妖精姫は思い出す
魔術の知識や研究において他国の追随を許さない大国、ナッシェル。かつて世界に一時の平和をもたらしたアルタミルに並び、いまでは魔術の総本山とも言われている。
ナッシェルの第二皇女として生を受けたリリー・メル・ナッシェルは民の間でも話題に事欠かない存在だった。高貴な生まれでありながら天真爛漫、城下町にも頻繁に顔を見せることから、親しみを込めて「妖精姫」などと呼ばれていた。
六歳であるリリーはその名の由来など知りもせず、妖精という響きを大層気に入った。そして、妖精の名に恥じないよう使用人を困らせ続けていた。
そのため宮殿付近はいつも賑やかな音に溢れている。その音が使用人の苦労そのものであることは想像に難くない。
そして今日も――
「リリー様! じっとしていてくださいませ!」
使用人の女性が叫ぶ。彼女の前にそびえるのは逞しく育った大樹。その視線が見上げる先に一人の少女がいた。少女は枝に腰掛け、満足に笑っている。
神々しささえ抱かせる金色の長髪を風になびかせ、大きな眼には宝石のように輝く赤い瞳が埋まっている。肌には小さな擦り傷が無数にあり、上質な素材で織られた衣服はところどころ破れ、彼女のお転婆さを過不足なく表していた。
この少女こそナッシェル帝国第二皇女、リリー・メル・ナッシェルである。彼女は慌てた様子の使用人を見下ろし、こんなに愉快なことはないと言わんばかりに笑った。
「大丈夫です! 落ちませんので!」
「そういう問題ではございません! いいですか、動かないでくださいね!? いま助けに参ります!」
「大袈裟ですよ! こんなふうに跳ねたって大丈夫です!」
枝の上で立ち上がり、ぴょんぴょんと飛び跳ねてみせるリリー。使用人がこの世の終わりのような悲鳴を上げる中でも彼女はご機嫌な笑みを浮かべていた。
しかし直後、着地したリリーは足を滑らせてしまう。ぐるんと世界が反転し、頭から地面へと真っ逆さま。使用人の叫び声さえ遠く聞こえる。
わずか六歳ながら、死を傍らに感じた。それがきっかけになっただろうか、リリーは思い出す。誰よりも死の臭いに晒され、人類の敵に数え切れないほどの死を贈った勇者の記憶。
死と隣り合わせだった日々の記憶。安らぎもなく、いつ命を落としてもおかしくないような過酷な旅の記憶。共に死線を潜り抜けた仲間の記憶。魔王の胸に、由緒ある宝剣を突き立てた記憶。
つまり――リリーがイライザだった記憶!
「思い……出したぁ!?」
声を裏返しながら叫び、現実に向き直る。地面に激突するまで三秒もない。いま必要なのは落下の衝撃を和らげること。身体は六歳の少女、勇者の頃に鍛えた身体ではない。受け身もろくに取れないだろう。
ならば、と。私は咄嗟に右手を地面に翳した。力が体内を巡る感覚、魔術を行使する感覚が蘇る。私の身体を囲うように緑色の光が駆け出した。
「“エアヴェール”!」
その言葉が魔術を起動する。魔術としては初級に分類される、ブロンズスペルの一種。周囲の空気がうねり、優しい風を生む。それは私の体を抱き締めるように包み込んだ。
緩やかに背中から着地し、呆然と空を見上げる。あくびが出るほど平和な青色、雲一つない快晴の空は魔王討伐の余韻を強く感じさせた。
使用人の群れが私の顔を覗き込む。心配だったり、絶望だったり。勇者としての旅路で何度も見てきた顔。大丈夫、その一言で安心させられていたイライザ・ソーンはもういないのだと知った。
「……心配させて、ごめんなさい……」
使用人たちは気が動転しており、誰も私を運び出そうとはしなかった。まずやるべきでは。第二皇女とはいえ大切に扱ってほしい。……いや、彼らはいつも大切に扱いたかったのだろうけど。
「何事ですか」
清らか、という言葉がなにより似合う声だった。
