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外伝第15話 ~小山家の人々~

本編の前に来るお話です。

外伝第15話 ~小山家の人々~




 小山の家族構成は、父と母と、小山から見て3つ上の兄の拓斗、3つ下の妹の美琴の5人家族だ。そんな訳で、戸籍上は小山は『二男:実』と書かれている。もちろん『長男:拓斗』と『長女:美琴』も記載されている。

 いずれは小山も戸籍変更を考えているのだが、現行の『性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律』(通称:性同一性障害特例法)では、この場合戸籍上の小山の続柄は『二男』から『二女』へと変更になる。そうすると戸籍に書いてある内容では三年先に生まれた小山が『二女』になり、後に生まれた美琴が『長女』になるという、奇妙な逆転現象が生まれることになる。

 戸籍訂正の事実も記載されるから、隠そうとしても戸籍を解る人が見れば解ってしまう状態になる。戸籍の提出が必要な場合があったとして、そこまで細かく見る人がどれくらいいるだろうかという問題はあるのだけれど、当事者にとってはちょっと気になるところでもある。もう手術も戸籍の訂正も済ませたから事情を話さなくても良いよねと思っていても、なにか戸籍が変なのだけれどと聞かれれば説明するしかなくなる。

 戸籍訂正後に結婚して戸籍が独立して、夫または妻と記載されるようになればその心配はしなくて済むようになるのだが、まさかそれだけを目的に結婚する訳にも行かない訳で、戸籍訂正の履歴という点はまだ問題として残されていると言えるだろう。

 それなら小山の場合なら、小山本人を『長女』と訂正して、同時に美琴を『二女』に訂正すれば良いと考えることもできる。それならややこしい事にはならないだろう、と。だが今度は戸籍訂正を行った本人の小山だけではなくて、何も行っていないはずの美琴の方まで戸籍訂正の事実が残るという問題が出てくる。小山の家の場合は美琴にも理解があってあまり問題にはならないかもしれないが、世の中そういうケースばかりでもない。何で巻き込まれなくちゃいけないのかと反対されるケースも充分想定できる。そうすると安易にそうすれば良いとも言えない。

 『それなら戸籍の続柄を〇男〇女じゃなくて第〇子で書けばいいじゃない』という考えもできない訳ではない。しかし、年間1千件弱程度に増えつつあるとはいえ、少数派である性別違和者のために全体のシステムをコストをかけて変更することに理解が得られるかというと、これもなかなか難しい。ひとり性別違和者だけの問題ではなく、いずれは異性愛・男女二元論を前提としたシステムから様々な結婚観、様々な性別観に基づくシステムへの変更も必要になるのではないかと考えられるが、国民全体のコンセンサスを得るまでには、まだしばらくの議論が必要なのではないだろうか。


 小山の家でも事情に詳しくなった後でそんな話も出るようになるのだが、それは戸籍訂正が実際に行われるのが近くなった頃のお話で、その頃にはもう小山は大学生になっている。こういう事をいろいろと主にインターネットを中心に情報収集するのは、昔からパソコンが得意な拓斗の役割だった。そうして集まった情報を基に父と母が相談して、主に母が中心となって動く。それが基本的な流れだった。

 お話は、小山が小学校の頃まで遡る…。




 小山は小学校の頃から、ちょっと変わった児童だった。幼稚園の頃から女子とばかり遊んでいたのも多少の心配はされていたのだけれど、小学校に入っても同級生の男子の友達はできなかった。休み時間も校庭に遊びに出る事もなく、教室でおとなしく過ごしている事がほとんど。3つ上の拓斗の事はいつも『兄さん』と呼んで後ろをくっついて歩いていて、拓斗の友人達からは弟分として可愛がられていた。年下の要保護対象としてはどこか心をくすぐるものがあったらしい。

 低学年の頃から、女子とばかり仲の良い変な奴とからかいの種にされていた。だが3学年上に結構立場の強い兄がいるという事実は、一応ちゃんとそうした事への重石になっていた。拓斗が小学校を卒業し、小山が小学四年生になるとそれもなくなり、だんだんとからかいからいじめへと悪化していくのだが。

