女難は続く (1)
ルスラン王は一人、執務室をウロウロしていた。いまは宰相も席を外しているので、本当に一人きり。
心ここにあらずといった様子であてもなくうろついていたが、部屋の扉をノックする音が聞こえると、素早く自分の机に戻り、平静を装って真面目に書類に挑んでいるふりをした。
「失礼いたします。宰相から手が離せないので陛下に届けてほしいと、使いっ走りを頼まれまして――」
書類を手に、陸軍大将アンドレイ・カルガノフが執務室に入ってくる。
宰相はルスラン王の執務室で仕事をすることが多いのだが、一応自分用の執務室もあり、そちらで仕事をしていることもあった。
……というか、本来はそれがヴァローナ宰相のあるべきやり方である。
デスクワークが苦手なルスランはどさくさ紛れに書類を宰相に押し付けたり、一人にするといつの間にか逃げ出していたりと……効率と監視を考えると、宰相も王の執務室で仕事をしたほうがいいという結論になっただけで。
ルスランは平時と変わらぬ姿を取り繕って、将軍アンドレイから書類を受け取る。
受け取りつつ、ちらりと将軍の様子をうかがった。
「……君は、ラリサから何か聞いたか?」
「いえ、特に何も」
ルスランが何を気にしているのか分かっているくせに、将軍も素知らぬ顔で、いつものように仕事に励む……ふりをしていた。
「ああ、ですが。そろそろ診察も終わる頃だったかと。ラリサも、私より先に陛下に知らせに来ることでしょう」
「うむ……。そうだな」
早く知りたくて自分から向かいそうになるのを、ルスランは抑えていた。机の下で、足がソワソワとしている。
だからさっきまで、落ち着かなくて歩き回っていたのだ。だったら行けばいいのに、と。宰相ガブリイルあたりが見ていたら、そう言っていたことだろう。
内容など頭を素通りしていたが、ルスランが書類に目を通すふりをしていたら、また部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。入れ、とまた平静を装って答える。
入って来たのは、王妃付き女官のオリガだ。彼女の姿を見た途端、ルスランは椅子から立ち上がりそうになった。
「王妃様の診察が終わりました。侍医の見立てでは、ご懐妊されたのだろうと」
「そうか」
ルスランが言い、空気椅子状態になっていたのをすくっと立ち上がった。
おめでとうございます、とオリガ、将軍アンドレイが声を揃えて言った。うむ、とルスランが答える。嬉しさで顔がニヤけてしまいそうになるのを、咳払いで誤魔化した……。
「……先生の推測が正しいのであれば、王妃様が受胎なさったのは三ヶ月ほど前……。メバロータの城から戻って、まだ王妃様にはご療養に務めて頂いていた頃でございますね」
オリガの指摘に、ルスランは変な咳が出てしまった。硬直し、視線だけオリガのほうを向けてみれば、オリガは女官として完璧な礼儀作法で振る舞いながらも、王を見る目が非常に冷たい。
将軍は、そんな二人を見て苦笑している。
「王妃のところへ行ってくる」
オリガの視線から逃げるように、ルスランは扉へと急いだ。それがよろしいかと思います、とオリガは言ってルスランを見送り、将軍アンドレイも王に同行した。
「……メイベルから、ちゃんと許しはもらった。彼女から誘ってきたんだぞ。私はちゃんと我慢したし、彼女を気遣った」
「その言い訳は、ラリサたちの前ではおっしゃらないほうが賢明です。私個人としては陛下に肩入れしますが、私の援護など、彼女たちの前では吹き飛んでしまいますからな」
「女官たちが王妃に忠義を尽くすのは当然のことではあるが……いささか、私が蔑ろにされ過ぎではないか?」
将軍は苦笑いで誤魔化して、返事をするのは止めておいた。
……やはり、王妃目線で見れば、王はろくでもない夫ではある。かなりメイベルの寛大さに甘えているのは間違いない。
王妃メイベルは自分の部屋で侍医からの診察を受けていた。
ルスランが到着した時、ちょうど侍医が部屋を出て行くところで、王を見て頭を下げた――そして、改めて王妃の懐妊を告げる。
ルスランは大きく頷き、メイベルに呼びかけて部屋に入った。
「ルスラン」
メイベルは部屋に入ってすぐの、部屋の真ん中にある長椅子にゆったりと腰かけ、部屋に入って来たルスランを見て幸せそうに微笑む。
その笑顔を見ていたら、女官たちに白い目を向けられるなんて些細なこと、どうでもよくなってしまう。
侍医から聞いた、とルスランは言い、長椅子に腰かけるメイベルの隣に座って、彼女の手に自分の手を重ねた。
「素晴らしい知らせだ。生み月まで、君は自分の身体を労わることに専念してくれ」
「うん。大事に守り育てて、必ず元気な子を産むから――私、とても幸せよ」
そう話すメイベルの笑顔は輝いていて。
こんなにもはっきりと感情を表すメイベルを、初めて見た。本当に嬉しいのだろう……ルスランも、愛しくて堪らなくて彼女をそっと抱き寄せた。
ラリサを始め女官たちは静かに頭を下げ、部屋を退出する。
しばらくの間、ルスランとメイベルは二人だけで、命を授かった幸せに浸っていた。
ルスランの子を授かることは、結婚して以来、メイベルが最も望んでいたことである。
ついにそれが現実となって、ルスランにも喜んでもらって。
女官たちや、宰相、将軍……多くのヴァローナ貴族たちからも祝われ、ハルモニアからも両国を繋ぐ証として喜ばれたが。
王に寵愛され、王の子を生む。
