妻の努め、王妃の務め (3)
息子イグナートをルスラン王と対面させた後、ラリサは我が子を夫に預け、エリザヴェータの姿を探した。
この城に、エリザヴェータはあまり良い思い出はないはず。遠い日の記憶を頼りにエリザヴェータが向かいそうな場所を探して、裏庭の片隅にある東屋で彼女を見つけた。
「エリザヴェータ様」
東屋のベンチに腰かけてぼんやりと庭を眺めるエリザヴェータに、ラリサはそっと近付いて声をかける。
この季節、植えられた植物もすべて枯れ落ちてしまった裏庭の景観は非常に寂しいもので、寄り付く人はほとんどいない。だから、昔の彼女も時々立ち寄っていた。
ここなら、人目を気にする必要もないから……。
「お身体を冷やしてしまいますわ。日も暮れて参りましたし、お部屋にお戻りください」
ゆっくりと振り返ったエリザヴェータは、ラリサを見てわずかに微笑む。
「……十二年前も、あなたはそうやって私を心配してくれたわね。与えられた仕事をこなしていただけなのかもしれないけれど……私は、あなたの親切がとても嬉しかった」
「恐れ多いお言葉にございます」
エリザヴェータは庭に視線を戻し、ラリサは黙って彼女を見守った。
拒絶はされていない――ラリサは、彼女の言葉を待つことにした。
エリザヴェータとて心の内に色々なものを抱えているはず。そして彼女は、それを打ち明けられる相手がとても少ない。
自惚れても良いのなら、ルスラン王よりも自分のほうがよほど気安く話せるはず。
――ラリサのその読みは当たった。
「……あなたもきっと、不思議に思ってるわよね。私がなぜ……突然、王城に戻って来たのか」
「エリザヴェータ様の率直なお言葉に対し、私も率直に答えさせて頂きます。いったい、どのような心境の変化があったのですか?」
エリザヴェータはまた黙り込み、庭を見つめている。少しの沈黙の後、エリザヴェータは語り始めた。
「ルスラン様が結婚して、子ができたことを聞いた――私、最初は心からこの知らせを喜んだの。本当よ。ルスラン様が私のことなど吹っ切って、自分に相応しい女性と幸せになってくれたのなら……心から祝福したいと……そう思ったの。でも……」
膝の上に置いたエリザヴェータの手が、ぎゅっと握りしめられる。
「時間が経つにつれ……なぜ、という思いが強くなっていった。ハンスもヴァローナ王家直系の血を引く子どもなのに……なぜ、この子は日の当たらぬ場所に追いやられてしまうのか……。まるで最初から存在しないように扱われて……。ルスラン様の子はあれほど晴れやかに祝われるというのに、ジェミヤン様の子は……母親が私だというせいで……ただそれだけで、あまりにも違っている……!」
握りしめたエリザヴェータの手が、ブルブルと震え始めた。
「分かっているのよ!ハルモニア王家の血を引く王妃様と私じゃ、比べるのもおこがましい――天と地ほどの隔たりがあると……そんなこと、ジェミヤン様と結婚した時に嫌というほど思い知って、弁えていたはずなのに……!」
激情に駆られたエリザヴェータは、大きくため息を吐く。自分で自分を落ち着かせようとしているのだ。
本当は、多くのことを耐えている女性であることは、ラリサもよく知っていた。
「ハンスに以前から父親のことを知りたいとねだられていたのも本当。でも、王城に行くなんてことは微塵も考えてこなかった。なのに、ルスラン様に子ができたことを聞いて……分不相応な悩みに苦しんでいる内に、気付いたら王城に来てしまっていた。自分でも、いったい私は何をしているのかしら、と時々我に返るわ」
自嘲するように、エリザヴェータが小さく笑う。
「……そして、私……自分でも気づかない内にすっかり自惚れて、思い上がってたみたい。私さえその気になれば、ルスラン様とはいつだって結ばれることができると」
やはり、すでにエリザヴェータはルスラン王に誘いかけていて……ルスラン王はそれを断っていた。王妃メイベルもその可能性を指摘していた。
それが、メイベルへの強い敵意を抱くきっかけになったのではないか、と王妃は考えていたが……。
「でもあっさり断られてしまった。私……それ以来、どうしようもなくなってしまったの。王妃様が憎くて堪らない」
エリザヴェータは庭を見たまま、ラリサに振り返らない。きっと、いまは顔を見られたくないのだろう、とラリサは考えた。
話す声が震えていて……きっと、彼女はいま涙を流している……。
「何かが違えば、私が手に入れるはずだったものを全て手に入れた王妃様が憎い。私……私からすべて横取りしていく王妃様のものを、奪い返したくて堪らない。こんな考え方、間違ってる――そう分かっていても、どうしようもないの。間違っていることが分かっていても――」
エリザヴェータは言葉を切り、静かな東屋は、また沈黙に包まれた。先ほどよりも少し長い沈黙の後、さり気なく涙を拭ってエリザヴェータがラリサに振り返る。
「分かっていても、どうにもできない。だから、あなたのお説教を聞く気もないわ。早く新しいご主人様のもとに戻りなさい。私を見捨てて、王妃様に忠心を尽くしていればいいわ」
そう言ったエリザヴェータの言葉は冷たく、自分を見つめる眼差しに、強い拒絶の色が見えた。
ラリサは目を伏せ、頭を下げる。