 その頃には既に小山は『何か違う気がする』という程度に疑問を抱いていて、何がどう違うのかと悩んでいた。男子と言われると強力に嫌な感じがするけれど、その嫌悪感がどうして出てくるのか、自分でもよく解っていなかった。よく解らないけれど何か今の自分は違うような気がする、でも違うって言っちゃいけないのかな、などと、子供なりに必死に考えていた。


 そんなある日のこと―


 拓斗が中学校から帰ってくると、自宅の居間で母がしきりに小山を慰めている。

「ただいま。…何かあったのか?」

 そうたずねる、今は中学校二年生の拓斗。

「実兄さんが泣いてるの。またいじめられたんだって…。」

 様子を近くで見守っていた、小学校二年生の美琴が答える。この頃の美琴は兄さんが二人いるので『拓斗兄さん』『実兄さん』と呼び分けていた。小学校二年生ではあるけれど、知識として『いじめ』は『いけないもの』だと知っているし、それが自分の兄に向けられたと知って不快に思ってもいる。意識してそうしたこともなければされたこともないので、実感として解っている訳ではないのだが。

「…どうして…。」

 しゃくりあげながら、小学校五年生当時の小山が母に訴える。

「…どうして、私は女の子じゃないの?」

「え?」

 母としてはどういう文脈でこういう話が出てきたのか、とっさに理解できなかった。普段聞いている様子から、同級生たちから『男らしくない』だの『女々しい』だのとからかわれている事も解ってはいた。いっそそうからかわれて嫌な思いをするくらいなら女の子になりたいという事かしらと、無意識的な逃避願望の表れとして一旦は受け取った。だが『あなたは男の子なのよ?』と言い聞かせても、小山は一層泣くばかりで一向に落ち着かない。

 一つ溜息をついて、キッチンで小山のカップに牛乳を入れ、粉を溶かしていちごミルクを作る拓斗。できたものを居間に持ってきて、机の上に置く。

「ほら実、いちごミルク作ってやったぞ。ちょっと飲んで落ち着け、な?」

 まだぐすぐすと泣きながらではあるが、つられて椅子に座る小山。母も拓斗も美琴も座り、小山がいちごミルクを飲んで落ち着きを取り戻すのを待つ。

「落ち着いた? ゆっくりでいいから、話を聞かせてちょうだい?」

 落ち着いてきたところを見計らって、母がそう促す。

「えっとね…。」

 言葉を探しながら、ぽつぽつと話し出す小山。前から自分は男子という感じがしなかったこと。男子グループの中にどうしても入れないこと。数少ない女子の友達とは仲良くできること。お料理とかお裁縫してみたいけれど言い出せなかったこと。皮膚の出るような服装が嫌で仕方がないこと。女の子たちの服装がうらやましくてしょうがないこと。男子トイレに行くのが嫌なこと。男子の話す品のない話に嫌悪感があってどうしようもないこと。結構いろいろ出てきた。

「…それでね、お母さん。私ね、自分が女の子なんじゃないかなって思うの。」

 そう小山はまとめる。余談ながら、小山があの妙に丁寧な口調になるのはもうちょっと先のことになる。いじめが悪化して自分の抱えているものを理解して、それとともに自尊感情が低下して行くのに比例…いや、反比例だろうか…して、そうなってゆく。

「…性同一性障害て奴かな?」

 困って沈黙する母に代わって、拓斗がそう口を開く。母も何となく聞いた事はある。けれども、細かな事まで知っている訳ではもちろんない。そういう人たちもいると他人事に考えていたのが現実で、いざ直面してみると表面的な事しか知らないと気づかされる。よほど医療や時事問題に関心のある人でもなければ、大体そんなものだろう。

「…詳しい事、解る?」

「いや、俺もそこまでは…。でもまあ、調べてみるよ。」

 母にそう答える拓斗。一緒に座っている美琴は、何を話しているのかあんまり解っていないのだけれど、雰囲気からして割と深刻なお話なのだろうという程度には察している。断片的な理解ではそうすると実兄さんじゃなくて実姉さんなのかなと思っていたりする。そういえばおままごとするといっつも実兄さんはお母さんだったな、たまには私もお母さんしたかったんだけど、などと思い出している。

