出会い (2)
「ねえねえ、メイベル様って、どんな方なの?」
広い宮廷の片隅で、若い女の声が響く。
当人たちはヒソヒソ話のつもりなのだろうが、女が三人と書いて姦しいとはよく言ったもので、その声は数十メートル離れた場所にまで余裕で届いていた。
「ナイフで陛下を殺そうとしたんでしょう?ヤバい女なのかしら」
自分たちの主が命を狙われたというのに、若い女官はのんきなもので、目を輝かせて別の女官に詰め寄っている。
王妃の入浴を手伝った女官は、うーん、とうなった。
「私たちには優しくて物腰柔らかな女性だったわよ。表情や口調が淡々としてたから、最初はちょっと怖かったけど」
行儀見習いも兼ねた宮廷勤めだというのに、彼女たちの言葉遣いや振る舞いはおおよそ貴族の子女らしからぬもののまま。
仕えるべき主人が不在なのをいいことに、女官長のラリサが甘やかしているせいもある。王妃の誕生で、少しは変わればいいのだが……。
「それに、陛下のことも本気でどうこうするつもりはなかったみたい」
「えー、そうなの?思いっきりブスッとやろうとしてたって聞いたけど」
仲間の言葉に、王妃の入浴を手伝った女官が、王妃と女官長のやり取りを語った。
「ヴァローナ王を本気で殺すつもりなんてなかった。というか、殺せないでしょ。あんなちっぽけなナイフと、私のこの細腕じゃ」
入浴の世話をするラリサに向かって、特に表情を変えることもなくメイベルが話す。
不敬極まりない質問だと分かっていたが、これから彼女を主君として仰ぐ以上、女官長も王妃の真意を確認する必要があったのだ。
……思ったよりもすんなりと、メイベルがラリサたちヴァローナ人の世話になることを受け入れている様子なので、その違和感につい口にしてしまったのもある。
昨夜、間違いなく彼女はヴァローナ王を殺そうとしたはずなのに。そんな悲壮な雰囲気を微塵も感じさせず、メイベルは大きな風呂を堪能し、寛いだ様子だ。
「では、なぜ……?」
恐るおそる、メイベルの反応に気をつけながらもラリサは踏み込む。湯に浸かるメイベルは、大きくため息を吐く。
「腹が立った……から?」
「は」
メイベルの答えに、ラリサは目を瞬かせる。うーん、と唸り、メイベルも答えを考えているようだった。
しかし、その表情は淡々としていて平静そのものだ。
「私も人間だから。自分の感情を完璧に抑えられるわけじゃないもの」
風呂場での王妃の話を聞き、女官の一人が「えーっ」と非難じみた声を上げる。しかし、もう一人は王妃の気持ちに同調したようだ。
「私は王妃様のお気持ち、分かるけどなぁ。ルスラン陛下って、私たちにとっては素晴らしい王様だけど、王妃様からすれば顔も初めて見るような相手でしょ?自分の国を荒らした侵略者で、お兄様だった王を殺した敵で、おまけに無理やり手籠めにされて」
事実を並べる同僚の話を聞き、王妃を非難するような態度を取っていた女官も眉間に皺を寄せる。王妃の立場で考えれば、自分の主君のほうが非難されるべきかもしれない、と思ったのだろう。
もう一人も、相槌を打つ。
「そうねぇ。私でも、王妃様の立場だったらブスっとやっちゃうかも」
「むしろブスっと一発で許してくれるんだったら、優しいぐらいじゃない?」
アハハハ、と女たちの賑やかな笑い声が廊下中に響き渡り、我慢しきれず咳払いする。
不敬極まりない不遜な内容に、騒がしさ……どれもこれも、許容範囲をとっくに超えている。
オリガの存在に気付き、三人の女官たちは大慌てで、そそくさとそれぞれの持ち場へ向かっていった。
それを険しい表情で見送り、オリガも改めてヴァローナ王ルスランの執務室へ向かう。
