それぞれの役割 (3)
「そろそろ頃合いだな」
遠くの高台からヨーシフと彼が率いる兵の動きを見ていたルスランが呟く。
「合図を出せ」
ルスランが言い、将軍アンドレイが部下の兵士に目配せする。兵が弓を放ち、さらに遠くに控えていたハルモニア兵が動いた。
山頂のほうから、爆発音のようなものが響く。銃声の破裂音の比ではない。地響きまでして。
まんまと陽動に乗ってファルコを追っていたヨーシフ・ボルトラーンも、さすがに馬を止めた。
「な、なんだ?ロドリ薬が引火したのか?」
誰かが銃を使ってロドリ薬を引火させてしまったのか。それとも、向こうが取り扱いを誤って爆発させてしまったのか。
何はともあれ自分たちに被害はない……と焦りながらも胸を撫で下ろしかけていたヨーシフに、部下の兵士が叫ぶ。
「ヨーシフ様!雪崩です!いまの衝撃で――」
ボルトラーン側が気付いた時には遅かった。
雪も解け始めたばかりの春先の山で、もっとも警戒すべき脅威。いまの爆発で揺さぶられた山の雪が滑り落ち始め、真っ白な大波がボルトラーン兵を襲う。
地の利はこちらにあると、思い上がってしまった。ルスラン王は今日この日に備え、ボルトラーンの地理もいまの状況も、しっかり調べてきていたのだ。
自分たちを追っていたボルトラーン兵はヨーシフ・ボルトラーンが連れて行った一団と、領主の側近でもあったシードルと残った一団に分かれていて、すべてがいまの雪崩で潰れたわけではないが……それでも、この損失はかなりの痛手となったことだろう。
シードルたちのほうも、ヨーシフ・ボルトラーン側の全滅を聞き、力なくボルトラーン城へ帰っていく。
領主も、領主の弟も死に、ボルトラーンは当主を失った。しばらくは後継者争いで揉め、ボルトラーン領はヴァローナ王に反逆している余裕もなくなる。
――ルスランの目的は、十分に果たされた。
「ご苦労。さすがは、若くともハルモニアの副宰相にまでのぼり詰めただけはある――君の采配は完ぺきだった」
ハルモニア兵を連れて合流するアルフレート・プロイスに、ルスランは労いの言葉をかける。
ありがとうございます、とハルモニアの副宰相が頭を下げた。
ボルトラーン行きが決まり、ルスランはハルモニア側にも協力を求めていた。
ハルモニアの副宰相は先にボルトラーン領地に入って山を調べ、ボルトラーンの兵士たちを誘い出す場所や、雪崩を起こすための火薬を仕掛けた。
そしてヴァローナ側の合図を受けて、彼らはきっちりと仕事をし……いまに至る。
「ヴァローナ王の許可を頂いているとはいえ、あまり長居をすると余計な勘繰りを招きますので、ハルモニア軍はこれで引き上げさせます」
「うむ。お父上にも、私が君たちの協力に深く感謝していたことを伝えてくれ。おかげで、長年の悩みの種が片付いた」
「我々もゲルマノフ・ボルトラーンの暴虐でいくつか領地を荒らされておりましたから……むしろ、やつの討伐に協力できたことを喜ばしく感じております」
ハルモニアとの戦の際、ゲルマノフ・ボルトラーンはルスランの意向を無視して勝手な略奪と虐殺を行っていた。
ルスランは彼を糾弾しようとしたが、ゲルマノフのほうもルスランがうるさく咎めてくることは分かっていたので、王の目をすり抜けて私兵をこっそり動かし、のらりくらりと追及をかわしていたのだ。
そういった経緯であるため、ルスラン王に協力してボルトラーン軍に追い打ちをかける計画にはハルモニア側も快く協力してくれたのだが。
アルフレート・プロイスは、ルスランに何やら否定的な感情を向けているようだ。
それが何かはルスラン自身も察していた。メイベルの目がなくても彼の非難がましい態度ははっきり見えているし、理由も明確だ。
