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裏切り (2)


「オリガ、イグナートをお願いね」


王子の乳母であるラリサは、こういう時、我が子よりも王子レオニートを優先しなくてはならない。

息子を他の人に託してメイベル、王子と同じ馬車に乗る母を、オリガの腕に抱かれたイグナートは悲しげに見つめている。


平時だったら、イグナートも一緒に連れて行ってあげて、とメイベルが声をかけるのだが……。


「それでは、メイベル殿とリオン王子を一番最初に。以降は少しずつ時間を置いて出発する。ホーカン、後発の者たちの指揮を頼む」


ホーカンと呼ばれた男はノルドグレーンの将軍のようで、エリアス王の信頼厚い男である。

彼は、王に与えられた任務を真面目にこなそうとしている――自分たちの主が、暗い感情を抱いていることに気付いていない。


きっと、オリガやイグナートたちは大丈夫だ。行動を起こすのはエリアス王のほう。

彼がいったい何を考えているのか。

こういう時、感情の色なんていう曖昧な見え方ではなく、はっきりと相手の心が見えたらいいのに、とメイベルはいつも自分の能力の中途半端さを歯がゆく感じていた。




クベンコの城を離れ、エリアス王はドヴラートという小さな町へとメイベルたちを連れてきた。王旗も降ろして小規模な集団で入ってきたため、町の人たちはどこぞの貴族が旅行の最中に休憩に立ち寄った……ぐらいの認識のようだ。


その夜は町の宿に泊まることとなって、ノルドグレーン兵は手際よく部屋を手配していき、メイベルは、エリアス王と同じ部屋となった。


「町の者たちは少し物々しい家族旅行と考えているようだ。貴族なら、こんなものだろうと――その勘違いを利用させてもらう。この町にいる間は、私と貴女は夫婦ということで」


エリアス王が言い、それは仕方のないことだと思ってメイベルが頷く。


幼子がいて、主人らしき若い男女がいて、自分たちは夫婦ではないなんて、一泊するだけの町の人たちにわざわざ説明する意味がない。勘違いを解くこともなく、朝が来たら町を離れるだけ。

ただ……ごく自然と、彼と二人きりになってしまうことに、メイベルが勝手に不安を抱いているだけ……。


「他の者たちも、今晩は各々近くの町に入って休んでいるはずだ。ホーカンはこのあたりの土地にも詳しい。彼の采配なら信頼できる。ルスラン王とも、明日には合流できるだろう」


部屋に入って突っ立ったままのメイベルに、エリアス王がさり気なく長椅子をすすめてくる。

これもごく自然なことだ。誠実で紳士的な彼が、女性を立ちっぱなしにさせて気にしないはずがない。


いまは単にメイベルが不安がって、緊張しているだけだとエリアス王も考えてくれている。

強く警戒していることに、やはり気付かれないほうがいい――メイベルは長椅子に腰かけた。


「あなたの親切と友情に、心から感謝申し上げます。女の私たちだけでなく、幼い子もいて、色々と気遣わせてしまって……」


王子レオニートは別室にいる。

乳母もついているのだから、夫婦と子供が別の部屋になるのは特に不思議なことではないが、ミンカまで王子の部屋で待機することになり、彼女も少し驚いていた。

自分は王妃付き女官で、メイベルの世話をするために同行したはずなのに――そう思いつつも、エリアス王に当たり前のように指示されては従わないわけにもいかず。


メイベルも、女官から引き離される不安を抱きながらもそれを表に出すことなくエリアス王に従った。

何か起きた時、女のミンカではかえって危険が増すだけだ。


「お気になさらず。あなたに似て、とても愛らしい子だ」


メイベルにそっくりな息子は、なかなか肝が据わっているようで、こんなことになってもニコニコとノルドグレーン側にも愛想を振りまいていた。

おかげで、エリアス王やノルドグレーン兵もヴァローナ王子を可愛がってくれているが……。


少し距離を取って、エリアス王も長椅子に腰かける。そばのテーブルに置かれた酒に手を伸ばし、盃に注いだ。


「あなたは酒が苦手だったな」


エリアス王は笑って言い、メイベルは頷く。

酒が苦手と言うか、お酒を飲んだ人間が感情の色を奇妙に変化させるのを何度も見てきたから、酒を飲むとああなるのかというトラウマから自分で飲む気になれないのだ。


部屋の扉をノックする音が聞こえ、エリアス王は立ち上がった。

扉の前でノルドグレーン兵から盆を受け取り、長椅子へと戻ってきてテーブルにそれを置く。


メイベルのため、わざわざ紅茶を用意させてくれたらしい。


「……茶葉の香りの違いも分からない私では、このようなものしか用意できなかった」


苦笑いでエリアス王が言い、手ずからメイベルのためにカップに茶を注ぐ。メイベルも微笑んでそれを受け取り……顔に出さないようにしながら、飲むのを躊躇った。


宿に入った時から暗い色に支配されていたエリアス王の感情の色が、いよいよ不穏に蠢き始めている。

毒殺……高潔なエリアス王には、これ以上ないほど似合わない単語だ。


カップの中の茶をじっと見つめ、メイベルはそっと口を付ける。

少しだけ口に含んで、こっそりどこかで吐き出してしまえば――メイベルの甘い考えに対して、エリアス王のほうは容赦ない行動に出た。


メイベルが紅茶を口に含んだ途端、エリアス王の手が伸びてきてメイベルの口を塞ぐ。

距離を詰めたエリアス王は完全にメイベルの抵抗を抑え込み、大きな手は口だけでなく鼻も塞いでしまっている。苦しさに、ごくりと口の中のものを嚥下するしかなかった。


メイベルが飲み込んだのを見届けてエリアス王は手を離し……メイベルは、長椅子の上で崩れ落ちる。

視界がひどくボヤけ、世界が揺れる。長椅子に触れている感触はあって、なんとか手をついて身体を支えているのはたしかなのだが……ふらふら揺れて……ふかふかの長椅子の背もたれに、メイベルは頭をぶつけてそのまま落ちた……。


