脱出路 (1)
残されたオリガは、ニラムと共に傷だらけのニタクの手当てをしていた。
部屋には、ダリヤ・フォミーナの使用人兼部下の男たちも残っており、オリガたちが要求すれば薬も水も、速やかに用意してくれた。
ただし、彼らの主人がどこへ行ったのか――メイベルをどこへ連れて行ったのか、何が目的なのかは一切話さない。
愛想よく礼儀正しく振る舞っているが、隙ひとつ見せることなく自分たちを見張っていることは、オリガにも分かった。
……メイベルの言う通り、すぐに全員で城を出るべきだった。
清潔な布でニタクの血を拭い、薬を塗って、包帯を巻きながら。オリガは、王妃の主張をはねのけてしまったことを深く後悔していた。ニラムはぐずぐず泣きながら双子の片割れの世話をしている。
独断で行動してしまったから、ダリヤ・フォミーナが付け入る口実を与えてしまった。
城主の奥方に許可を取って城の者を護衛につけていれば、さすがのダリヤも自分たちに手出しできなかったはず。双子の女官たちを強く止めておかなかったことも後悔したが、ダリヤの危険性を甘く見ていた……目下の者への配慮も忘れない王妃が、あんなに強く主張する理由を、もっと真剣に考えるべきだった……。
ニタクの手当てが一通り終わっても、オリガたちは自分たち用の客室に戻らずじまいであった。
この部屋にも十分なベッドはあるし、見張り付ではあるが、大人しくしていれば危害を加えてくることもなく、ある程度の要求には応えてもらえる。王妃を置いて、自分たちだけで部屋を離れる気になれななかったのだ。
ニタクのために食べやすく栄養のあるものが欲しいという要望を出した後は、オリガもニラムも一言も話さず、部屋の中でじっとしていた。
水と少しの食事を口にすると気絶するように眠ってしまったニタクを世話する以外は、本当に、二人とも身じろぎひとつせず彼女が眠るベッドのそばの椅子に座り込んでいた。
そうして待ち続けて明け方頃、メイベルが一人で戻って来た。少しフラついているが、自分でちゃんと歩いていて……ニタクのように、目に見えて明らかな傷もない。寛衣に近いドレスを着ていたはずが、薄手の上着を羽織っただけの肌着姿になっているが……。
戻って来たメイベルは、すぐにベッドに横たわる女官のもとへ駆け寄る。
「怪我の具合は……?」
「いまのところ、命に別状ありません。裂傷が多く、一部は傷口の深いものもございますが、致命傷は避けて攻撃されたようです」
説明しながら、わざと見た目に派手な個所を狙ったのだろう、というダリヤの真意をオリガは察していた。死んでも構わないぐらいのやり方ではあるが、本来の狙いは別にあって、ニタクのことはあくまで成り行き。
だから、真のターゲットであるメイベルは、もっと恐ろしい目に遭うだろうと青ざめていたのだが……。
「ニラムはニタクのそばにいてあげて。私は……ごめんなさい、少し休みたい……。オリガ、着替えを手伝って」
王妃が戻ってきても元の部屋に戻らないだろうという予感はしていた。
だから彼女がこの部屋で休むことを考え、王妃用のベッドは部屋の奥にさらに移動させ、少しでも見張りの男たちの視線を遮ろうと衝立も置いておいた。この判断は正しかったと、メイベルの着替えを手伝うオリガは痛感した。
服を脱いだメイベルの肌には、血でにじんだ噛み跡と……情事のような跡がついている。
思わず動揺を顔に出してしまったオリガに、メイベルは静かに自分の唇に指をあて、沈黙するよう指示を出した。
「……ダリヤ様が、綺麗にしてあげるとおっしゃってくださったのだけれど……自分の配下の人たちにやらせようとするので、それが嫌で……」
ダリヤの部下兼使用人たちは、全員男だ。王妃が、ルスラン王以外の男に肌を触れられるのが嫌だと拒むのも当然である。
