氷は砕けども (2)
メイベルを助け出したルスランが王城に戻って数日。
執務室でイヴァンカの皇帝から送られてきた親書を読むルスランは、眉間に皺を寄せて不機嫌丸出しの表情をしている。
手紙を無造作に机上に置き、沈黙して王の反応を見守っていた宰相、将軍に向かって言った。
「あの贈り物は、私たちへの結婚祝いだそうだ。前にも渡していたから、今回は直接渡さず、王城へ送り届けさせていた――という説明がこれには書かれている」
「口止め料ということですね」
宰相があっさりと言い、そういうことだな、とルスランが相槌を打つ。
「ダリヤ・フォミーナが我が国でヴァローナの一領主を殺害したことも、ヴァローナ王妃への蛮行も、これでなかったことにしろということだ」
「陛下の苦々しい思いも理解致しますが、こちらにとっても利はございます」
将軍は肩をすくめて見せ、王に言った。
「イヴァンカ皇帝の御妹君に、陛下は明確な意思を持って危害を加えておりますから。それを口実に、イヴァンカはこちらを責めることもできた。イヴァンカ皇帝の言い分は要するに、自分たちのことを見逃せ、というのと同時に、こちらのことも見逃してやる、ということでもございます。王妃様には気の毒なことながら、我々としては助かりました」
将軍の言ったことにムスっとしながらも、王も反論しない。将軍の言うことが正しいと、彼も認めるしかないのである。
メバロータ城まで乗り込んで行って、メイベルを取り戻したのだから逃げることに専念すべきだったのに……。
「陛下にしては、珍しいことです。イヴァンカに手出ししてはならぬと、常に耐えてきたというのに」
宰相ガブリイルが言った。
「衝動的にやらかしてしまったことは認める。いい加減、私も我慢の限界で、これまでの鬱憤晴らしにあの女に八つ当たりしてしまったところはあった」
「というよりも、愛しい王妃様の涙に突き動かされたのでは。陛下にどのような目に遭わされても気丈に振る舞われる王妃様が、あのように泣いているお姿を見ては……お気持ちはよく分かりますよ」
訳知り顔でニヤニヤと、将軍アンドレイが話す。なるほど、と宰相もニヤっと笑った。
「陛下にも、女性の涙に突き動かされ、感情的になるなんてことがあったのですか」
ルスランはまたムスっとなってだんまりを決め込んだが、メイベルがここにいたら、自分の感情を見抜かれてしまっていたことだろう。
……今日は執務室に呼ばなくてよかった。
「からかうのはこれぐらいにしておきましょうか。あまりこの話を持ち出すと、かえって王妃様がご自分のせいだとお気に病まれるでしょうし」
将軍アンドレイが言い、ルスランも頷いて話題を変える。
「メバロータの者たちには、こちらからも見舞いと援助を。城主の葬儀には私も赴くつもりだ。ヴァローナ王として、仰々しく向かうことはできんが」
メバロータ城主を手にかけたのは、ダリヤ・フォミーナだ――もちろん、直接の実行犯は彼女の部下の誰かである。
メバロータ城にいるメイベルに近づくため、城へ入る口実を作るために城主を攻撃し、善意の第三者を装って負傷した城主を城に送り届ける。そして彼女の思惑通り、まんまと城に入り込んだ。
突然のことで城内は混乱し、なかなか医者も城主の遺体を検めることができずに城主の傷が人為的なものであるという結論を出すまでに時間を要してしまったが……。
王都に戻るまでの道中、ルスランはメイベルに、そのことも話した。話さずとも、きっと彼女はなんとなく見抜いていただろうが、それだけにきちんと説明しておく必要があると、ルスランはあえて真実を伝えた。
すべてを聞き終えたメイベルは、悲しそうにしていた――表情の起伏が乏しい彼女だが、わずかに見せる感情の揺れがかえってメイベルの美しさを引き立てていて……抱きしめて、そのまま押し倒してしまいたくなる衝動を堪え、ルスランは妻を優しく慰めるだけに留まった。
「ルスラン。メバロータの人たちのこと、怒らないであげて。私のせいであんなことになって……あの人たちも被害者なの」
「彼女たちも被害者だというのは私も同意だが、彼女たちがもっと早く我々に助けを求めていれば、とうに解決していたことでもある。敵地に放り込まれたというならまだしも、あの城のことは彼女たちのほうが詳しい――ダリヤ・フォミーナを出し抜く方法など、いくらでもあったはず」
メイベルは真っ先にメバロータ城主の奥方をかばうが、ルスランもそれで憤りを消せるわけではない。
結局、最後までメバロータ城主の奥方はオロオロするだけで、メイベルの助けにはならなかった。
「夫を亡くして、子供まで人質に取られて……混乱してしまうのも当然よ。しかも相手はイヴァンカ皇族。自分の行動次第で、ヴァローナとイヴァンカが戦争になりかねない……判断を下すには、あまりにも重すぎる」
だから、と。自分を抱きしめる夫の腕の中からルスランを見上げ、メイベルが言葉を続ける。
「彼女を許して、憐れんであげて。お願い」
他ならぬ被害者本人からそう言われては、ルスランも折れるしかない。
優し過ぎるのも問題だな、とルスランがこぼせば、将軍と宰相はまたニヤニヤ笑いしてきた。