「落ち着いたか?」

「うん、ありがとう、兄さん。」

 そう拓斗に答える小山。んー、確かにちょっとなよっぽいかもなあ、でもまあ昔からそうだったかな、あんまり深く考えた事なかったなあ、そう考える拓斗。ま、調べてからじゃないと解らねぇか。部屋でパソコンで調べてみよう、まずはそれからだな。そう判断して、小山の頭をぽんぽんと撫でる。

「ちょっと待ってろな、兄ちゃんが調べてやるからな。」

 さっそく自分の部屋に向かう拓斗の背中を、小山は頼もしいものを見る目で見つめていた。


「調べてきたよ、母さん。」

 なんだか結構たくさんプリントしたものを持って、拓斗が居間に戻ってくる。

「とりあえず実、これやってみてくれるか?」

 そう取り出したのは『性同一性障害診断チェックリスト』なるプリント。ネット上に出回っているこういうものがそのまま医学的診断に使える訳では必ずしもないのだけれど、何にも判断基準がないよりは良い。やってみて疑わしいかなとなったら、専門医に相談すれば良いという流れを作れる。一応そういう事で、どこの病院にかかれば良いのかも調べてきた。

「仙台だとこの病院が一応診てるみたいだよ。」

「ここって紹介状必要じゃなかったかしら…。何科なの?」

「えっと、精神科みたいだな。」

「え…?」

 割とある話かもしれないが、我が子が精神科にかからないといけないと言われるとショックを受ける親もまだまだ多い。実際のところ、発達障害も扱っているのは精神科や心療内科が多く、精神科にかかっているすなわち精神障害持ちとは言えないし、そもそも精神障害にもいろいろある。病院にかからないといけないと言われて喜ぶ人もあんまりいないのは確かだろうが、それが精神科だからとそうネガティブに捉える必要もないのだが、世間一般的になんだかちょっと印象が悪いのは否めない。病院の方もそういう雰囲気を察して、表立っては神経科を標榜している事もある。

「ねえ兄さん、これなあに?」

「ん? えっと、これは『かんじょういにゅう』って読んでな、えーっと、なんて説明したら良いかな…。」

 小山に聞かれて、ちょっと迷う拓斗。辞書的な意味は調べればすぐに出てくるのだけれど、小学五年生に解るように説明せよと言われるとなかなか難しい。どうしたものか。

「んとな、そうだな、男のキャラと女のキャラと、どっちの気持ちがよく解る?」

 どうやら拓斗はこまごまとした意味を説明するより、ざっくり質問の趣旨を抜き出して聞き取りする方向に行ったらしい。ちなみに設問は『漫画やアニメなどで、男性キャラより女性キャラに感情移入しやすい』となっている。

「えっとね、男の人の気持ちはよく解らないけど、女の人の気持ちは何となく解ると思う。」

 そう答える小山。もっともまだ第二次性徴前のいろいろと未発達な時期、解らない事の方が多いのだが。

「…近くに精神科ってあったかしら。」

「それも調べてみるよ。」

 先程のショックからようやく立ち直った母が、拓斗にたずねる。拓斗自身はまだそれほど世間一般というものを解っていない時期でもあって、精神科に通院する事が招くかもしれない偏見には注意を払っていない。

「ねえ兄さん、これは?」

「ん、どれだ…? …あー、ええと、その、何だ。とりあえずこいつは飛ばしてくれ、実にはまだ早い。」

 小山に聞かれて、もうちょっとよく中身を見てから渡せばよかったかなあ、と頭をかく拓斗。ちなみに設問は『自慰の時に女性側で想像する』だったりする。早い子なら小学校五年生でもあるかもしれないが、あんまり解っていなさそうなところに教えるのもと飛ばすことにした。とは言ったものの、しっかり割と特徴的に出てくるところではある。性同一性障害とともに性嫌悪を持つ者もいるので、そういう場合は触れるのに慎重な配慮がいるのだが。

「兄さん、これは?」

「…解りやすく言うとあれだな、女子の格好したいかって聞いてると思ってくれ。」

 なんかやっぱりこれ渡したのは間違っていたのではないかと、右手で頭を抱える拓斗。設問は『女装コスプレしてみたいか』なので、それとなく意訳されている。これ本当に信用できるんかとちょっと疑う拓斗だったが、これはこれで一応意味が無い質問でもなかったりする。女性的な格好や身分、職業等々に憧れを抱くかという意味合いも多少は含まれていて、設問の字義からするとふざけているようにしか見えないのだが、掘り下げてみるとそれなりに深い理由はある。