双子の女官たちには気付かれぬようにまた水と薬を用意して、タオルでメイベルの肌を清めて……メイベルが、小さくオリガの袖を引っ張った。
ベッドに腰かけてスカートをまくり上げる仕草を見せた王妃に、オリガは改めて自分の甘さに打ちのめされた。
王妃の身の危険は考えていたのに、この可能性は完全に失念していた――相手も女性なのだから、王妃がそういう意味で穢されるという発想がなかった。
これは、生身の男を相手にしてできる跡ではない。オリガも未亡人で、男女の営みに関する知識はある。
下品な道具でも使わなければ、こんな傷跡はできない……。
「……ありがとう。私なら大丈夫。いまはダリヤ様も上機嫌で私を気に入っていらっしゃって……傷をつけるのは本意ではないみたい」
薬を塗り終えると、スカートを下ろしてメイベルが言った。
結局、メイベルは着替えなかった。どうせまた呼ばれるから、と寝衣に着替えることも拒否して、ベッドに横になって眠った。疲れ果てているのか、横になると数分と経たずに寝息を立て始める。
それから三時間ほどでダリヤが王妃を呼び出してきたので、メイベルはゆっくり休むこともできなかった。
ダリヤ・フォミーナの体力は、底なしだ――。
ダリヤがメイベルを自室に連れ込む時間はどんどん長くなり、メイベルが部屋に戻ってきて休む時間は短くなっていく。
自分の部屋で休んでいけばいいのに、とダリヤは美しい笑みを浮かべて残酷なことを言うが、途中でメイベルが気絶しても構わず自分の欲望を満たそうとする女がいては、身も心も休まらない。
ある時、気絶して目を覚ましたらダリヤの部下の男が自分の世話をしていたものだから、思わず悲鳴を上げてしまった。
あの時のダリヤの心底楽しそうな反応……メイベルが嫌がるのを見て、新しい遊び方を発見させてしまったらしい。以来、ダリヤは部下の男にも時々メイベルに触れさせている。
辛うじてメイベルの貞操はダリヤが独占しているが……飽きて、次の遊び方を考えるようになってしまったら……。
ダリヤ基準では、間違いなくメイベルは寵愛されているのだろう。いっそ発狂してしまって、彼女の歪んだ愛情表現を受け入れることができたら楽になるのだろうなとは思うのだが、彼女が見せる執着の色がメイベルに正気を保たせてしまう。
壊れてしまったおもちゃを、彼女は大事にするだろうか……。
ダリヤの呼び出しと寵愛は朝も夜も関係ない。天候は回復したのだが空を見る余裕もないメイベルは、時間や日付の感覚を失っていた。
メイベルがダリヤに囚われて三日が経ち、とうとう異変を見過ごせなくなった城主の奥方が、ダリヤに直接抗議にやって来た。
「フォミーナ侯爵。外にいる兵に、お戻りになるよう命じてくださいませ。天気も回復致しましたので、橋を下ろし、ルスラン陛下のもとまで王妃様を私たちでお送りいたします」
奥方はダリヤの顔色や機嫌をうかがい、言葉を選んで、なんとか説得しようとしているようだ。
ダリヤは笑顔で応対している――シーツを羽織っただけのメイベルも、ベッドの天蓋に身を隠しつつそっと二人のやり取りを見ていた。
「もちろん、彼らは引き上げさせるわ。ここはヴァローナ王国……イヴァンカ人の私たちが好き勝手していては、お兄様とルスラン王の友情に差しさわりが出るもの。お兄様はルスラン王もお気に入りだから、私が友情を崩壊させたとなったらお怒りになるわ……私も、さすがにそれは恐ろしいもの」
その台詞は、半分ぐらい嘘で、半分ぐらい本当だとメイベルは見抜いた。
イヴァンカ皇帝が本気で怒れば、妹が相手でも容赦がない――その一方で、ダリヤはそうなることも面白い、と感じているようだ。