順調に権勢を増していくメイベルに、危機感を抱く者も少なくはない。メイベルを危険視しているというか、もともとルスランに対して思うところのある人間たちから、メイベルも疎まれているというか。
「ハルモニアの女がヴァローナ王の子を生む。ヴァローナ王は、さらにハルモニア側を贔屓するようになるのではないか……」
「古き良きヴァローナ人たちを排して、ハルモニア人が乗っとるつもりだ……」
ヒソヒソと。
一見メイベルの目を避けるようなふりをして、その実はメイベルにわざと聞かせるように、陰でそんなことを言い合うヴァローナ貴族を何度も見た。
嫁いできてからそういった陰口も、視線も……感情も、数えきれないほど見てきたのだが、メイベルの妊娠によって頻度が激増し、ヒソヒソ声も大きくなった気がする。
自分が何も言わないのも、彼らを増長させてしまう要因の一つなのだろうな、とメイベルは冷静に受け止めていた。
「まったく!あんなの胎教に良くありません!ラリサ様、アンドレイ様におっしゃって、王に告げ口しちゃいましょうよ」
メイベルが三人娘と勝手に命名している若い女官のうちの一人ミンカが、王妃の部屋に戻るとぷんすかしながら言った。感情豊かで素直なところが、若い女官たちの特徴だ。
女官長のラリサは、おっとりと落ち着いて、若い女官をなだめている。
「気持ちは分かるわ。私もそうしてやりたいのは山々だけど……間もなくそばを離れてしまう私は、無責任に引き受けるわけにはいかないの。夫を焚きつけておきながら、自分で王妃様をお守りすることができないもの」
「ラリサは何も気にせず、ゆっくり赤ちゃんと過ごしてきて」
メイベルも口を挟み、やんわりとたしなめた。
ラリサはメイベルがメバロータ城から戻ってくるよりも先に出産を終えていたのだが、大変な目に遭ったメイベルのため、生まれたばかりの子を実家に残して女官の仕事に従事していた。
メイベルの妊娠が分かって、安定期にも入る。それを機に、メイベルはラリサに短期間の暇を与えた。すっかり遅くなってしまったが、しばらく母親業に専念できるように。
子が生まれたら、メイベルはラリサを乳母として任命するつもりだ。すでにルスランやラリサ本人にも了解は取ってあって、その間の女官長代理の役をオリガにすることも決まっていた。
オリガは恐縮し、乳母の任を終えたラリサが戻ってくるまで、と念を押して引き受けてくれた。
こうして、外野の思惑は聞き流すようにいっそう努めて、メイベルは生まれてくる我が子のための準備を進めていた。
――王妃を軽んじる貴族たちを放置すべきではない、と女官たちが憤ってくれるのを、有り難くもどう対応すべきか悩みながら。
最初に起きた問題は、アントニーナ・コヴァレンコという令嬢だった。
父親のコヴァレンコ氏はヴァローナ貴族の中でも比較的新参者で、血気盛んで早合点しがちなところがあり……ヴァローナ宮廷での振る舞いというものが、よく分かっていないところがある。
娘も父親の良くないところをしっかり受け継いでしまったようで、こともあろうに、王妃のメイベルに直接対決しに来てしまった。
「王妃様は陛下の閨の相手は私にお任せして、みっともないお姿を晒さぬよう努めるべきですわ。陛下の子を生むという大事がありながら、母であることを疎かにして女として振る舞いたがるなど、言語道断です!」
開いた口が塞がらぬレベルの不敬っぷりに、怒りっぽいミンカたちですら唖然としていた。
周りで野次馬していた者たちも、ド直球過ぎて焦っている。
メイベルは……表情が出にくい自分の癖に感謝しつつ、その夜、ルスランの寝室を訪ねて夫に短剣を振り下ろしておいた。
メイベルの腕を抑えながらも、妊婦相手とあっては無茶ができないルスランは、じりじりと圧されながらメイベルに尋ねた。
「……頼む。僕が何をしてしまったのか、せめてヒントをくれ」
ルスランも、メイベルにこうされるだけの心当たりはあるらしい。
あり過ぎて理由が分からないとか……それだけで、メイベルは夫をブスッとやってしまってもいいんじゃないだろうか。
「アントニーナ・コヴァレンコ」
メイベルが名前を言うと、ああ、とルスランが合点がいったような相槌を打った。
分かったなら大人しくやられなさい!とメイベルが怒れば、ルスランが反論する。
「待った。今回ばかりは誤解だ――本当に。釈明させてくれ」
メイベルはじっとルスランを見つめた。
ルスランはメイベルを真っすぐに見つめ返し……浮かぶ色も、真剣そのもの。メイベルは短剣を振り下ろそうとしていた手の力を緩め、一旦落ち着いて、ルスランと向かい合った。
ベッドに座るメイベルの前にルスランも座り、メイベルに言い聞かせるように話し始めた。
「君が妊娠中で僕の相手をできない間、コヴァレンコは自分の娘を愛妾にすすめてきた……が、僕はきっぱり断っている。別解釈の余地もないほどはっきり断ったのだが、やつは自分に都合のいいように謎解釈しているように見えた――娘もそれを真に受けて、君に愚かなことを吹聴したのだろう。それぐらいは容易に想像できそうな父子だった」
ルスランがため息をつき、話を続ける。
「娘のほうも君に不快な真似をすることを予見して阻んでおかなかったことだけは僕の落ち度だが、君が想像しているようなことは何もないし、何もしていない。それだけは僕も無実だ」
黙ってルスランを見つめていたメイベルは、小さく頷く。そして、持っていた短剣を収めた。
……ルスランの言うことが真実なのは、実は彼が釈明する前から、薄っすら分かっていた。