それは幼い少女のもの。記憶を取り戻したとはいえ、リリー・メル・ナッシェルとして暮らしていた記憶も残ってはいる。
人垣が割れ、道が出来る。そこから姿を表したのは絵画から飛び出してきたかのような美しい少女だった。
リリーよりも淡く、透き通るようなプラチナブロンドの髪。毛先まで手入れが行き届いた綺麗な長髪は、どこか彼女という存在から現実味を奪っているようにも思える。纏う衣服には皺の一つもなく、穏やかに垂れた眼の中心には若葉を思わせる緑の瞳。
人形、という言葉がしっくり来るほど整った容姿。同性の私でさえ目を奪われるような美しさには言葉も出ない。
「ドラセナ様、これは……!」
使用人の一人が声を震わせて彼女の名を呼ぶ。
この少女――ナッシェル帝国第一皇女、ドラセナ・オル・ナッシェルは使用人たちには目もくれない。彼女の瞳はずっと、私を捉え続けていた。
「あ、姉上……」
ドラセナはつかつかと、優雅な足取りで近づいてくる。道はどんどん広がり、姉妹の行く末を見守ろうとしていた。
私の目の前で立ち止まるドラセナ。彼女の表情からはなにも窺えない。顔の造形が整っている分、真顔には不思議な圧力を感じる。魔王の幹部と対峙したときのような緊張感があった。
「姉上……ご、ごめんなさい……やんちゃが過ぎました……」
「リリー」
彼女は短く私を呼ぶ。そうして両手が首に伸びて来た。
あ、死ぬ? 殺される?
などと考えたのは彼女に対して失礼極まりない。ドラセナは私を優しく抱き締めた。背中をさすりながら、私の頭を何度も撫でる。
愛情しかない抱擁なのはわかる。ただ、殺伐とした人生を生きてきた記憶が戻ったからか、素直に喜ぶことが出来なかった。こんな無償の愛を受けていいのかがわからなかったのだ。
呆ける私を他所に、ドラセナは耳元で甘く囁いた。
「あまり危ないことをしては駄目よ? 大切な妹になにかあったら、私、どうにかなってしまいそうだもの」
「は……はい……」
「私だけでなく、皆のことも心配させては駄目。あなたが傷ついたら、皆の責任になってしまうのだから。あなたが原因で皆が悲しい思いをするのは不本意でしょう?」
「はい、仰る通りです……もう木登りはしません……」
「ふふ、リリーは聡明な子ね。そんなあなたが大好きよ。可愛い可愛い、世界で一番可愛い私の妹」
うっとりと、酔ったような声音のドラセナ。私を含め、使用人たちも皆沈黙していた。
――そう。
この少女、妹を溺愛しているのだ。いっそ危うさすら感じるほどに。私と世界を秤にかけたら躊躇なく世界を切り捨ててしまいそうな狂気が垣間見える。
「あ、姉上、私は言うほど可愛くは……」
「それ以上は駄目。リリーは世界で一番可愛いわ。あなた以外のこの世の全てが排泄物に見えてしまうほどよ」
目に入れても痛くないどころの話ではない。この愛情は間違いなく歪んでいるのだが、不思議と美しさも伴っているような錯覚に陥る。比喩の一種であってほしいと切実に願うばかりだった。
仮に本心だとしたら排泄物に囲まれる生活の中でこれほど美しく在れているのもおかしな話だ。常人の精神ならばとっくに崩壊しているだろうに。
放心状態の私。その頬にキスをするドラセナ。確か彼女は私の一つ上だったはずだが、こんな愛情表現が七歳で身に付いていることに驚くばかり。最近の七歳児は大人びているのだろうか。
いや、違う。普通はこうじゃない。間違いなく、彼女だからこそだ。末恐ろしい少女である。
「さあ、戻って着替えましょう。今日は私たちの家庭教師がお見えになるそうよ」
「……家庭教師?」
皇族の家庭教師ともなるとお堅い人物である可能性が高い。戦いの日々から解放されたとはいえ、これはこれで大変そうだ。
……というか、私は死んだはず。どうして生きているのだろう。しかも別人として。
理由はわからない。少なくとも、いまは知る必要もなさそうか。