「壁ドンってなあに?」

「…こーいう奴だな。」

 ちゃんと中身読んでよく考えるべきだったと後悔する拓斗。仕方がないので美琴に壁の前に立ってもらって実演してみせる。後年の成長した美琴なら似合わないとこき下ろすところだろうが、まだこの頃は小学校二年生、さすがにそこまでは言わない。様子を見てびくっとする小山。慌てて首を振る。

「ん? 嫌なのか?」

 そう聞かれて、何回も首を縦に振る。小山目線では、男性に強気に迫られてときめく瞬間としてではなく、いじめっ子が壁際に追い詰めてきてもう逃げられない状態にしか見えていない。ごく当たり前のことながら、そんなものは嫌だ。という事でこの設問は×になった。さすがに誰もこの小山の認識のずれには気付かなかった。

「ん、やっぱ〇ばっかりだな。×なの最後の一個だけじゃないか。」

 『壁ドンされてみたい』が最後の設問だった。たぶんこのチェックリストを作った人は『女子が憧れる胸キュンシチュエーションにときめくかどうか』という意図でこの設問を設けたのだと思われるのだが、いろいろとこれはツッコミどころがある。そもそも女子がすべからく壁ドン大好きだと言い切れる根拠がないし、MtFの性同一性障害だからと絶対男性が恋愛対象だと言い切れるわけではない。性同一性障害と一緒に男性恐怖症を持っていた場合などはもうこれは単なる恐怖でしかない事も考えられるし、小山はその傾向がある。とても深読みすればそういうところまで聞き取るきっかけにできる設問ではあるかもしれないが、なかなかそこまで結びつけるのは難しいだろう。

「…これで診断が決まる訳じゃないのよね?」

「うん、そうかもしれないって目安だってさ。」

 拓斗にたずねる母の顔は白い。取り乱したり話も聞かずに否定すれば実が悲しむと思って何とかとどまっているものの、にわかに信じられない、信じたくないという思いはやっぱりある。

「…少し、考えさせてね。」

 そう言って母は席を立ち、自分の部屋にこもってしまった。




 週末、母は兄妹三人を連れて、自分の実家を訪ねていた。父に相談する前に実家の両親、小山から見て祖父と祖母に相談して、どう話したら良いのか何を話したら良いのかまとめたかったのだ。兄弟の相手は小山達から見て曾祖母が、庭で相手をしてくれている。

「…という訳なのだけれど、どうしたら良いのかしら…。」

 困り果てたという様子で溜息をつく母。祖父は黙ってお茶をすすり、祖母は目を閉じて考え込んでいる。しばしの沈黙。

「…ちゃんと診てもらうしかないんじゃないか。」

 湯呑みを口に当てたまま、祖父がそう。それはそうなるだろうことは母も理解はしている。理解はしているけれど、感情の方がまだ整理がついていないし、事が事だけに親戚にどう話すかという問題も出てくる。これから父や父の実家とも話をしないといけない。その前に自分の実家くらい味方につけておきたいし、自分の感情も何とか整理しないととても立ち向かえない。複雑な思いがそこにはある。

「…やっぱり、そうなるわよねえ…。」

 そう答える母。また、溜息。溜息をついたところで状況が改善する訳ではないけれど、ほかにやりきれなさの向く先もない。頭から否定して小山を叱り飛ばすことはできる。でも様子を見ていると、どうも今までずっと溜め込み続けたものをようやく話してくれたようだし、それをそういう事をするというのも良くないと思う。理性と感情の争いはきわどいところで理性が勝った。

 静まり返る一同。縁側のガラス戸が開く音がして、曾祖母が上がってくる。ちょっと見ていてねと拓斗に弟妹を託して。

「お母さん、あのねえ…。」

 曾祖母が座ったのを見て、祖母がそう話を始める。母の説明はまだこなれていなくて行ったり来たり重複もだいぶあってちょっと大変だったのだが、一通り聞いて整理したうえで、説明して行く。

