提案と涙
「リリー、起きなさい」
「……うん? 圧っ!?」
朝の訪れを報せたのは清澄な声音と芸術品のように綺麗な顔面の圧力。こんな距離で冷静に挨拶を返せるものか。
いやそれよりどうしてドラセナが私の部屋に? なんなら何故私の腕を押さえつけ、上を取っている?
体を起こそうにも動けない。この子、私にどうしてほしいんだろう。いや、違うな。私になにをしたいんだろう?
抵抗の余地がない、という状況は勇者の旅路でもそうそうあることではなかった。平和な世界でも油断は出来ないんだなぁ、などと考えているとドラセナはくすっと微笑を浮かべた。
お止めください姉上、あなたが人殺しになるのを私は見たくない。
「おはよう、リリー。ぐっすり眠っていたわね」
「おはようござ……いやそれより何故私の部屋に?」
「お寝坊したら大変でしょう? 母上に起こされる前に私が起こそうと思って」
「お心遣い痛み入ります。もう一つ疑問がありまして、何故私は腕を押さえつけられていたのでしょう。どうして私の上を取っていたのです?」
「疑問は一つじゃなかったかしら? ふふ、可愛いあなたを近くで見ていたかったからよ」
リリーならここで素直に照れることが出来たんだろう。だが私は悪寒を感じている。無防備な相手を押さえつけてあまつさえ息がかかるほどの距離まで接近するなんて。勇者時代ならなにをしていたかわかったものではない。
いよいよ本格的に狂気を感じているものの、悟られたらそれはそれで怖い。怯えている私を見てなお可愛いと愛でるのだろう、それで避けたらどうなることやら……つい身震いしてしまう。
「レイクス先生は……?」
「まだいらしてないわ。そんなに彼が気になる?」
「そそそそのようなことは決してございません」
ここで頷いてみろ。この子の場合、ユリアンになにをするかわからない。彼を守る意味でもごまかすべきだ。
……この子に隠し事なんて出来る気がしないけど。
ドラセナはじっと私を見詰める。交わる瞳の奥からはなにも見えてこない。魔物と対峙しているときの記憶が蘇るが、下手に警戒心を見せない方が賢明だろう。
やがて穏やかな笑みを湛えるドラセナ。私の目からなにを読み取ったのかはわからないが、言及されることもなさそうだ。
「じゃあお着換えしましょうか。はい、ばんざーい」
「ひ、一人で出来ますので! 近いうちに姉上もここを離れてしまいますし、ね! 姉妹離れしましょう!」
「あまり悲しいことを言わないで。考えないようにしていたのよ。あなたと離れ離れになるなんて……考えただけでどうにかなってしまいそうだわ」
どうにかなったらどうなってしまうのでしょう。勇者募った方がよろしいでしょうか。
それこそ考えない方がいいことなのだと思う。とはいえ、ドラセナにはきちんと妹離れしてもらった方がいいとは思うのだが……いずれこの国の頂点に立って、民に目を向けなければならないのだから。
「あ、姉上と離れたくないのは本心ですが、このままでは私にとっても姉上にとってもよろしくないかと……」
「それは何故? あなたにとっても私にとってもよくないと思う根拠は? 私があなたを愛することにどんな不利益が発生するというのかしら。私に愛されることがあなたにとってよくないのならばあなたへの感情はどこに向ければいいの?」
詰め方がえげつない。かつてのユリアンだってこんな詰め方しなかったし、たまに怒るととんでもなく怖いハンナだってここまでではなかった。
だが、及び腰になってはいけない。毅然と伝えてあげるべきだ。根拠は特に思いつかないけど。
「……あの、私が姉上に甘えてばかりだと、父上も母上も安心出来ないかと思いますし、姉上も寄宿舎で暮らすとなれば私ばかり見ているのも難しくなってくるかと思いますので……」
せめてなにか言ってください姉上。その無言は魔王の扱う魔術より効く。
なにか、なにか繋げた方がいいのだろうか。言葉が足りなかったか? 他にどう説明すればいいのだ、庶民マインドの私にはあれが限界ですが?
ごくりと生唾を飲むと同時、ドラセナはほろりと涙を流した。頬を伝う雫に驚き飛び跳ねてしまうが、彼女の涙は様になる。美しい人って存在そのものが兵器だ。
「ああああ、姉上! どうか涙を……!」
「違うの。私、嬉しくて」
「う、嬉しくて……・?」
「リリーは甘えん坊さんで、やんちゃで、私がいないと駄目な子だって思っていたのに……私たちの将来のことまで考えられるくらい立派になったとわかって……ごめんなさいね、感動してしまったの」
さらっと妹を見下していないだろうか。そこは言及しなくていいところだとは思うのだが、若干ドラセナのことが心配になってしまう。変な男に捕まらないように、私が気にかけてあげるべきなのだろうか……。
とはいえ、私の言葉をいい方向に解釈してくれたようだ。これで少しは自由な時間が増え――
「つまり入学するまでにあなたを愛し尽くしておけばいいのね。さ、ばんざーい」
「違うっ! 違うんです姉上っ! そうではなくっ!」
つい本心が飛び出してしまった。この子、本当にブレないな! 私を愛でないという選択肢は真っ先に除外しているのね!
私の大声に驚いたか、ドラセナはきょとんと目を丸くした。そんな顔も出来るのか、あなた……初めて年相応の表情を見た気がする。
そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。まさか母上……? まずい、頬がこけるほど叱られる?
背筋が凍るのを感じたが、扉の向こうから聞こえてきたのは男性の声だった。
「リリー様? ドラセナ様もいらっしゃるのですか? 私です、ユリアン・レイクスです」
「……ユリアン?」
「ユリアン?」
「レイクス先生ですね! いま開けます!」
名前で呼んだだけでそんなどぎつい低音を放たないでいただきたい。心臓が縮こまってしまいます。
逃げるように扉へ駆け寄り、ユリアンを迎える。彼は一礼して顔を上げ、一瞬だけ身を強張らせた。振り返らずともわかる、ドラセナだろう。恐ろしい形相で睨み付けているに違いない。私は怖くて見られない。
「は、あはは……その、少し早く着いてしまったので、お迎えに上がったのですが……身支度が済んでいないようです、ね? 中庭でお待ちしておりますので、後程」
「アッ、アッ! 待ってくださいレイクス先生!」
無情にも閉められる扉。残される私とドラセナ。背後から凄まじい気配を感じる。勇者の記憶を遡ってもこれに匹敵する相手なんてそう多くなかった。
ゆっくりと振り返ると、相変わらず優しい笑顔のドラセナがいた。恐ろしい気配ももうしない。それがまた一層彼女に対する恐怖心を刺激した。
「先生をお待たせするのも良くないわね。さ、お着換えをしましょう。ね、リリー? ほら、ばんざーい」
「は……ハァイ……ばんざーい……」
もう抵抗しない方が楽なのだと察する。リリーとして生まれ変わった以上、溺愛されるのは運命だと思っておこう。その方が疲れなさそうだ……。