重厚な扉をノックすると「入れ」と短く返事があった。失礼します、と部屋に入れば、ルスラン王の他に、宰相と将軍がオリガに振り返った。
「王妃様がお目覚めになられ、一通りのお世話も終わりましたので、ご報告に参りました」
色々と疲れているだろうから、ゆっくり休ませてやれ――王にそう命じられ、オリガたちは王妃が自然と目を覚ますのを待つことになった。
……この城に来るまでのメイベルの苦労と心労を思えば、休養ぐらいはさせてあげるべきだ、という意見にはオリガも同意だった。
夜更けにルスラン王を襲った時にはヒヤリともしたが、王があっさり反撃を見抜いて封じ込め……理解できないが、王は彼女をいたく気に入ったようなので、介入はやめておいた。
さっきのやかまし三人娘ではないが、復讐心を抱くメイベル王妃の気持ち自体は分からないでもないし。
そうしてメイベルが目を覚まし、彼女も身なりを整えて朝食を終えたので、オリガの朝の仕事も一旦終わった。すでに昼とも呼べる時間だが、それはさておき。
王に一度、王妃の様子を報告する義務があると考え、オリガはここへ来た。ルスラン王もそれは察しているようで、オリガが部屋を訪ねてきた理由を問うことはなかった。
「王妃様は取り乱すご様子もなく、落ち着いていらっしゃいます。いまは、ラリサ女官長を連れて、王城内を見て回っておいでです。陛下から、王妃様の希望には可能な限り沿うように命じられておりましたので、お止めしませんでしたが――」
「もちろん、その対応で構わない。ラリサがついているなら問題ないだろう」
ルスラン王は笑って頷く。
宰相が眼鏡のレンズ越しにもハッキリわかるほど彼を睨んだが、すでに慣れっこのルスラン王は宰相の視線など完全に無視していた。
「王妃様から、待遇についてのご不満は特に出ておりません。ただ……結婚した実感はわかないと仰せで……」
さすがのオリガも、最後は少し言葉を濁してしまう。
こればかりは、ルスラン王のほうに非があると認めるしかなくて……。
「式も挙げず、強引な既成事実を結ばせただけ――とても王族同士の結婚とは思えぬ扱いでしたからなぁ。それこそ、メイベル様が陛下に短剣を振り下ろす程度で済ませてくれただけでも、寛大な対応と申しますか」
将軍がからかうように言い、王は苦笑いする。宰相は、笑いごとではない、と言わんばかりに両者を睨んで眉間に深い皺を刻み付けた。
「我々は万全の準備を整え、陛下がメイベル様を大聖堂へお連れになるのを待っていたのですがね。まさか、あそこまで見事にすっぽかされるとは」
「もうその話は聞き飽きた。おまえは朝からずっと、そればかりだな」
当たり前だろ!と即座に反論したかったのを、宰相は懸命に堪えているに違いない。目はキリキリと吊り上がり、心なしか、ビシッと揃えられた髪が逆立っている。オリガですら、抜け抜けと言い切る王に咳払いしてしまった。
「仕方ないだろう。揺さぶりをかけるだけのつもりが、ちょっとやそっとでは動じない女だったのだから。おかげで、彼女の素顔も見ることができた――おまえたちだって、ハルモニア側の真意は気になっていただろう」
「それはそうですが……」
宰相は額をおさえて大きくため息をつく。
……昔から、この男には口喧嘩で勝てた試しがない。口の減らない幼馴染に頭を抱えた回数は、とっくに数えるのをやめていた。
部屋に控えめなノックが響いて、宰相の小言は完全に中断されることになった。入れ、とルスラン王が返事をすると、少し間をあけてメイベルがそっと顔をのぞかせた。
「あの……ラリサがここも入って大丈夫だって言ってくれたけど……」
「何も問題はない。君は私の妻だ。王妃が王の執務室を訪ねることに、制限などあるはずがない」