「…子供はね、どうしたって子供でしかないんだよ。」

 話を聞いて、曾祖母が口を開く。それだけでは何のことか解らず、続きを待つ三人。

「親があれこれ理想を持つのは勝手だけどね、それをいくら当てはめようとしたってそりゃ無理さね。子供は子供で、親の自由になるもんじゃないんだよ。まずそれを解ってやんなさい。」

 子供は子供、親の自由にはならない、か…。そう考える母。小難しく言えば子供の人格は親から独立したものだという話になるのだろうが、曾祖母はそういう哲学的学術的な事を言いたい訳ではない。親の理想を子供に押し付ける事の無理を指して言っている。こう育ってほしい、こういう事を身に着けてほしい。そういう方針や希望を持つのは悪い事ではない。でもそれが行き過ぎると…時には、悲劇につながる事もある。そういう危うい面をはらんだ問題ではないのかという問いかけも、そこには含まれている。

「…あの子の良い様にしてやるのが一番じゃないかね。うちの連中の事は心配しなくていい、ばあちゃんがうまく言っといてやるから、な?」

 そう続ける曾祖母。もちろんここで言っている『うちの連中』は『母方の親戚連中』の事だ。曾祖母は親戚の中でも最年長という位置にいて、ある程度以上の影響力はある。そういう人が理解して後を押してくれるのは、とても心強い。

「…ありがとう、おばあちゃん。」

 ようやく、母の顔に少し笑顔が戻る。曾祖母は、孫もひ孫もかわいいのさ、と笑っていた。




 それから程なく、母と小山と拓斗は、同じ区内にある精神科を訪れていた。普通の医院と変わらない受付、思ったよりも普通で静かな待合室に、ちょっとホッとする母。

「電話で予約をお願いしました小山ですが…。」

「はい、承っております。初診になりますので、問診票にご記入いただけますでしょうか。」

 受付の女性からそうクリップボードに載せられた用紙を渡される。待合室の椅子に座って記入しようとして、ちょっと面食らう。成育歴や家族構成、性格の傾向など、何に使うんだろうと疑問に思う。こういう事になるのは親にも問題があるという事なのかしら…と心配してしまう。

 実際のところ、遺伝的要因も成育歴のような環境的要因も、性同一性障害との因果関係ははっきりしていない。一説には受精した段階で性染色体によって遺伝子的な意味での性別が決まり、それに従って身体的な性別が分化する一方で、脳の性別は妊娠中に起こるアンドロゲンシャワーの有無によって決められると言われている。ここで齟齬を生じることがある、という訳だ。その結果として脳の特定の部位の大きさが変わるという説もだされているのだが、まだはっきりとした定説は存在していない。今後の研究が待たれるところだ。


 とにかく解る事を記入して受付に返してしばらく待った後、診察室に呼ばれる。何となくどこか異質な雰囲気に気圧されたのか、小山は拓斗の左手に抱き着いていて、少し怯えた様子を見せている。ぽんぽんと頭を撫でて、診察室に連れて行く拓斗。続いて診察室に入る母。

 看護師が椅子を用意してくれて、とりあえず座る。何からどう話したら良いのか、なんだかあんまり見当がつかない。

「小山実さん、ですね。一緒にいらしたのはお母様と、お兄さんですか?」

 とりあえずそんなところから、医師の問診が始まる。主訴はもちろん性別の違和感についてなのだけれど、家族のことや幼稚園から小学校での様子も聞かれる。何がどういう風に診察に関わってくるのかよく解らず答えて、医師から言葉を変えて同じ内容の質問が繰り返される事も出てくる。初診はどうしても何かと時間も手間もかかる。

 通り一遍の事を聞き終えて、医師が難しい顔をする。

「…そうですねえ、疑わしいように思いますねえ。もっと詳しく診てもらう必要があると思うんですが…うーん…。」

 ここでは診られないとなれば別の病院を紹介という流れになるのだが…どこに紹介したら良いものか、という問題が出てくる。ちょっとお待ちくださいねと前置いて、電話をかける。

