東国より人は来たりて (2)
ルスランの執務室を出た後、メイベルはファルコの部屋を訪ねていた。もちろん常に自分の供をする女官を引き連れてではあるのだが、王族的な定義では一人で。
ファルコの真意を見極めるためとか、王妃として彼を気遣う義務があるとか、色々と理由はあるのだが、結局メイベル自身がファルコのことを知りたいという好奇心が一番であったとは思う。
仲良くなれたら嬉しい。それは本心だ。
「お部屋はどう?足りなものや、不便なことがあれば遠慮なく言ってね」
部屋を訪ねてそう言ったメイベルに対し、ファルコは落ち着いた様子で答える。
「十分よくしてもらってます。わざわざサディク文化の部屋にまでしてもらって……」
「それはほとんどルスランの趣味みたいなものだから、本当に気にしないで」
もともとルスランが趣味で作らせたような部屋だ。ファルコを迎え入れたことで、彼のためと言ってさらに趣味を拡大させようとして宰相に怒られている。
そんなやり取りを見ていたメイベルは、素直に感謝するファルコになんだか申し訳ない気分になった。
「ファルコとは、良い友人同士になれたら嬉しいと思っている。サディクはヴァローナにとっても大切な友情の相手だし……」
話ながら、サディクの文化も良いものがたくさんある……と部屋を見回していたメイベルは、ある部分にファルコが反応することに気付いた。
背の低い衣装箪笥の上に並べられた置物――サディク風の装飾品が飾られているのだが、そこにメイベルが視線を向けた時、静かなファルコの色が、わずかに動揺するのが見えた。
メイベルは衣装箪笥に近づき、ゆっくりと置物を見る。ファルコの動揺は、箪笥の上に置いた小さな衣装箱が原因のようだ。
この中に何か隠している。
……と、思いつつも。他人の部屋で、他人の衣装箱を勝手に開けるってどうなの、とメイベルは箱を見つめるだけで手出しするのは止めておいた。
しかし、ファルコはメイベルから圧をかけられたと感じたみたいで、小さくため息を吐いた後、衣装箱に手を伸ばす。
箱を開けると、中には小さな猫が……綺麗なふわふわの毛並み……。
「何匹か兄弟で献上された猫なんだが、そいつは身体も小さくてちょっとどんくさくて、欲しがるやつがいなくて俺が引き取ることになった。こんな経緯だから、俺が宮廷を出たら面倒を見てくれる人間もいなくなるし、つい……」
「そういうことなら、私からルスランの許可を取っておくね。このままファルコが飼っていて大丈夫だよ」
身を縮こませ、少し怯えたように外をキョロキョロと見回す猫にメイベルも手を伸ばしてみる。
猫はメイベルの手に首をすくめてみせたが、撫でてみればふさふさの尻尾を軽く振った。
「この子の名前は?」
「バリー」
可愛い、とメイベルは言った。猫のバリーは人懐っこい性格のようで、前足を衣装箱の縁にかけて身を乗り出すような体勢を取り、小さな声で鳴いた。
「……メイベルって、エンジェリク語」
猫に夢中になっているメイベルの隣で、ファルコがぽつりと呟く。そうだよ、と答えるメイベルに、ファルコが猫を抱え、メイベルに向かって差し出した。
ふわふわの猫を、メイベルは抱っこさせてもらう。猫はメイベルの腕の中に大人しくおさまった。
「入り婿だった父がエンジェリク王家の血を引いていて、鈴蘭の花が好きだったから……。この銀髪も父譲り」
メイベルは、ファルコの金色に視線をやる。
「ファルコの金髪はお母様譲りって聞いた。その目は……」
「この目は突然変異だ。親、兄弟、誰一人こんな目をしてるやつはいない――いません」
なんで同じことを繰り返したのだろう、と思って、敬語を使い忘れていることに気付いて言い直したのだと察した。
年も近いし、王族同士。メイベルが王妃らしい口調ができていないのだから、ファルコも敬語は必要ないと思う――どうやら、彼も敬語は使い慣れていないようだ。
「右と左で色が違うと、見えてるものが違ったりもする?」
メイベルは質問を続けた。どうだろう、とファルコが少し考え込む。
「生まれた時からこうだったから、俺にはこの見え方が当たり前過ぎて考えたこともなかった。ただ、右は異様に視力が良い」
「視力」
「単純にかなり遠くまで見えるのと、動体視力も人並を軽く超えてるらしい。おかげで銃を撃つのに有利」
「そう言えば、アルカラーム様が射撃と乗馬の腕前を褒めていらっしゃったね」
ファルコの父君との会話を思い出し、メイベルが言った。ファルコは謙遜する様子も自慢する様子もなく、しれっと頷く。
「銃で俺に敵う人間はいないと思う」
「そうなんだ、すごい」
メイベルが素直に感心すると、ファルコが盛大に眉間に皺を寄せた。
メイベルに劣らぬ表情の起伏が乏しい、淡々とした様子だったファルコが、初めて感情を露わにした――ファルコの周りの色もはっきりと変わり、彼が照れているっぽいことが分かった。
「……あんた、良いやつ過ぎないか。俺がバカみたい」
あとでメイベルたちのやり取りを見ていたラリサから、恐らく、ファルコは自分の傲慢さをメイベルに指摘されると思っていた……のに、メイベルに賞賛されてしまったものだからバツが悪くなったのだろう、と教えてもらった。
この時のメイベルは、そうかな、と首をかしげていた。
相手の感情をこっそり見ている自分が、良い人だとは思わない――感情の色が見えるわけでもないラリサのほうが、メイベルよりよほど彼の真意を見抜いていたりもしたが。