「……つまり、我々が考えていた以上に、陛下は王妃様にベタ惚れだと」
「いやいや。良いことではないですか。ラリサに言えば、ニコニコしながら聞いてくれそうです」
「余計なことは言わんでよろしい」
こうしてヴァローナ側は黒雷の意向通り、今回のメバロータ領での一件について何もなかったように振る舞うこととなったわけだが。
イヴァンカ皇帝ミハイルは、フォミーナ侯爵領に逃げ帰った妹を訪ねていた。
「お前なら絶対にそうするだろうとは思っていたがね。少々、やり過ぎだ。詰めの甘さに、私も少し腹を立てている」
皇帝ともあろう自分が、妹の尻拭いをしてやらなくてはならない。帝都でこの一件を聞かされて、ヴァローナに借りを作るような真似をさせられるとなって……ミハイルはちょっと荒れた。
「ごめんなさい、お兄様。あそこまでなりふり構わずヴァローナ王が妻を取り戻しにくるとは思わなくて。ヴァローナも、面白いものを持ってるわね」
対面する妹は悪びれない。一応、言葉ではしおらしく振る舞っているが。
「メイベルもルスランも、なんて素敵なのかしら。私をこんな目に遭わせる男は初めてよ」
上着を脱ぎ、むき出しになっている右肩を撫でながらダリヤが言った。右肩には包帯が巻かれていた――右肩を貫かれた熱と痛みを思い出して、ダリヤは恍惚としている。
「今度はルスランに抱かれながら、あの男の首を切り落としてやりたいわ。それからその首の前で、メイベルを壊れるまで抱くの。お兄様のお気に入りでさえなければ、すぐにでもそうしたい」
「ヴァローナ王への手出しは許さないよ。いまはまだ、ね」
ルスラン王の野心の強さはミハイルもとうに気付いているが、しばらくは好きにさせておくつもりだ。
そういう男が一人ぐらいいてもいいし、いまは使い道もある。始末してしまうのは、もう少し、あの男の夢の果てを見てからでもいい……。
分かってる、とダリヤは美しく微笑む。
「でも、お兄様。ひとつだけ言っておいてあげる――メイベルは間違いなく何か持ってるわよ。こちらの本性を見抜く何かを」
メイベルは、ダリヤの真意を見抜いて、確信すら持っているようだった。察しがいいとか、単なる洞察力や観察眼では説明がつかない。
皇帝ミハイルが、ずっと気にしていたこと。
「お兄様はどこにでもいるありきたりな女だとおっしゃってたけど、私は稀有な女だと感じたわ」
「お前に殺されることなく生き延びたということは、そうなんだろうね」
どこにでもいるありきたりな女だったら、一日で飽きたダリヤにあっさり殺されていたはずだ。ルスラン王が助けに来る余地もなく。
ダリヤに殺されることなく生き延び続けた――それだけでも、ミハイルの興味を引いた。
初めて会った時に強く惹かれた少女。二度目の対面で、ただの買い被りだったかと失望したが……ここに来てまた、メイベルという女にイヴァンカ皇帝の関心が向き始めていた。
王城に戻ったその日から、メイベルはルスランの寝室を訪ねてはいたものの、伽は控えていた。
いまも、二人でベッドに横になっているものの、ルスランは妻を抱き寄せるだけで手出しはしていない。まだ、メイベルの体調は万全ではないし……。
「……ルスラン、する?」
ルスランの腕の中でもぞもぞと動き、ルスランを見上げ、メイベルがおずおずと尋ねる。
無理はしなくていい、とルスランは彼女の額に口付けた。
……本当はもっと違う場所にキスしたいのだが、それをすると自分が抑えられなくなりそうなので、いまはそれが限界だ。
なのに、メイベルはルスランの背に腕を回して……柔らかい身体を、自分にすり寄せてくる。
「お医者様からはもう大丈夫と言ってもらってるから、私なら大丈夫よ」
すぐに返事をすることができず、ルスランは黙り込み、しばらくの沈黙の後、メイベルを見下ろした。
「……本当にいいのか?」
うん、とメイベルが頷く。
それでもまだ、ルスランは悩んでいるようだ。
王城に戻った時、ラリサからきつく言われてしまったのだ――女性が相手とは言え、メイベルは数日間、暴行を受けた。身体はもちろん、心にも傷を負っている。しばらくは性的な接触を控えて、メイベルが落ち着くのを忍耐強く待ってほしい、と。
オリガや双子の女官たちも強く同意し、ルスランに王妃を労わってあげて、と詰め寄られた。
……メバロータ城での一件以来、王妃付き女官たちはすっかり王妃親衛隊と化してしまった。
メイベルよりルスラン寄りであったはずのオリガですら、いまはメイベルに心酔している。
ラリサたちの迫力に怖じ気づいたわけではないが……決してそんなことはないが、ルスランは彼女たちの主張ももっともだと受け入れ、メイベルに手を出さないようにしていた。
だから……正直、限界ではある。
可愛い妻が毎晩そばにいて……自分は十分我慢した。本人が良いと言っているのだから、もういいのでは。
じっと自分を見下ろすルスランに、メイベルがちょっと困ったように眉を寄せる。
「あの……でも、実は、まだ傷跡が残ってて。ルスランをがっかりさせちゃうぐらいなら、それが消えるまではやっぱり……」
みなまで言わせることなく、ルスランは強引に唇を塞ぐ。メイベルは驚いていたが、すぐにルスランを受け入れ、夫の求めに応じた。




