出会い (1)
ハルモニア国王の妹メイベル。
彼女はいま、敗戦国の主として敵国の王の寝室にいた。
ハルモニア王国は一か月前の戦で隣国ヴァローナに敗北し、ハルモニア王は戦死。兄を喪った彼女は、国を守るためにヴァローナ側の要求を呑むしかなかった。
そして一人、敵国の王都――王城へと足を踏み入れ、案内されるがままにこの部屋を訪ねた。
部屋の主の姿はなく、ほのかな灯りに照らされた大きなベッドのそばにメイベルは立ち尽くす。
これから起こることへの不安と緊張……の空気に包まれていたのは三十分ほど。
一時間も経つと、だんだん大人しく待つのに飽きていた。
「……暇」
誰もいない広い寝室で、メイベルはぽつりと呟く。
この部屋は続き間となっていて、手前の部屋には恐らく召使いの誰かが待機している。奥の寝室にいるのはメイベル一人。扉もないから、きっとメイベルの声や気配は筒抜けのはず。
それでも、誰も止めに来ないのをいいことに、メイベルはゴソゴソと部屋を調べ始めた。
……別に何か思惑があったわけではなく、暇になって。
大きなベッドに、そばには派手さはないが品の良いテーブルセット。宝石よりも武具に魅力を感じるタイプらしく、調度品は飾り剣や甲冑の一部。壁を飾るのは彼の家族らしい肖像画が数枚。それから、立派な洋服箪笥……開けるのはさすがにダメか。
メイベルは、その隣の本棚に近寄った。
この部屋の主は、なかなかの勉強家のようだ。多様な言語の政治学、哲学、法律、財政学――たぶん、一番読んでる本はこれだろう、とメイベルは一つの棚を見た。
他の棚は綺麗に並んでいるのに、この棚の本だけ少し乱雑に収まっている。これはきっと、頻繁にここの本を取り出して読んでいるから。
彼が最も好む本は、ヴァローナの歴史書。その内、右端の三冊は子供向けのような……。
絵本を手に取り、メイベルはベッドそばの椅子に腰かけた。
絵本は、子供向けにヴァローナの歴史を描いたものだ。ただし、かなり脚色して。
ある程度は歴史に沿っているのだろうが、魔法やらドラゴンやら……いくらなんでもファンタジーが過ぎる。
でも、こういうおとぎ話はメイベルも嫌いではない。
「君もそれが気に入ったかい。その本は、僕もお気に入りなんだ」
読み耽っていたつもりはなかったのだが、思いのほか、自分は本に夢中になっていたらしい。もしくは、相手の気配を消す術がうますぎるのか――両方かな、とメイベルはあとで思った。
聞こえてきた声に顔を上げ、メイベルは彼と正面から向き合う。
ヴァローナ国王ルスラン。獅子王の勇名を持つ男……背も高く引き締まった体格で、ただそこに立っているだけでも、彼には威圧感があった。
年齢は三十だったか……ちょうど、自分の倍だ。
読んでいた本を閉じてテーブルに置き、メイベルは何事もなかったように立ち上がってルスラン王に頭を下げる。
「ハルモニアのメイベルでございます。此度は、ハルモニアの主として参りました」
「ようこそ我がヴァローナへ。和やかな空気をぶち壊すのは気乗りしないが……単身で我が城へ来たということは、和議は成立したと見なしても構わないということでしょうかな?」
はい、とルスラン王をまっすぐ見据え、メイベルは頷いた。
先の戦争に敗北し、兄王を失ったメイベルに他に選択肢などあるはずもない。
王太子として幼少より帝王学を受けていた兄と違い、女のメイベルは政治のことなど何も学んでいない。ハルモニアの諸侯たちは、メイベルの即位を歓迎しないだろう。
「ハルモニアには、偉大な守護者が必要です。我が国は、ルスラン陛下を新たな守護者として歓迎いたします」
ほう、とルスラン王が短い相槌を打つ。
その声は意外そうというか……あっさり決まったことに拍子抜けしているのか、もしくは。メイベルやハルモニア側の真意を探っているのかもしれない。