ファルコの部屋でのことをルスランに話すと、ルスランもファルコの大口に笑っていた。あと、猫を飼う許可もくれた。
「大言は僕も嫌いじゃない。しかし、実際がどうなのかはやはり気になるな」
笑った後にそう言って。翌日はルスランがファルコを訪ね、訓練所へと連れ出して彼の銃の腕前を披露してもらうこととなった。
メイベルも見学させてもらったのだが……生憎、射撃というものを初めて見る自分では、とりあえず的に全部的中させててすごいな、という単純な感想しか出てこなかった。
銃に詳しい人が見れば、もっと違う感想を抱いたことだろう。ルスランと同席する陸軍大将アンドレイ・カルガノフは、メイベル以上に感心して、唖然ともしていたぐらいだし。
「この距離で全弾、寸分の狂いなく命中させるとは……神業の域ですな」
部下の兵が持ってきた的を見ながら、将軍が言った。
すべて綺麗に真ん中を撃ち抜かれている。重ねてみれば、穴はまったく同じ位置、同じ大きさだ。
「動いてない的が相手なら、それぐらいできるよ。今日は風も吹いてないからね。銃の性能は大したことないけど」
「これは本当に、君以上の狙撃手はいないかもしれないな。少なくとも、ヴァローナでは並ぶ者もいない。大したことのない私が一番だったぐらいだからな」
将軍から的を受け取り、ルスランが言った。
どうやら、ファルコの腕はメイベルが感じている以上に人並外れて優れているらしい。
昨日のメイベルとのやり取りに影響を受けて、ファルコは王相手にも敬語を使うことをすっかり忘れてしまっているのに、ファルコの腕前にばかり注目が集まり、ファルコの口調を気にする人間もいない。
「ロドリ薬のせいで、戦場だと銃はすぐ封じられるから、あんま重要視してない国も多いもんね。うちも、せっかく銃兵で揃えた騎兵隊作ったのに、活躍の場がないって言ってた」
「騎兵隊か……。君は乗馬の腕も優れているそうだな」
ルスランの問いに、ファルコは肩をすくめてみせる。
「そっちはさすがに、俺一人の力量じゃどうにもならない。銃声に怯まないよう訓練された馬がいる」
さらにその翌日。メイベルは厩舎に向かう途中のファルコを見つけた。
ファルコの腕前に惚れ込んだルスランが、さっそくファルコに新しい馬を与えたらしい。東国から買い求めた名馬で――これを名目にまた王は東国の品漁りをする気だな、と宰相が不機嫌丸出しで眉間に皺を寄せていた。
「ファルコ、馬に乗りに行くの?」
「いや、馬の世話。これから世話になるんだったら、日頃の世話は俺もすべきだから」
「私も一緒に行っていい?」
ファルコは拒否しなかったので、メイベルは一緒に厩舎に向かった。
……でも、中には入らず出入り口でこそっとファルコや馬の様子を見つめる。
「来てみたら怖くなった?」
からかうように言われ、メイベルは頷く。
相手の感情が見えるメイベルの目も、動物が相手では通用しない。馬たちが何を考えているのか――警戒されているような気もするし、バカにされているような気もする。怖くてコソコソとするメイベルに、ファルコがかすかに笑った。
ファルコが笑う顔は、初めて見た。
「あんたが警戒してると、馬もいつまでも警戒するよ。賢い連中だから。無理に入って来いとは言わないけどさ」
ファルコは慣れた手つきで馬を世話し、飼い葉や馬の寝床を整えていく。
人参をあげたら仲良くなれるだろうか、とメイベルが呟けば、今度こそはっきりファルコに笑われてしまった。
あまりにも真剣に悩んでいる姿が、面白かったそうだ。
それから数日、メイベルはファルコについて厩舎に通った。何度か通えばさすがにメイベルも慣れてきて、厩舎に入るぐらいのことはできるようになった。
女官たちはメイベルが厩舎に出入りすることをやんわり止めてきたが、馬だけでなくファルコとも距離が縮まって来たのは嬉しくて、これからも続けられればと思っている……というようなことを、夜、ルスランの部屋で話した。
ルスランはメイベルの望みを否定することなく、優しくメイベルの頭を撫でる。
「ずいぶん打ち解けたんだな」
「うん。私も、ファルコも……。ファルコもずいぶん笑うようになってくれた。本当はとても面倒見がよくて、誠実な性格みたい」
「君からその評価を聞けるのはありがたい。信頼に足る人物であるのは私にとっても喜ばしいことだ」
そう言いながらも、ルスランが何かを考えているのは目に見えて明らかだった――相手の感情が見えてしまうメイベル基準では。
嫉妬ではないようだが、ルスランがいままとっている色に良い印象はない。
「やっぱり、あまり仲良くなり過ぎないほうがいい?」
ファルコは真意も分からずヴァローナで暮らすことになった外国人で。おまけに、年の近い男。
露骨に表に出す人間はいないが、王の妻が気軽に一対一になっていい相手でないことぐらいはメイベルも分かっていた。
気安く話すことができて、ファルコも気安く応じてくれて、それが楽しくてちょっと調子に乗ってしまったのは事実だ……。
だが、ルスランは笑った。
「いや。有能な人材は、ぜひヴァローナに引き入れたい。いまのところ、ファルコは私よりも君のほうが動かせる。このまま友情を深めてくれ」
「……ルスラン、悪いこと企んでない?」
いやな予感、いやなものが見えた気がして、メイベルはジト目でルスランを見る。どうかな、とルスランはさらに笑って返事をぼやかした。
感情の色は見せても、ルスランはなかなか真意を見せない。いまのメイベルには、見えても、見えないものが多い。