなだまし討ちはあんまりだ。
でもそれ以上にショックだったのは、こんなことでルスランたちの死の運命が変わってしまったこと。
あんなにルスランが死を回避する方法を考えても変わらなかったものが、メイベル次第でコロッと変わってしまった。
――なら兄の死も、メイベルがもっとちゃんとしていれば変えられたのでは?
薄々感じていた自分の過ちを改めて突きつけられて、メイベルは激しい後悔と自責の念に襲われていた。
周りの人たちはルスランの仕打ちにメイベルが傷ついていると勘違いしていたが、ルスランだけは見抜いた――特別な力を持ってるはずの自分よりもよほど、あっさりとメイベルの本心を見抜いて来る。
それがちょっとだけ、憎らしい。
ハルモニアを侵略し、兄を殺して、今回は他国の王の夜伽の相手までさせた。ろくでもない男なのに、嫌いにさせてくれないルスランのことを、メイベルは少しだけ恨んだ。
そしてその夜。
アンドレイから勝手な行動について長々と説教を受けたルスランが自分用の客室に戻ってみると、部屋の前にはラリサが立っていた。ルスランを見て静かに頭を下げる彼女の横を通り抜け、部屋の奥へと向かう。
ベッドに腰かけ、メイベルがルスランを待っていた。
――その手に、短剣を持って。
苦笑して近付くルスランに、メイベルが躊躇なく短剣を振り下ろしてくる。彼女の腕をつかんで捕らえ、ルスランが言った。
「まだ許してはもらえないということかな」
「許すも何も、それについては最初から仕方ないことだと思ってた」
腕を捕らえられても諦めず、メイベルはありったけの力を込める。
「ルスランがあれこれ悩んでたのも見てきたから、考え抜いた末に選んだことなら私も反対しない。ルスランたちが死ななくて本当に良かった。でも」
メイベルはベッドの上に膝立ちになり、体重もかけてルスランに止められた腕にさらに力を込めた。
「それはそれとして、やっぱり腹は立つの。何も言わないで私をあんな目に遭わせるのも酷いし。グサッとするぐらいは許されるべきだとも思ってる」
「君の言い分は一理あるどころかぐうの音も出ないほど正しい」
そう言いながら、ルスランはメイベルの腕をひねり上げる。痛みに小さく悲鳴を上げるメイベルは短剣を落としてしまい、ルスランはそのままベッドの上に押し倒してきた。
「ケチ!ちょっとぐらい良いじゃない!」
「こんなことで寛大さを示すぐらいならケチで結構。僕だって痛いのはいやだ」
いまだささやかな抵抗をしてくるメイベルに構わず、ルスランが口付けてくる。それを受けとめ……自分を抑え込む手が緩むと、メイベルはルスランの首に腕を回した。
――このことは僕と君だけの秘密にしよう
十年前のあの日の秘密。
メイベルにはもう一つだけ、誰にも話していない秘密がある。
本当はずっと、初めて会ったあの時から……。燃えるような、輝くような強い野心の色を持つ彼に惹かれていたこと。
悔しいから、これについてはとうぶん秘密のままにしておこう。