「相変わらず、愚直なぐらいに誠実な男だな、君は。構わんよ。言いたいことがあるなら、言うといい。他の者が何と言おうと、私は君を責めないと誓おう」
ルスラン王に促され、アルフレート・プロイスは短い沈黙の後、意を決したようにルスランを真っすぐに見据えて言った。
「では――メイベル様のあのお顔は、どういうことですか」
やっぱり来た。ルスランは心の内で苦笑する。
ルスランのすぐ後ろで、将軍アンドレイがちょっと気まずそうにソワソワしている。ルスラン王に強い忠誠を抱く彼でも、メイベルに予想外の傷をつけてしまったあの結果は気にしているぐらいだ。ハルモニアの副宰相が、気にならないはずがない。
「俺の判断ミスだ」
ルスランが答えるよりも先に、ファルコが口を挟む。
「撃てるチャンスは、もっと早くにあった。なのに悠長に様子を見て……結果、メイベルに不要な被害を与えた」
「私の見通しが甘かったのは事実だ。やつの性格も酒癖の悪さも知っていたのに――王妃が相手なら、もう少し理性的な振る舞いをするだろうなどと期待したのが愚かだった。だが」
ルスランが言った。
「やつが底抜けに愚かだったおかげで、ファルコの迷いも躊躇いも吹っ飛んだことだけはありがたい。あんな男を撃って、ファルコに罪悪感を抱かせるのは気の毒だからな」
自分の判断を正当化するようなルスランの態度にアルフレート・プロイスは眉をひそめ、将軍アンドレイは偽悪的に振舞う主君に、やれやれと内心でため息を吐く。
ファルコは、ルスランが自分をかばっているのだと考えた――ファルコの決断が延びた最大の理由を、ルスランは見抜いている。
いくら事前に聞かされ、納得して引き受けた役割であっても、いざ直面するとファルコも躊躇ってしまった。彼だって、実際に人間を撃つのは初めてなのだ。一人でそれと向き合う羽目になって、一切躊躇わないほうがどうかしている。
だがメイベルが殴られるのを視界にとらえ、止まっていた指が動いた。
あんな男に殴られたら、死んでいてもおかしくなかった。迷いや躊躇いを抱く余地もなくなり、ファルコはボルトラーン領主を撃った。
いまも、後悔するのは自分のつまらない躊躇いのせいでメイベルに不要な傷を負わせてしまったことだけで、人を殺した罪悪感は置き去りだった。
ただし、アルフレート・プロイスにとってはそれは些細なことなわけで。
ハルモニアの副宰相からすればメイベルのことが何よりも重要なのが当然なので、彼の不満も無理からぬことである。
「メイベル様には……」
副宰相が、ぽつりと呟く。
「メイベル様には、幸せな結婚をしてほしかった。彼女を大切に守り、傷つけることのない男と」
「私は彼女をちゃんと幸せにしているつもりだぞ。虐げているつもりもないし、王妃として尊重している」
不敬極まりないハルモニアの副宰相の言葉を、ルスランが陽気に笑い飛ばす。
さすがにヴァローナ側もざわつくのを察して、場の空気を支配するためにわざとそう振る舞ったのだ。
それはアルフレートも理解しているのだが、だからと言って、素直に感謝する気にはなれない。
「――出過ぎたことを申しました。ご無礼をお許しください」
頭を下げ、アルフレート・プロイスは撤退していくハルモニア軍を追ってこの場を去る。
遠ざかるアルフレート・プロイスの背を見送り、ファルコがルスランに近づいてこそっと呟く。
「あんた、悪い男だな」
「王のくせに長生きしているような人間は、ずる賢く悪辣に決まっている。善良な王なんてのはたいていが早死にさ」
「ハルモニア人には聞かせられない言葉……メイベルの前では言うなよ」
メイベルの兄王は若くして亡くなっている――アルフレート・プロイスが聞いていたら、殴り掛かっていたかもしれない。