ルスラン王が何を考えようと、メイベルの返事をどう受け取ろうと、自分が為すべきことに変わりはない。
その目が品定めをするように自分をジロジロと見てきても、メイベルは視線を逸らすことなく、ルスラン王をただじっと見つめていた。
「……実に幸甚な言葉だ。美しい妃を得て、いまの私は大陸一の幸せ者に違いない」
男の手が、無遠慮にメイベルの腕をつかむ。軽く……たぶん、ルスラン王としては本当に軽く引っ張ったのだと思う。メイベルの身体は、いとも容易く動いた。
一瞬、条件反射のように身体に力が入って抵抗しそうになったが、すぐに逆らうことをやめ、メイベルはベッドに倒れ込んだ。
上手に受け身が取れなくて体勢を直すメイベルの上に、ルスラン王が覆いかぶさってくる。
息を呑んでしまうメイベルを見て、ルスラン王が笑った。欲望を隠すことなく。
「ここで大人しく待っていたということは、貴女もとうに覚悟を決めていたと思っていたのだが」
「もちろんです」
メイベルは即答する。
「覚悟を決めても、動じずにいられるかどうかは話が別です」
精一杯の虚勢を張っても、声が震えるのは止められない。自分を見下ろす男に、恐怖を感じる気持ちも。
メイベルの答えに、ルスラン王が目を瞬く。それから、また何か考え込んでいた。
「……うむ。君の言うことはもっともだ」
そう言ったルスラン王の声は、愉快そうだった。メイベルを見下ろす表情も、どこか楽しそうで。
つられたように、メイベルも目を瞬かせてしまった。
男の手が自分の頬に伸びても、今度は震えることもなく……。
「貴女の勇気に、私も敬意を示そう――それでも、君にとっては不本意なものであることには変わらないだろうが」
――メイベル、あとを頼んだよ。
そう言って、兄は微笑む。自分は……何も言えず、ぐっと唇を結ぶばかり。
……泣き出すのを堪えるので精いっぱいで……自分のことしか考えられなくて、兄の言葉に答えることができなかった……。
暗闇で、メイベルはぱちっと目を覚ます。
しばらくぼーっと闇を見つめ、目が慣れてきても、なじみのない部屋の中を見つめ続けていた。
ぼんやりとした視線がサイドテーブルに飾られた短剣に止まり、それが手の届く位置にあることを何となく理解すると……気付いた時には、自分はそれを手に取っていた。
むくっと起き上がり、手にした短剣を鞘から抜き取って、自分の隣に横たわる男に振り下ろす。
振り下ろした腕は、宙で止まった。
折られるのではないかと思うほどの握力でつかまれ、メイベルの腕はびくとも動かない。
いつの間に起き上がったのか、上体を起こしたルスランの顔が、メイベルの顔の間近に迫る――腕をつかむ動作も見えなかった。
「賢い女だと思っていたが、買いかぶったか。浅はかな真似を」
せせら笑うルスランを、メイベルは感情を隠すことなく睨みつける。
両腕をがっちり抑え込まれると、それだけでメイベルはまったく身動きが取れなくなってしまう。男と女の力の差……幾多の戦場も生き残って来た軍人王に、メイベルの力など及ぶはずもない。
愚かだな、とルスランが冷たい声で言う。
「君の一挙一動に、ハルモニアの命運がかかっているのだぞ。コルネリウス王が命がけで守ったものを、台無しにするつもりか」
「ハルモニア王族として、あるまじき行動なのは分かっている」
怒りで声を震わせながら、メイベルも言った。
「でも、私も一人の人間だから。好きでもない男に身体を開かなければならない屈辱に、腹を立てるぐらいはするの!」
興奮のあまりに出てしまった淑女らしからぬ口調。構わず、メイベルは続ける。
「自分の妻がどんな女か――私の夫になるのなら最初に知っておくといい!」
「うーん、なるほど」
相槌を打つルスランは、本当に感心しているようだった。
それをメイベルが察したのは、このあとのことである。その時は、腕をつかまれてもなお抵抗を続け、目の前の男に向かって怒りをぶつけることしか考えていなかった。
