惰眠
春の陽気というのはどうしてこう眠気を誘うのだろうか。彼女にとって学校のある時間とは眠気との闘いの時間であった。しかし、それもようやく時を迎え、彼女には帰宅という至福の権限が与えられる。
「やっと.....帰れる....。」
今日の彼女は一段と眠かった。昨晩何気なく見始めたドラマが意外にも面白く、いつも10時までには寝てしまうところを、11時過ぎまで起きていたのだ。
彼女が鞄を拾い上げ、肩にかけたときに、その女は現れた。
「ハースキー!!」
勢いよく飛びかかってくる木塚、そしてそれを華麗に避ける蓮木。
「へぶっ!!」
よけられた彼女を受け止めたのは冷たい窓ガラスだった。
「もーお、よけないでよ!」
「じゃあ、とびかかってこないで...。帰るとこなんだから。」
「え!?何言ってんの!」
木塚は鞄からクシャクシャになったチラシを引っ張り出す。
「これ!これ!これ行くって言ったじゃん!」
それは、この近くの駅に新しくできたカフェのチラシだった。
そのチラシはずいぶんとカラフルに彩られ、あの手この手のフォントや色使いには目が疲れてしまう。
「言って...ない。」
「言った言った!今日のお昼休みに言ったって!うんって言ったじゃん!」
今日の昼休み...はいつも通り寝ていたことしか記憶にない。
つまりはつまり、木塚が一方的に話しかけてきたのをあしらう為に適当に返事したそれがこれだったのか。
「知ら...ない。」
「えー!そんなのダメ!ほら!行くよ行くよ!」
木塚は半ば強引に蓮木の手をつかむと、その場所まで引っ張っていった。
――――――――――――
「ふー!間に合った!」
それは雑居ビルの半端な位置にあるカフェだった。外見からはあのカラフルなチラシを出しているとことは思えなかった。
備え付けのエレベーターから上って中に入っていくのは少々敷居が高い気もする。
「さー!いこう!」
「え...行くのこれ..?」
「えー、なに?」
「なんか...思ってたのと違う。」
「でも早くいかないと、ここ18時には閉まっちゃうんだよ。」
時刻は17過ぎごろ。そろそろオーダーストップが入ってもおかしくないところだった。
「まーまー、これも経験のうちってことで!」
といい木塚がエレベーターのボタンを押すと、それは割とすぐに開いた。
「よーし!...んぶ!!」
と、木塚はエレベーターの扉があいた勢いに任せて飛び込む。だが、それは何かに遮られた。
木塚が一歩引くと、そこには既に人がいた。単に人がいるだけならまだいい。しかしそれは、やたらにガタイのいいスキンヘッド強面のおじさんだった。
「ひっ....!ご...ごめんなさい!」
「オウ、お嬢ちゃん。前はしっかり見とけよ。」
といいおじさんはエレベーターから降りて、街中に消えていった。
二人は無言のまま、エレベーターに乗り込む。
「......え。ここ大丈夫なの?」
「....何が?」
「え!だってさ!今のおじさんどう見たってあのー、そっち系の人じゃん!」
「やくざ」
「いわないでー!!」
木塚は耳をふさぐ。
「えぇ、..このカフェ大丈夫なんだよね?」
「何をいまさら」
「私たち、売り飛ばされたりしないよね!?」
「私のほうが...キツネより高く売れると思う...。」
「のんきか!」
チン!とエレベーターのドアが目的階に到着したことを知らせ、開いた。そしてその真正面にカフェはあった。
木塚は反射的に蓮木の背中に隠れて中の様子を伺う。
しかし、それは杞憂だった。
カフェの様子は流行りを取り入れたモダンな作りで、店内中にいろいろな形の椅子やテーブルなどが配置されており、既に若い女性客やカップルが席についていた。
「いらっしゃいませ!お二人様ですか?」
「はい」
「当店フリーシート制ですので、靴を脱いでいただいて、お好きな席にどうぞ!席のキープにはこちらをお使いください!ご注文はあちらで承っております!」
といい、女性店員に札を渡される。
「お...おお!」
蓮木の背中に隠れていた木塚も、その様に警戒心を解いて前に出てくる。
「すごいすごい!なんかはやりのベンチャー企業の自由オフィスみたい!」
木塚はさっきまでの様子が嘘のように消え失せ、その店内テイストに魅了されていた。
「へぇ!椅子もテーブルも、座椅子とかハンモックまで使えるんだ!」
二人は靴をぬいで早速注文受付場に行く。
「えっと、私抹茶ラテにキャラメルソースのトッピングで!ハスキーは?」
「...バナナラテ」
「すきだねぇ、バナナ」
二人は商品を受け取ると、適当な席に着いた。
「いやぁ!最初どうかなと思ってたけど、いいところだねぇ。今度タヌキも連れてきてあげなきゃ!」
「現金なヤツ...。」
「それが人生を楽しむコツよ!」
(眠いなぁ...。)
二人が中身のない話をしている間に、店内のお客はずいぶんと少なくなっていった。
「もーぼちぼち帰らないとねぇ...あ!ヨギ〇ーだ!空いてる!」
「なに...それ」
「知らないの?人をダメにするソファーだって人気じゃん!私欲しかったんだぁ!」
木塚はどかっとそのソファーに掛けた。
「.....あんたは、もとからダメじゃん...。」
「なんてこというの!」
「そんなにいいの..?それ..。」
「ははーん。羨ましいんだ。いいよぉ、おじさんは懐が深いからね。代わってあげよう!」
木塚に代わって蓮木がそこに座った。
その瞬間、世界が変わった。この世の重力とはなんなのか。自分の体が重力から解放されたとき、人は真理にたどり着く。......つまり快適だった。
「おお.....。」
「ね!いいでしょ!」
「おやすみ....。」
「はーいおやすみー!...って、え?」
蓮木は深く目を閉じた。
「え?ちょっと?ハスキー?え、マジで寝にかかってない?」
蓮木の口元からはスースーという寝息だけが聞こえてくる。
「ちょっと!ハスキーさん?ちょっと!もう帰らなきゃ!」
「あの....。」
そこに女性店員が来る。
「もうお店、しめなきゃなんで、申し訳ないんですが..。」
「ああ!ハイハイ!!すぐ起こしますんで!」
木塚は必死に蓮木の体を揺さぶる。
「もーー!起きてよ!ハスキー!」
(快適....。)
強面のおじさんは、カフェの上の階にあるはんこ屋さんの店主だったりする。