そうだな、とルスランはまだ笑っている。
「だが真理だ。残念ながらな」
ルスランのその台詞に、ファルコも反論しなかった。
ボルトラーン城を出る際、ルスランはメイベルを先に出発させていた。ラリサと護衛の兵士をつけて、ボルトラーン側に気付かれぬよう密かに。近くの尼僧院に預けて、彼女は避難させていた。
ルスランが尼僧院の門を叩くと、顔を出したのはこの尼僧院の院長。来訪客に対応する院長が呼びに行くよりも先に、メイベルがやって来た。
馬が近付く音等で、ルスランが来たことを彼女もすぐに察したらしい。
「ルスラン!近くの山で雪崩があったって聞いて……みんな無事?誰も怪我してない?」
メイベルは矢継ぎ早に聞き、大丈夫だ、とルスランが答えるとホッと胸を撫で下ろしてルスランに抱き着く。
「心配をかけたな。改めて、王都へ帰ろう」
自分の馬にメイベルを乗せて、今度こそ王都への帰路に着いた。ちなみに、ラリサはアンドレイが連れてきた馬に自分で乗っている。
悪路が続き、一団は慎重に馬を進める――途中で、雪が降り始めた。春になっても、山の気候は気まぐれだ。
自分の前に座るメイベルに上着をかぶらせ、銀色の髪にちらちらと降る雪を軽く払う。ふと、まだ殴られた跡の残るメイベルの頬に自分の手が触れた。
「……君とファルコのおかげで、すべてうまくいった。君たちがいなければ、ここまで僕の思い通りにはならなかっただろう。何か、礼を考えなくてはならないな」
我ながら白々しい言葉だな、と自虐しつつも、ルスランはおどけて話す。
「欲しいものはないか?何でも言ってみるといい。ガブリイルは説教してくるかもしれんが、今回は僕が説得してみせるぞ」
メイベルは少し考え込むような仕草を見せ、ルスランを見上げた。
「これで、何の問題もなく戦ができそう?」
「一番の脅威は片付いたな。君は戦争に反対だったと思うが」
意外な反応に内心戸惑いつつ、ルスランは笑って答える。
「それはね。やっぱり心配だし、してほしくはないけど……でも、いまのルスランにとって必要なことなのも分かってるから。避けられないなら、せめてルスランが何の憂いもなく戦に赴けるようにしたい――余計なことに気を取られて、ルスランや皆に何かあったら……そっちのほうが、ずっと後悔する……」
だから、とメイベルが続けた。
「問題が解決したのなら、それでいいの。褒美なんて考えなくて大丈夫」
メイベルの答えに、ルスランは返事ができなかった。
メイベルにも劣らず、ルスランも内心を表情に出さない癖は身に着けている。だからきっと、彼女の言葉に心揺さぶられたことは一切顔に出ていないことだろう。いまはメイベルも進行方向を見ているから、ルスランの感情の色も見ていなくて、気付いていない。
「私がルスランの部下なら、功績に見合うだけの恩賞を与えなくちゃダメだと思う。でも、私はルスランの妻だから。褒美をねだるんじゃなくて、ルスランが背負うものを、少しでも一緒に背負っていくのが私の役目だから」
馬に乗っていなければ、人目もはばからず彼女を抱きしめて口付けていた。こみ上げる愛しさを堪え、そうか、と相槌を打つのがいまは精一杯。
人目もはばからずの部分はメイベルがちょっと嫌がったかもしれないが――照れる彼女も可愛いだろうから、ぜひやってみたかったなんて思う自分は重度である。
――メイベルを傷つけることなく、大切に守ってほしい。
ハルモニアの副宰相はそう言ったが、自分のような男と結婚した時点で、そんなことは望めない。それに……彼らが考えているよりもずっと……。
メイベルは、とうに覚悟を決めている。ルスランの妻になるということ。
きっと、彼女を守るということについて、ルスランと彼らの考え方は永遠に平行線だろう。