にこやかに話すルスラン王をじっと見つめた後、メイベルはそろそろと部屋に入ってくる。女官長のラリサも、メイベルのあとから入って来た。
メイベルはぐるりと部屋の中を見回して、視線をルスラン王に戻す。
「ごめんなさい。お仕事の邪魔をするつもりはなかった……珍しい装飾が多いのが気になって、お城の中をちょっと見て回りたかっただけだったのに」
「問題ないと言っただろう。君はすでにこの城の女主人なのだからな。君の好きなように見て回ればいい――来てくれたついでだ。彼らを紹介したい」
ルスラン王が言い、重厚な机を挟んで王の前に立つ宰相がメイベルに振り返り、部屋の隅にある長椅子で寛いだように座っていた将軍も立ち上がった。
「こっちの堅物そうな眼鏡が宰相のガブリイル・エリシナ。何かと戦の多い私に代わって、城と国都の留守を引き受けることも多い。君とも接する機会が多くなることだろう。そっちの頼りなさそうな老け顔が陸軍大将のアンドレイ・カルガノフ――こんな顔だが、私やガブリイルとは幼馴染の同い年だ」
「無礼にもほどがありますぞ、陛下」
アンドレイ・カルガノフと紹介された将軍は、苦笑しながら反論する。宰相ガブリイル・エリシナはメイベルに向かって頭を下げていた。
「本来ならば我々のほうから赴き、王妃様にご挨拶すべきところを……礼儀を欠きましたこと、どうぞお許しください」
「いいえ。私もすっかり寝坊してしまったので」
メイベルが静かに頭を振る。それから宰相と将軍をじっと見つめ……二人のほうが、自分たちに向けられる視線にちょっと困惑していた。
「アンドレイはラリサの夫でもある。よくここにサボりにも来ているが、こいつに用があれば彼女に頼むといい」
メイベルはちらりとラリサに振り返り、女官長は笑顔で頷く。メイベルも王に振り返り、素直に頷いていた。
「私……ハルモニアにいた頃も、政務のことは兄に任せきりで何もしてこなかった。王妃と言われても、何の役にも立てないかも」
「ならば君のために、教師も手配しておこう。ヴァローナの王妃となった君は、この国の歴史を学ぶ必要もある――この城のことを知るのも、大事な学びのひとつだ」
「うん。私、もう少し他のところも見てくる」
さり気なく促してくれるルスラン王の誘いに乗って、メイベルは探索を続けるべくラリサを連れて部屋を出て行った。
メイベルを見送り、将軍がニヤニヤと笑った。
「ハルモニアの鈴蘭姫と呼ばれているだけあって、美しくも可愛らしい姫ですな。表情の起伏が乏しいのは気になるが……うらやましいことで」
旧友ならではの気安さで将軍がからかい、ルスラン王も意味ありげにニヤリとする。宰相はそんな二人に冷めた視線を送りつつ、王妃が出て行った扉を見ている。
「鈴蘭と言えば、その可憐さに反し、毒を持つ花として有名ですが」
宰相の言葉に、女官のオリガがかすかに顔色を変える。しかし、ルスラン王は愉快そうに笑うばかり。
「正体がよく分からんという皮肉からつけられただけだろう。王妹メイベルと言えば、ハルモニアの箱入り姫として、国はおろか城からもほとんど出たことがないことで有名だからな。本人はかなり好奇心が強いようだが……人をじっと見つめる癖は健在らしい」
「面識がおありに?」
意外そうに将軍が聞き、ああ、と王が頷く。
「コルネリウス王即位の際にハルモニアに赴いて、そこで顔を合わせた。十年も前のことで、少し話をした程度だ。向こうも覚えているかどうか」
あの時はヴァローナだけでなく、近隣諸国から新王を祝いに来ていた。ルスラン王は客の一人にしか過ぎず、メイベルがすっかり忘れてしまっていても――記憶に残ることすらなかったとしても、何の不思議もなかった。