狙われた王妃 (3)
結婚式が終わると、メイベルは先にカザコフの町を発つことになった。
本当はイヴァンカからの客を見送ってルスランと一緒に王都へ帰る予定だったのだが、共闘を持ち掛けられたことでルスランは皇帝ミハイルとの話し合いのために残るしかなくなったのだ。
戦のことは女のメイベルではできることもないし、下手に残って皇帝ミハイルと接触する機会が増えてしまうのも不安で、先に町を離れてもいいと言ってくれたルスランに甘え、メイベルは王都へ帰る支度を進めることにしたのだった。
と言っても、本当に王都へ帰ってしまうのではなく、カザコフの町から離れたメバロータという城に移動して、そこでルスランの合流を待ってから王都へ帰るのだが。
「道中、気を付けるんだぞ」
「ルスランも……。早めに迎えに来て」
本当はとても心細い。王妃が、そんなワガママを言って王を動かしてはいけないことは分かっているけれど。
なぜか今回だけは、ルスランと一緒にいられない不安を、メイベルはどうしても払拭することができなかった。
やっぱりイヴァンカの黒雷が恐ろしいというのもあるし、ヴァローナに来てからいつも一緒にいてくれるラリサやファルコも、いまは自分のそばにいないせいかもしれない。
「俺はメイベルと一緒にいたかったのに」
共にメイベルたちを見送る側にまざるファルコが、不満げに言った。ルスランがなだめる。
「不満も分かるが――私としても、本来ならば君はメイベルにつけるんだが、今回は残ってくれ。黒雷に会わせて君の腕前を披露し、提供額を釣り上げたい。こればかりは向こうの言いなりにはなっていられんからな。軍資金はしっかりふんだくってやる」
戦をすると決まった以上は、ルスランには存分に戦の準備をしてもらいたい。準備不足で負けたりしたら……ルスランたちに何かあったら。そちらのほうがよほど辛い。
だから、これぐらいのことは我慢だとも思わない……のだが。
「メバロータまで、メイベル様をしっかりお守りします」
ハルモニアの副宰相アルフレート・プロイスが言った。
ファルコまでカザコフの町に残ってしまうので、今回メイベルの護衛役を務めてメバロータの城まで送る役目を引き受けてくれたのは彼だった。
よく知っているハルモニアの兵が代わりの護衛を引き受けてくれるのは心強い。アルフレートは信頼できる相手で、メイベルも道中の心配はしていなかった。
ただ、彼はハルモニア人で、ヴァローナのことにいつまでも関わっていられるわけではない。
皇帝ミハイルに挨拶をしてからメイベルは出発し、ハルモニアの兵士たちに守られてメバロータの城まで短い旅をした。
旅はいっそ退屈なほど平穏そのもので、メバロータの城主とは、領地に入った途端に出くわしてしまった――彼も、メイベルを出迎えるべく城の兵士を伴ってここに待機していたらしい。
「ようこそお越しくださいました。陛下から知らせを受け、王妃様を迎えに参りました。ここから城までは半日もかからぬ距離。日が出ているうちに、到着しましょうぞ」
メバロータの城主は背が高く恰幅の良い、ルスランより少し年上かな、というぐらいの壮年の男性だった。愛想の良い笑顔は偽りではなく、彼はヴァローナと王と王妃に強い忠誠を向けてくれているらしい。見える感情の色からも、彼が好人物であるのは間違いなさそうだ。
「メイベル様。我々はこれで」
メバロータの城主と合流できたことで、アルフレートとは予定より早く別れることになってしまった。
ルスラン王がちゃんと事情を説明してメバロータ側の了解を取っているとは言っても、やはり異国人がヴァローナ王国内を闊歩するのは好ましくない。メバロータの城主と合流した後は、ハルモニア側はすみやかに帰国するべきである。
ハルモニアの副宰相もそういったことは心得ており、特に不満を抱く様子もなくメイベルに頭を下げ、メバロータの城主に丁寧に挨拶して、兵を引き連れて領地を去っていった。
アルフレートを見送り……彼の姿が見えなくなると、メイベルはさらに不安になった。
メバロータの城主は信頼できそうだが、それでも、メイベルの身の上をすべて知っているわけではない――アルフレートのように、相手の感情が見えるメイベルの特別な目のことを知っているわけでもない。
気軽に相談できる相手がいなくなってしまうのは、心細いものだ……。
「妻も、王妃様のご到着を待っております。張り切って食事を用意しておりまして――ご覧の通り、メバロータはへき地にございますので、お若い女性には少々退屈やもしれませんが、家族一丸となってもてなさせて頂きますぞ」
城主はメイベルを気遣ってくれた。領地のことや家族のことを色々話し、道中の警護も決して手を抜くことなく、城まで案内してくれる。
メバロータの城は、大きな湖の真ん中に建てられていた。
「城へは、あの橋でしか出入りすることができません。五代前の領主が、当時のありったけの技術と全財産をつぎ込んで建てた城でして」
見えてきた城を指し、城主が語る。
メイベルを乗せた馬車は大きな跳ね橋をゆっくりと通り、城へ入った。頑丈な橋は、メイベルたちが渡り終えると重たそうな音と共に城側に上がってしまった。