「君の言うことは面白いな。さっきもそうだったが、僕も思わず納得したくなるような説得力がある。案外、僕は本当に大陸一の妃をもらった幸せ者かもしれない」
腕をねじり上げられ、痛みにメイベルは小さな悲鳴を上げた。その弾みで短剣は手から滑り落ち、成す術もなくメイベルはベッドの上に押し倒される。
再び自分に覆いかぶさってくる男を、メイベルは睨んだ。
「信じられない、なんでそういう反応になるの!?」
「我が身の不幸を嘆き、絶望に泣き伏せるような女よりはずっと好ましい。君に親書を送った時よりもずっと、君に興味がわいた」
伝わる体温からルスランの感情を感じ取り、メイベルはドン引きした。
……これだけ罵倒されて、自分のことを殺そうとまでした女に興奮するとは、男というのは理解できない生き物だ。
眩しさに、メイベルは目を覚ました。
部屋はすっかり明るくなっており、ベッドの上でもぞもぞと起き上がるメイベルに気付き、カーテンを引いていた女性が振り返る。
女性は穏やかに微笑み、メイベルに向かって挨拶した。
「おはようございます、メイベル様。ルスラン陛下より任じられまして、本日から王妃様付きとなりました、ラリサでございます。女官長も務めておりますので、このアスワド宮のことも、どうぞお気軽にお申し付けください」
寝起きのぼんやり顔のまま、返事もしないメイベルに気を悪くした様子もなく、ラリサと名乗る女官長は説明を続ける。
「ここにお住いの王族は、いまはルスラン陛下とメイベル様しかおりません。王妃であるメイベル様は、この宮殿で唯一の女主ということになります。ルスラン陛下からも、メイベル様の命は王の言葉と思い従うようご指示を受けておりますので、どうぞご遠慮なく……」
ぐう、とメイベルのお腹が鳴り、女官長は言葉を切って目を瞬かせた。メイベルはため息をつく。
「ごめんなさい。お腹が空いてしまって……身支度をしてもらって、朝食をお願いできますか?」
「もちろんです」
女官長は微笑む。
「どうぞごちらへ。湯の用意をしております」
「お湯?お風呂ってこと?」
首を傾げながらベッドから降りようとするメイベルにガウンを羽織らせつつ、はい、と女官長が頷いた。
「このアスワド宮には、かつてエルゾ教国だった頃のものが多く残っているのです。大浴場もそのうちの一つ……長らく放置されていたものを直し、ルスラン陛下が愛用しております」
ラリサに案内されて入った浴室の広さに、メイベルはぽかんとしてしまう。
豪華な大浴場。広い浴槽にはたっぷりの湯で満たされ、手足を伸ばしてゆったり浸かれる……どころか泳げそう。あいにく、メイベルは泳いだことなんてないのだけれど。
「一人の人間のためにこれだけのお湯を用意するなんて、すごく贅沢」
「これからは、メイベル様のためのものにもなります。どうぞご自由に使って頂ければ……」
メイベルの髪を手入れしながら話していた女官長が、言葉を切る。
メイベルが自分のことをじっと見つめてきたので、愛想のよい笑顔のまま、不思議そうに首を傾げた。
「私、本当にヴァローナの王妃になったのね」
「はい。ルスラン陛下が私たちに向け、はっきりと宣言なさっておりました」
「やることやったし、ハルモニアに届いた親書にも確かに私を王妃にしたいと書いてあったけど……」
明け透けな物言いに女官長は苦笑するが、メイベルは構わず話し続け、眉を八の字にする。
「式もなく、立ち会いもない初夜で、結婚したと言っていいのかどうか」
「それは……」
ヴァローナの女官長も、こればかりはヴァローナ王を擁護できないと思ったらしい。
彼女を問い詰めても仕方がない――メイベルはそれ以上のことは言わず、大人しく風呂に浸かっていた。
……結婚の実感はまったくわかないが、いまのところ、待遇は悪くない。