「だからお兄様には、あらかじめ謝っておいてあるのよ。可愛いメイベルのもとに、しばらく遊びに行ってきますって。こうお願いしておくとね、お兄様が必ず迎えに来てくださるのよ。私がいつまでも遊ぶのを止めないことをご存知だから、自分が連れ戻すしかないって、分かっていらっしゃるのよね」
ふふ、とダリヤが笑う。
「お兄様が迎えにきたら、私も帰ることにするわ。その時にはちゃんと部下を引き上げさせるし、橋も下ろさせてあげる――あなたは」
ダリヤの言い分に奥方が反論しようと口を開きかけたのを遮り、ダリヤが強引に続けた。
「もっとお子さんたちのことを心配してあげるべきよ。可哀相に……お父様を亡くしたばかりなのに、お母様も城の者たちも構ってくれなくて、とても寂しそうだったわ。見かねたミエーリが相手をしてあげたら、すっかり懐いちゃって」
ミエーリというのは、きっと彼女の部下の一人だ。その名前を、メイベルはこの部屋で聞いたことがある。
「……言っている意味が、分かるかしら。あの子たち、今朝から姿が見えていないのでしょう?」
ここ数日の心労でやつれ、顔色も優れない状態であった奥方が青ざめた。ダリヤはまた笑い、自分の部下に視線をやる。
「お部屋に帰してあげなさい。ミエーリ、あなたもついて行って、子供たちのこと……安心させてあげるのよ」
長い髪を束ね、美しい彼女の部下たちの中でも中性的な出で立ちをした男が頭を下げた。ダリヤの部下たちに連れられ、奥方は自分で歩くこともままならぬほどヨロヨロとした足取りで、部屋を出て行く――ダリヤも、ベッドの影に隠れているメイベルのもとに戻って来た。
ダリヤから解放されてオリガたちが待つ部屋に戻ったメイベルは、いつものように手当てを受けて、短い時間を休息に努める……のだが、今回は眠ることなんてできなかった。
イヴァンカの黒雷が、ここに来てしまう。
メイベルを迎えに来たルスランと鉢合わせたりしたら、決して良い展開にはならない。また自分が、戦の火種になってしまう……。
「オリガ、ニタクの様子はどう?熱は……?」
「ニラムが看病をして、ずいぶん落ち着きましたが……まだ高熱が下がることなく……」
メイベルの身体を清めながら、オリガは歯切れ悪く答える。
傷がもとで、ニタクは二日前から熱を出していた。意識ははっきりしていて、自分のせいでこんなことになってしまって申し訳ない、と目を覚ますなりメイベルに真っ先に謝罪していた――メイベルが追い詰めてしまったことが原因なのだから、彼女たちは何も悪くないのに。
そうは言っても、メイベルも焦る気持ちを抑えられない。
時間が経つにつれ、自分たちの状況は悪くなっている。ニタクは自力で動くこともできないほど弱り、メイベルも、そろそろ身体がきつい……身も心も休めない日々が続いて、オリガもメイベルの衰弱を感じ取っていた。
ダリヤが語ったことがどこまで本当なのかは分からないが――彼女は嘘も真実も混ぜ込んだ曖昧な言い方をするものだから、メイベルの眼を以っても見抜けなかった。
でも、もし本当にイヴァンカの皇帝がこちらへ向かっているのだとしたら、早く城を脱出してしまわなくてはならない……。
食事を載せたワゴンが、メイベルの元へと運ばれる。オリガが給仕をして……給仕をするふりを続けて、そっとメイベルに囁いた。見張りの死角になるよう、衝立の内へとワゴンをさりげなく動かしながら。
「王妃様、ワゴンの中……」
給仕用ワゴンには高級な白い布がかけられており、視線を向けたメイベルに反応するかのように動いた。
ちらっと、白い猫が布の隙間から顔を覗かせる。
ファルコの飼い猫のバリーだ。猫は嬉しそうにワゴンから出てきてメイベルにすり寄り、じっと見上げてきた。
その姿は、自分の任務を理解しているようにも見えた。