それぞれの役割 (1)
季節が春へと移ったばかりの頃、メイベルはルスランに連れられ、ボルトラーン領地へと向かっていた。
ボルトラーン領地は悪路の多い山が多く、馬車はメイベル一人用の小ぶりのものだけ。他は馬と徒歩で、メイベルも途中で馬車を降り、ルスランの馬に乗ることになった。
「まだ雪が見える」
遠くに見える山々を眺め、メイベルが呟く。
暖かくなって雪も解け、山は緑や土の色が見えるようになってきているのだが、いまもまだ真っ白のままのところも少なくはない。
「雪崩には要注意ということだな。馬でも一苦労の山道の先に建てられ、ボルトラーン城は天然の要塞に守られている」
ルスランが説明し、メイベルも顔を上げて山の中腹に建てられた城を見た。
城という名前が付いているが、ボルトラーン領主の住まいは砦のような造りである。これから先のことを考えてしまうせいかもしれないが、メイベルは重苦しい雰囲気を感じた。
ボルトラーン領主ゲルマノフ・ボルトラーンは背が高く、恰幅の良い壮年の男性で、ルスランと握手を交わす腕にはたっぷりの脂肪と筋肉が見えた。
近年は隠居生活を続けているが、それまでは勇猛な軍人だったらしい。ルスランは、蛮勇だとボルトラーンへ来る前に語っていた。
「実力は確かだが、軍紀を無視して私利私欲に走り、敗残兵の勝手な虐殺や巻き込まれた民間人への略奪を繰り返すので、僕は彼を頼るのが嫌なんだ。戦から遠ざけられたことでボルトラーンのほうも僕を嫌っている。戦に出れないと、手柄の立てようがないからな」
ルスランはそう語った。
そして領地に引っ込んでいたボルトラーンが、最近、ルスラン王への反逆を企てているという情報を聞いたらしい。
証拠があるわけではないが、武器や傭兵を揃えているのは事実――雪が完全に解けた頃には次の戦に向かいたいルスランからすれば、背後に脅威を抱えたことになる。
そういうわけで……端的に言えば、やられる前にやってしまえ、という結論に至ったらしい。
それもなかなか悪辣では、と思わず呟いてしまったメイベルに、違いないとルスランは笑った。笑い事ではない。
「これは美しい奥方ですな。わしもボルトラーン中の美女を抱いてきましたが、王妃様に比べればいままでの女など取るに足らぬ者ばかり」
ボルトラーン領主は儀礼的な挨拶の後、ルスランの少し後ろに並ぶメイベルに視線を移し、無遠慮にじろじろと見ながら言った。
――なるほど、とメイベルも心の内を表に出すことはなく、こっそり納得していた。
ルスランの企てを聞かされ、その計画はメイベルが彼を誘惑できることが大前提となり過ぎてて、そう都合よくいくと思えないんだけど、と反論したことを思い出す。
イヴァンカの黒雷は前に面識があり、メイベルが何かを隠し持っているということに興味を惹かれてあの執着だっただけで……メイベル自身に魅力を感じたわけではない。
メイベルは男を惹きつけ、喜ばせるような術を身に着けているわけではないので、ボルトラーン領主を誑かせるかどうか。
メイベルの憂慮を、ルスランは一蹴した。
「心配はいらん。僕はやつの性格も好みも知っている。そもそも、君がやつの好みぴったりだと思ったから、こんな計画を立てたんだ」
自信満々にそう言い切られるのも複雑だった。
果たしてルスランの言った通りとなり、ボルトラーン領主はメイベルを一目見るなり、嫌な色を見せてきた。黒雷の身震いしたくなるようなものとは異なり、下卑たピンク色……。
……一応、自分は王妃であり、ボルトラーン領主が安易に性欲の対象にしていい女ではないはずなのだが。
「やつは酒に酔えば簡単に自制心が吹っ飛ぶ。そこに来て僕が他の女を口説いているような素振りを見せれば、愚かにもやつは君を口説きに行こうとするだろう。頃合いを見て君は先に部屋に戻っていてくれ。必ずあの男は君の部屋へ向かう」
ボルトラーン領主は訪ねてきた王と王妃をもてなし、夜にはささやかながら宴を開いた。
宴の会場と化した広間には豪快なご馳走と大量の酒が運び込まれ、ルスランもボルトラーン領主もすごい勢いで酒を飲む。
ボルトラーン領主がまとう色――下品なピンクにほんのりと赤みが増し、順調に酔っているようだ。ルスランは強い警戒心と敵意の色に変化はなく、これだけ飲んでもまったく酔っていないらしい。
メイベルは、胸焼けしそうなご馳走にも、気分が悪くなりそうな酒のにおいもうんざりで、ルスランの指示がなくても宴を中座したくてたまらなくなった。
タイミングを見計らった女官長のラリサが声をかけてくれたので、それに合わせて退出し、自分に宛がわれた部屋に戻ることにした。
馬車が使えない移動であったため、今回、メイベルはラリサしか連れてきていない。ラリサは夫の影響もあって、馬に乗れるのだ。
ボルトラーン側もメイベルの身の回りの世話をする下女を用意してくれてはおり、これについては特に不便はなかった。
「夜はさすがに寒い」
メイベルがちょっぴり漏らした不満に、ラリサが苦笑する。
着せられた寝衣は、いまの季節に着るにはまだ早い薄手のもの。寝室は大きな窓を開けっぱなしにしているので、メイベルは毛皮のガウンを軽く羽織ることにした。