エリザヴェータはすでに庭に視線を戻しており、もうラリサを見ることはなかった。
エリザヴェータの真意を知ったラリサは、すぐに行動に出た。
宰相の執務室に向かい、ガブリイル・エリシナにエリザヴェータとのやり取りを話す。
――メイベルに言われていたのだ。
エリザヴェータの真意を探って……その後の行動は、ラリサの判断に任せると。
「私が命じたことではあるけれど、必ずしも私に報告しなくていい。誰にどう話すべきか……ラリサの判断に委ねる。ラリサが、私は知らないほうがいいと判断したのなら、それでいいの」
エリザヴェータの本音を知ることで、王妃が傷つく可能性もある。
その時は、ラリサもその可能性を指摘されて、なるほど、と納得したのだが……いまならば、他ならぬラリサへの配慮もあったのだろうな、と理解した。
ラリサはかつてエリザヴェータと交流があり、王妃一筋でいられる他の女官たちと違って、エリザヴェータにもそれなりの想いを抱いている。エリザヴェータの真意を知って、彼女に肩入れしてしまう可能性も考えた。
そして、ラリサが王妃への忠誠心とエリザヴェータへの同情心の板挟みにならないよう、他の者に判断を仰いでもいいと逃げ道を与えてくれたのだ。
メイベルの危惧した通り……もし、王妃にエリザヴェータのこの真意を伝えなくてはならないとなったら、ラリサも苦悩したことだろう。
もちろん王妃への忠義を尽くして必ず報告には行ったが……メイベル自身も傷つくエリザヴェータの本音を伝えるなど、しなくて済むならそれに越したことはない。
優しいメイベルはエリザヴェータの苦悩に共感し、間違いなく自分も原因の一つであると考えて……彼女もまた、苦悩を背負いこむことになっていただろう……。
「エリザヴェータ様には、早急に王城をお離れ頂くべきだと考えます。バーベリの……王家所有の城に移って頂くのが最善かと。あそこでしたら、陛下もハンス様に会いに通いやすいことですし」
王妃の危惧とエリザヴェータとのやり取りを伝えたラリサは、自分なりの結論も話した。
ラリサの話を聞き、宰相は考え込んでいる。
「あなたの意見は一理ある……が、危険もある。恐らくあなたも気付いているだろうが。城を与えるなど、エリザヴェータ様とハンス様への寵愛を公言するようなものだ」
眉間に深い皺を刻み込み、宰相が言葉を続ける。
「これもとうに気付いていることだろうが、ハルモニア人の王妃様が陛下の御子を身ごもられたことで、古くさい考え方にしがみつくしかない貴族共の間に不穏な空気が流れている。そこにエリザヴェータ様が登場したことで、余計なことを思いついている者も少なくない」
「私も最近は城を離れておりましたが、容易に想像できますわ」
昔はあれだけ邪険にし、見下していたエリザヴェータを持ち上げて、王妃メイベルを排除しようとする連中がいる。
身分は低くともエリザヴェータはれっきとしたヴァローナ人で、息子ハンスはヴァローナ王家直系の男児。ハルモニア人の王妃が生む子どもよりもハンスのほうが……なんてことを考え始めているのだ。
そしてエリザヴェータやハンスは、そういった連中に担ぎ上げられそうになっても、抵抗する術を持たない。後ろ盾もない彼女たちは、邪な連中のされるがままに……。
「ガブリイル様がそういった展開を危惧なさるのも、もっともな話。ですが……私が見た限り、まずは物理的に王妃様とエリザヴェータ様に距離を取らせるべきです。お顔を合わせればエリザヴェータ様は王妃様への感情を強めていき……手が届く距離にあっては危険なのです。バーベリの城へ移ってしまえば、少なくとも、エリザヴェータ様が直接、王妃様に手出しすることは防げます」
「そこまでかの人は思い詰めているのか」
宰相が問い、ラリサは頷く。
むむ、と宰相は唸って、やがて大きくため息を吐いた。
「……分かった。まずは早急に、エリザヴェータ様、ハンス様をバーベリに移って頂くことにしよう。ただ……そうなると、陛下に話さぬわけにはいかないが……」
まさか、ルスラン王にエリザヴェータの真意を聞かせるわけにもいかない。知れば、ルスラン王はエリザヴェータを処刑してしまいそうだ。王妃への不敬と、宮廷を無用に乱した罪で。
王として冷酷な決断を下すとなれば、ルスランは一度は愛した女性が相手であっても容赦はしない。例えそれで、自分自身も大きく傷つくとしても。
……そんなことをさせるのが嫌で、メイベルはルスランに相談することなく自分たちであれこれ動いているのだろう。
ガブリイルも、王に忠誠を尽くす宰相として、一人の友として、メイベルの深い配慮に感謝しつつ、どのように対処すべきか悩んだ。
そして結局……メイベルに頼るしかないという結論に至った。
「王妃様にお願いするしかないか……。陛下にそれとなく話して、エリザヴェータ様たちの住まいを移すよう、誘導して頂きたいと」
「それがよろしいかと思います」
ラリサも苦笑して頷く。
王妃に頼まれてエリザヴェータの真意を探って、その結果は宰相に報告しておきながら。その結果を受けた宰相は、王妃に動いてもらうよう頼みに行く。
巡りめぐって、結局はメイベルがすべて引き受けるしかないのだ。
ヴァローナ宮廷にとって、王妃メイベルはすでに欠かせない存在となっている。