「本当に恐ろしい薬だ。こんなものを私に寄越してきたあの女も……」


エリアス王の声が間近から聞こえてくる。顔にかかる髪を、男の手が払っているのも感じた。


視界は大きく揺れて思考はまとまらないのに、自分に触れられる感覚だけは残っている。

……あの時の薬だというのなら、メイベルは身体を動かすこともままならない状態だ。


エリアス王が、まさかあんな薬をダリヤ・フォミーナから受け取っていたとは思わなかった……。


「苦しむ貴女を気の毒に思う一方で、美しいとすら感じてしまう……。やはり私は、あれ以来、どこかおかしくなってしまったらしい」


エリアス王が自分を抱きかかえる。どこへ行こうとしているのか見ることはできないが、予想はついた。

そしてメイベルの予想通り、ベッドのようなところへ降ろされる。


ベッドがぎし、と軋んで、エリアス王が乗り上げて自分に覆いかぶさってくるのを感じた。


「あれ以来、黒雷の手で乱れたあなたの姿が脳裏からどうしても離れない……忘れられない。あの記憶は次第に捻じ曲げられていって、最近ではすっかりおぞましい妄想に変わってしまっている」


あの夜のことは、メイベルもエリアス王も話題にしなかった。

夜が明けてヴォルドーの城で顔を合わせた時も、国に帰る彼を見送る時も。互いに、何もなかったように振る舞って。


思い返せば、あの時からエリアス王の感情には奇妙な色が見えていた。ただ、あの時は、あんなことがあって何の変化もないほうがおかしいと思い込み、気にしなかった。

そうしてクベンコの城で再会した時には、エリアス王はすっかり感情に飲み込まれてしまっていた。

……あの時に気付いていたからといって、メイベルに何ができたとも思えないが……。


「黒雷の手が私の手に替わり、私の腕の中で乱れる姿を、何度も夢で見るようになった」


エリアス王の唇がメイベルの首筋に落ち、エリアス王の手は……ドレスをたくし上げ、メイベルの足に直接触れていた。


「このようなおぞましい妄想は、決して現実にしてはならないと……二度と貴女に会うまいと決心していたのに……。貴女と二人だけで会う絶好の機会だと気付いてしまった途端、私はクベンコへ向かっていた」


メイベルはただ部屋の天井を見つめることしかできず、耳元で囁くエリアス王の言葉を聞いていた。


「愛しいメイベル……。こうして我が手にした以上は、二度と手離すものか」




一晩経っても、薬の効果は残っていた。拘束力は弱まったが、まだ頭がぼんやりしていて自分で身体を動かすのもひどく億劫だ。

メイベルに軽く羽織らせ、エリアス王が抱きかかえて部屋の外へ連れ出す。


宿の外の馬車へ。

エリアス王に抱きかかえられて入って来たメイベルを見て、ラリサとミンカが驚愕する。


「王妃様!?」


馬車の座席に丁寧にメイベルを降ろし、エリアス王が言った。


「昼頃には薬の効果も完全に切れる。それまでは、彼女は自力で動けない――急ぐので、馬車も動きが荒くなるだろう。メイベルが怪我をしないように気を付けろ」

「これは……どういうつもりなのです?エリアス王、何をお考えに――」

「馬車を出せ」


ラリサの抗議を無視して、エリアス王が御者に命じる。

馬車が乱暴に動き出し、ラリサは抱きかかえている王子を、ミンカは座席でぐったりとしているメイベルを慌てて気遣った。


「ラリサ様……」


メイベルを支えながら、ミンカが不安そうにラリサを見る。ラリサは、ぎゅっと王子を抱きしめた。


「なぜかは分からないけれど、エリアス王は乱心していらっしゃるわ。私たち……というか、メイベル様をどこかへ連れて行くおつもりよ。私の考えが正しければ、恐らくはノルドグレーン……」


ラリサのその推測は、きっと正しい。エリアス王はメイベルを国へ連れ帰る気だ。


他国の王妃なのに。

そんな正論をぶつけても、エリアス王はもう聞き入れないだろう。そんな説得で思いとどまるなら、最初からこんなことはしなかった。


「国境を越えてしまったら、陛下もそう簡単に手出しできなくなる。その前に逃げ出さなくては」


ラリサが言うが、それが難しいことは彼女も分かっているはずだ。

薬のせいで、メイベルがまとも動けない。

王子を抱きかかえてラリサとミンカだけで逃げ出すことなら可能かもしれないが、そもそも、エリアス王の目的はメイベルにある。ラリサたちが逃げたところで、彼にとっては何の意味もない。


ルスラン……。

彼の名前を呟くこともできず、ミンカの腕の中でメイベルはただぐったりとしていた。


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