「…はい、小学五年生のお子さんで、主訴は…ええ…はあ、そうですか…はい、解りました。ありがとうございます。」

 眉間にしわを寄せて、電話を置く。電話をかけた市内の病院からは、成人の性同一性障害を診たことはあるが、児童のものは診断を出すことが難しく、治療も行えない、という答えが返ってきたのだ。

「…紹介先は、首都圏でも大丈夫でしょうか。」

 そう確認する。専門のジェンダークリニックにかかるべきということだったのだが、一番近くてもそこまで行かないといけない。不便だが、他に方法もない。同意を得て、改めて電話する。似たようなやりとり。違うのは安心したように微笑んだところ。

「了解が取れました。こちらのクリニックさんに紹介しますので、電話で予約を取って、紹介状を持って受診してください。」

 という事になった。三人は医師にお礼を言った後、受付でお会計を済ませて紹介状を受け取り、重い雰囲気を纏って家路についた。




 それから数か月過ぎて、母と小山は東京駅に降り立った。平日で学校があるので、小学校を休んでの通院だ。さすがに拓斗や美琴を休ませて連れてくる訳にも行かず、今回は二人だけ。東京の地下鉄は多すぎて訳が解らないと思いながら、何とか紹介されたクリニックまで辿り着く。

 待合室に通されて、何とか顔に出すのは堪えたが、ぎょっとする母。疲れた顔をした自分と同年代の人が手鏡を持ってお化粧を直しているかと思えば、こちらには元気な雰囲気の小柄な男装のどちらだかあまり解らない人もいる。どう見てもウィッグだと解るものを被っている女性装の人がいるかと思えば、ほとんど坊主頭まで髪の毛を短くした人もいる。何がと一口には言えないのだが、どこか異質なものを感じてしまう。別に母はその人達に嫌悪感を抱いたわけではなく、ただ子供の行く末を不安に思っただけのことだ。どうもこれはやはり生半可な事ではないらしいと、改めてそこから感じ取る。小山もきょろきょろしているが、じろりとにらみ返されてすくみあがる。睨んだ方としては、最近の子供はこんな小さなうちからちゃんと医者にかかれて良いね、くらいの思いだろうか。そういう人ばかりではないが、どこか怨念にも似た思いを抱え込んでしまう人も、中にはいる。

 しばらく待った後、診察は順調に進み、小山も問診にひとつひとつ答えて行く。おままごとやお人形遊びといったよくあるエピソードも出てくる。お父さんよりお母さんになりたいなんて話もあった。問診を重ねた上で、今後も定期的に通院するようにと指示が出て、次回の予約を取って、初診は終わった。




 定期的に首都圏まで通院に通う事になり、近々治療にも高額なお金がかかることが解って、母はパートに出ることになった。子供三人を抱えて、父の収入だけでやりくりするのは、なかなか難しかった。小山はそんな母の姿を見て、自分がわがままを言って困らせてしまったのではないかと、子供心に自分を責めた。学校では同級生からいじめられ、家では罪の意識にさいなまれる。それは次第に小山の心を蝕み、精神を変質させていった。

 いつしか小山は一層の引っ込み思案になり、誰に対しても丁寧語で話すようになり、自分の意見を言わなくなった。自然な笑顔も、消えた。



 そうしているうちに六年生になった小山のもとに、悲報が届く。慕っていたし、擁護もしてくれた曾祖母が亡くなった。父と母は手伝いと弔問客の応対に忙しく、泣く小山と美琴を、拓斗が両脇に抱え込んでいた。

 小山はこの日まで、曾祖母の名前を知らなかった。ずっと『おっぴさん』としか呼んでいなかったから。大好きだった曾祖母の名前は、小山の心に印象深く刻まれた。




 喪が明けて、また通院。医師から通称名を決めましょうという話が出て、母はしばらく考える。何か良い名前があるだろうか。とりあえず次回までに決めてきますという事で、一旦持ち帰る。