湖はかなりの深さに見えたし、橋を使わずに向こう岸まで渡るとなったら、泳ぐにはしんどそうな距離……メバロータの城は、雄大な湖に守られているようだ。
到着したメイベルを、幼い子供を二人ほど連れた城主の妻が出迎えて挨拶する。子どもたちも、母親にならって丁寧に挨拶した。
大柄な城主に対し、奥方は小柄な美人である。城主が話していたように、彼女はメイベルをもてなしてくれて、子供たちも幼いながらに精一杯両親の手伝いをし、可愛らしかった。
メバロータ城の人々はみな善良で、ルスランと離れることを不安がったのは考えすぎだったかな、とメイベルがちょっと反省するほどだった。
モヤモヤとした不安は心の奥にしまい込んで、メバロータの城でルスランが迎えに来てくれるのを待って……二日目。
その日は、昼を過ぎた頃から急激に空が暗くなり始めた。
「これは数日、荒れるかもしれませんな。明後日には陛下もこちらへお越しになるとの知らせを受けておりましたが、一旦旅は止め、近くの宿に留まるようお伝えします」
このあたりのことは、当然、この土地を治めるメバロータの城主のほうが詳しい。空の様子を見て大荒れの前兆を見抜く彼の言葉を、メイベルは素直に信じた。
ルスラン王に急ぎの伝令を送り出すと、城主は自分も城る支度を始めた――念のため、狩りに出て城の蓄えをしたいらしい。城主の妻もこういった事態には慣れっこらしく、子どもたちと共に夫を見送った。
例年より遅めではあるが、この地域ではよくあることだそうだ。大雨と強風……それに襲わて湖に囲まれたこの城は、数日間、孤島と化す。その前にたっぷり備えておいて、城の人々はやり過ごすらしい。
王妃の滞在中に起きてしまうことだけは気がかりだが……天気ばかりは、どうしようもない。メイベルも、彼らの迷惑にならないよう自室で大人しく過ごすしかないだろう……。
まだ日が出ている時間のはずなのに外は暗く、抑え込んだ不安は、そんな光景に煽られてまた心の中にふつふつとわき上がり始めた。
城の人々が天候に動じる様子はなかった。
……最初は。
慣れた様子で備えを進める彼女たちだったが、恐らくは夕刻頃――空は真っ暗なままで、時計を見ないと正確な時間が分からない――雨が降り始め、あっという間に土砂降りになって、音がはっきり聞こえるほど強い風が吹いてきたというのに、城主の一団が帰ってこない。そうなると、さすがの奥方たちも心配し始めていた。
「ご城主様、どうなさったんでしょう……。そろそろ橋を上げませんと……壊れたら、この天気じゃ直すのが大変ですよ……」
城の召使いが、奥方とそんな話をしている場面にメイベルは遭遇した。奥方は、もう少しだけ待ちましょう、と答えるが、窓を見る横顔は不安そうだ。
離れた場所からやり取りを見ていたメイベルも、窓に近づいて外を見た。
湖はまるで海のように大きな波を作り、向こう岸へと繋がる橋は波が打ち付けて、一部が見えなくなることもあった。あの状態の橋を渡るのは、とても危なそうだ……。
奥方が不安そうな顔で城主の帰りを待ち続けて、それから一時間ほど経った頃だろうか。橋を、馬に乗った一団が通るのが見えた――全員が頭まですっぽりマントを被っているので、誰がどれなのかはさっぱりである。
大柄な城主だけは、体格から彼だと分かった。
奥方は城内を出、濡れることも厭わず門まで彼らを出迎えたが、彼女に対応したのは城主ではなかった。
それは、男ですらなかった。
「緊急ゆえ、挨拶は省かせてもらうわ。森で私たちの一団が負傷して動けなくなった彼を助けたのだが、ここの城の者だと話しているので送らせてもらった。間違いない?」
無作法な物言いだが、誰もそのことに違和感を抱くことがないほど、彼女には気品と威厳があった。やはり、皇帝の妹というのは伊達ではない。
メバロータ城主の奥方は恐縮して……彼女が自分の部下に指示して連れてきた男を見て、青ざめた。
「あなた!」
馬から降ろされたメバロータ城主は血まみれで、ぐったりとしている。複数人の男が彼の身体を支え、運んでいる間、城主はかすかな呻き声を漏らすばかりで目を覚ますこともなかった。
「どうやら間違いないようね。すぐに中に運びなさい――どこへ運ばせたらいいかしら」
「は、はい、こちらへ……!」
奥方は重傷を負った夫のことで頭がいっぱいで、突然の訪問客の正体を問うこともすっかり忘れているようだった。城の出入り口から見ていたメイベルは、彼女と目が合う。
先に城に入った彼女の部下たちがメイベルの隣をすり抜け、後から、ダリヤ・フォミーナがゆっくりと城に入ってくる。
メイベルのそばで、足を止めた。
「……お話は、あとでゆっくりしましょう。あなたも、きっと私に会いたくて堪らなくなるでしょうし」
意味深な笑みを浮かべ、ダリヤが囁く。すぐに自分の部下を追って立ち去っていく彼女の背を、メイベルは見送ることしかできなかった。
城の召使いたちが大雨の中を外に出て、跳ね橋を上げ始める――城主が戻って来たので、安全のために城は封鎖してしまうらしい。
橋を上げ終えると、ずぶ濡れになった召使いたちは急いで城の中に入って、城の扉も閉ざした。
メバロータ城はいま、完全に外から切り離されてしまった。