カーテンを開けて、外を見る。窓の外には広い中庭が見え、遠くにこの城の別棟が見えた。灯りはないから、あっち側には誰もいないらしい――城の召使いたちも、いまは全員で宴に奔走しているのだろう。
今夜は新月で、いつも以上に静かに感じる。まだ冬の雰囲気が残る夜空は澄んでいて、星が綺麗……。
ラリサの慌てる声が聞こえてきて、外を見ていたメイベルは振り返り、寝室に入って来た招かれざる客を見た。
すでに服を寛がせたボルトラーン領主が、メイベルを見つけてニヤニヤ笑う。
メイベルは領主を止めようとしているラリサに目配せし、ラリサは小さく頷くと、急いで部屋を出て行く。
もちろん、彼女もルスランから企てを聞かされていたから、こうなることは想定済みだ。
「ゲルマノフ様のお部屋は、こちらではありません。ずいぶんと酔われているご様子……誰かに送らせましょう」
すっとぼけたふりをしてメイベルが言い、領主の隣をすり抜けて寝室を出ようとする。
ボルトラーン領主は毛皮のガウンをつかんで、メイベルを引き留めた――むんずと鷲掴みにされたら、それだけで動けなくなってしまった。予想はしていたが、それでも驚いてしまう剛力さだ。
「いやいや、間違ってはおらん。わしは王妃様をもてなすためにやって参りましたのですぞ。陛下はわしのもてなしを気に入ったよう……王妃様も、ぜひボルトラーン式のもてなしを……」
呂律ははっきりしているが、話していることは取りとめがなく、やっぱりボルトラーン領主は酔っているのかな、と思わずにはいられなかった。この距離からでもにおうほど、領主は酒臭いし。
メイベルは毛皮のガウンを脱ぎ、ボルトラーン領主から距離を取る。領主はガウンを片手に握ったまま、メイベルにゆっくり近付いてきた。
近付いて来る領主に、メイベルは後退る……ようなふりで、メイベルはさりげなくベッドに近付いた。
――今回は伽の相手まではしなくていいと言われたけど、本当かな。
内心で、ルスランの真意をちょっと疑いながら。
「言っておくが、あれは苦肉の策だからな。黒雷はいまの僕では絶対に勝てない相手だったから君を差し出すしかなかっただけで、僕に寝取らせの趣味はない。ましてや雑魚認定している格下の男に……そんな屈辱は御免だ」
しかし、このまま順調にいくと自分はこの男に抱かれるしかないのだが。
そんなことを思い出していたメイベルは、目の前の男への警戒を一瞬怠ってしまった。この男が危険な色を放つのを見落とした。
あとから思えば、気付いたところで対処できたかは怪しいが。
ベッドが真後ろまで迫った時、ボルトラーン領主はメイベルを殴った。
悲鳴を上げることもできずにメイベルは吹っ飛び、ベッドに倒れ込む――視界がぐわんぐわんと揺れ、何が起きたのかも分からないまま。殴られた衝撃から立ち直れない頭と体では、手足も動かない。
持っていたガウンを投げ捨てた領主がベッドに乗り上げ、メイベルの寝衣に手をかけて引き裂いていることだけは、辛うじて分かった。
抵抗どころか身じろぎひとつできずに領主を見上げていたメイベルは、いまだはっきりしない視界の端で。
――パアンという破裂音の直後、ボルトラーン領主が首から血を吹き出すのを見た。
どさりと、男の身体が力なくメイベルに覆いかぶさる。重い、ということしか考えられなくなった。
これほどの体格差と脂肪と筋肉のある男にのしかかられては、本当に重くて苦しい。ようやく動けるようになった四肢に必死で力を入れたが、メイベルは押しつぶされたままだった。
「メイベル!」
ルスランの声がして、巨体がメイベルの上から払いのけられた。ようやく息ができるようになって、メイベルは大きく胸を上下させて忙しなく呼吸をする。
気付けば、メイベルはルスランに抱きかかえられていた。
「兄上!」
「領主様!」
一気に部屋が騒がしくなり、ボルトラーン城の人々が、ベッドの下で倒れ込む男に駆け寄る。
ヴァローナの陸軍大将アンドレイ・カルガノフも部下の兵士を連れており、部屋の片隅に避けるルスランとメイベルのほうに駆け寄ってきた。ラリサも共に戻って来ていたようで、少し青ざめた顔で、メイベルにシーツを羽織らせ、メイベルの顔を拭っていた。
……見れば、自分は血で汚れている。
「死んでいる――」
領主の遺体を取り囲む人たちが、口々にそんなことを言っている。一人が、メイベルたちに振り返ってメイベルを指差した。
「この女が犯人だ!兄上は、この女に殺された!」
ボルトラーン領主の弟は、背丈は兄と同じぐらいだが、体格は痩せ型で、短く髪を刈りこんでいる兄と違い、肩まで髪を伸ばして貴公子然とした男だった。気取った衣装は、あまり似合っていないが。
「ふざけるな!どうやって彼女がその男を殺せたと言うのだ!」
メイベルを下ろして、メイベルを糾弾する男からかばうように立ちふさがりながら、ルスランも怒り狂って反論した。
――ルスランが怒り狂ったふりをしていることは、色が見えているメイベルだけでなく、アンドレイやラリサたちも分かっているはずだ。この状況は、ルスランが望んで作り出したものなのだから。