 仙台に帰って、夕食の後に父も一緒に話し合う。

「名前か…そうだなあ…。漢字だけ変える、という訳には行かないか。」

 そう父が言い出し、『真琴』と紙に書いてみせる。小山は黙って何も言わない。

「…どうも、嫌みたいだよ?」

 様子を見て、拓斗がそう。はっきり好き嫌いを言わなくなった小山だが、そこは日頃ずっと接している兄、嫌だけど嫌だと言えないでいるのは何となく解る。

 いろいろ案は出たのだが、どうも決め手がない。何の気なしに、父が『絢子』と書く。

「…それが良いです。おっぴさんと、同じ名前。」

 ぽつっと小山が言い、父と母は顔を見合わせる。

「そうか、絢子が良いか。小山絢子か、まあ悪くない響きだな。」

「…そうね、それが良いというなら、そうしましょうか。」

 少し安心したようにうなずき合う父と母。

「そっか、絢子か。んー、まあ、良いんじゃねぇの。」

「んっと、じゃ、実兄さんじゃなくて、絢子姉さんなんだね?」

 そう拓斗と美琴。この時中学三年生の拓斗は事態をおおむね飲み込んでいたが、小学三年生の美琴は細かい事までは理解できていない。でも自分の下の兄が実は姉と言う方が近い事は何となく理解できた。最初のうちは美琴はそのまま『拓斗兄さん』と『絢子姉さん』と呼んでいたのだが、やがてもう兄さんは一人になったのだから名前を付ける必要がない事に気付き、短縮して『兄さん』と『絢姉』に呼び方が変わる。


 こうして、小学校六年生の頃、小山実は密やかに小山絢子になった。

 社会生活も切り替えになるまでは、まだしばらくの時間を要する。


今回はだいぶ真面目な雰囲気になりました。

診断・治療・手術・戸籍訂正と進もうとすると、避けて通れないお話がどうしても出てきます。

特に「特例法」についてはずっと高校時代の話が中心だったこともあり、どのシーズンでも詳しく取り上げていませんでしたが、姫こと小山の家族構成だと解りやすく問題が起こる事から、取り上げました。

掲載時点での状態だと、3つ年上の二女と、年下の長女という明らかに不合理な記載が起こります。

おかしいでしょうと言うのは簡単なのですが、いろいろ考えると簡単にはいかない入り組んだ構造が出てきます。

私達当事者はどうしても当事者中心主義で考えてしまいがちなのですが、冷静に一歩退いて見るとすり合わせないといけないことがいっぱいある事に気付くことも、やはりあるのです。

特例法の件は、その一例でした。


本編の前日譚にあたる部分では、姫が通院することになった事情と、ああいう人格になった背景を、やや駆け足ながら描いて行きました。

基本的には、人物設定をした時点で作っていた設定通りです。

小さな頃からこの兄妹は仲が良かったみたいです。ちゃんと兄様が兄様してます。

ちょっと残念なところもある人ですが、基本的に良い兄です。

ついでに言うと、まだ美琴さんが兄さんに厳しくない様子。もう少し育つとだんだん毒を吐くようになります。


家族の話という事で、親の対応という部分にも焦点を当てましたが…。

「第三者・他人」なら許せても「家族・身内・血族」では許せない、という人も、中にはいます。

姫のお母さんもだいぶ葛藤があった様子ですが、何とか折り合いを付けた様子。

兄妹は割とすんなりいっていますが…。

当の本人の意思だけでは何ともできない部分もやっぱりあって、本人だけ医者にかかってそれで万々歳とは言えない事もやっぱりあります。

ケーズバイケースで対応していくしかないことではあるのですが、それだけに難しい部分があります。

性同一性障害の診断や治療に直接かかわる部分ではないので、見落とされることもあるのですが…。


性同一性障害診断チェックリストや診断テストは、ネット上でも簡単にいくつか見つけることができます。

どのくらいアテになるのかと言うと…細かい事を言いますと、医学的な診断基準と直にリンクした質問はあんまり書かれていないことが多いようです。

診断基準が結構解釈が難しくて、どうなのだかよく解らない事も大きいのかなと…。

調べたところ、解りやすく典型的なMtF・FtMのケースを主軸に書いてある例ばかりでした。

兄様が設問に疑問を抱いていますが、まったく意味のない設問ではなかったり…。

設問の裏まで読めるかと言いますと、難しいでしょうけれど…。



※おっぴさん

宮城県の方言で、曾祖母と曽祖父の事を指してこう呼びます。

「ぴいちゃん」と言われることも。

姫達兄妹は普段曾祖母をこう呼んでいたみたいです。

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