第127話 ~冷や水を浴びせられた沙樹子さん~
第127話 ~冷や水を浴びせられた沙樹子さん~
夏休みが終わりまして、今日から学校再開なのです。当然授業も再開されますから、頭を切り替えて行きませんとね。長期休み明けだからとボケている訳にも参りません。もっとも私は普段からどこかボケていると評されているのですが。私自身はそんな事は無いと思っているのですが、主観的評価と客観的評価というものは往々にして一致しないというお話をどこかで聞いたことがありますね。これはきっとその類のものでしょう。
「お、我が家の料理長は今日から学校か。」
朝食の用意をしていましたら、兄様ですよ。制服を着ていたら解りますよね、それは。
「ええ、夏休みも昨日で終わりです。宿題を忘れずに持って行きませんとね。」
「んだな、提出しないと点数にならねぇもんな。」
至極もっともなお話をする私と兄様でした。
さて自転車で登校です。いつもの信号待ちが長い交差点で停止中ですよ。何か嫌な予感が。
「姫ちゃん♪」
出ましたよ沙樹子さん。大体いつもここで会うのですよね。今日は会うって言いましたからね、遭うとは言いませんでしたからね。内心の声までは聞こえないでしょうけれど。
「おはようございます、沙樹子さん。今朝もまた上機嫌ですね?」
「ええ、だって今日から学校でしょう。ようやくまたちゃんと文子ちゃんと会えるのよ。絵理ちゃんに希ちゃんもついでに♪」
…ツッコミ所ですよね、これ?
「お友達をついで扱いは感心しませんね?」
「あら、言葉尻を捕らえるなんて姫ちゃんらしくないわね? さらについでに言えば井上君とも堂々と会えるのよ?」
えっと、彼氏さんは『さらについでに』扱いですか。相変わらず沙樹子さんは女子至上主義ですね。だんだんなんだか彼氏さんの井上さんが可哀想になってきたのですが…。それでも夏休み中せっせとお弁当を作って行っていたあたり、大事にはしている…のでしょうか。何か沙樹子さんですと、少々疑わしい気持ちになってしまうのは何故でしょうね。
「彼氏さんを『さらについでに』とおっしゃるのは更に感心しませんが…。」
「あら、彼氏最優先で友達をないがしろにするよりは良いと思うのだけど。」
うーん、まあ、そうと言えなくもない…のでしょうか、これは? 何かちょっと、取って付けた理由のような気がしなくもないのですけれど。気のせいでしょうか。
「それじゃあお先にね~♪」
信号が変わったところでご機嫌に先に行かれましたが…。何か不安の残る会話でしたね。休み明け早々、何かやらかさないと良いのですけれど、沙樹子さん。
さて学校に到着ですよ。例によって昇降口で汗を引くのを待ちましょうね。
「あら姫、おはよう。いつも通りの風景ね。」
「あ、おはようございます、菜々子さん。」
あいさつをしまして、少し立ち話になる私達です。
「姫はちゃんと提出課題は持ってきたかしら?」
「ええ、忘れると嫌ですから、全部まとめて持ってきて、ロッカーに入れておく予定ですよ。これなら忘れませんから。」
笑顔で答えましたら、なんだかくすっと笑われてしまいました。
「用意が良いのね。私もそうすれば良かったかしら。」
そう微笑む菜々子さん。菜々子さんも自然な笑顔が増えましたよね。きっと良い事なのでしょうね、それは。
「やあ、おはよう、姫、女王陛下。夏休みを経てもお変わりなく…いやいや、夏を経てさらに麗しさに磨きがかかったかな? 姫はより可愛らしくなったし、女王陛下は更に美しくなられたように思うよ。さすがにうちのクラスが誇る美しき花たちだね。」
…もちろん毛野さんです。ですから昇降口でですね、そういう事を言いますとね、全学年に広まりますからね?
「女たらしの駄犬は夏を経てより一層言う事が悪化したのではないかしら。暑さで発酵が進んだのかしらね?」
「腐敗が進むよりは良いのではないでしょうか…。」
菜々子さんの言葉にフォローを入れてみたつもりなのですが…何のフォローにもなっていませんね、これは。
「おっす、なんかこうやって会うのも久しぶりだな。変わりねぇか?」
あ、木島さんも今到着のようです。
「木島君の目は節穴かい? 姫がより可愛らしくなっている事にすら気付けないとは。」
「…毛野さん、いい加減恥ずかしいですから止めてください。」
さすがに止めましょうね。
「うんうん、姫はそうやって恥ずかしがるところも可愛らしいよね。褒められてもそれを鼻にかけないところがまた良いと思うんだ、僕は。」
なんだかもう、暖簾に腕押しですよこれ。さっぱり手ごたえがありません。
「朝から何をやっとるのだ毛野は…。必要なら保健室から氷のうをもらってきてやるぞ。おはよう皆。ひとまず元気そうで何よりだな。」
ツッコみながら到着の工藤さんです。いつもツッコミ役お疲れさまです…。
「こう暑いと冷感グッズの購入も考えてしまうな。お早う皆、休み明けでも息災で何よりだ。」
あ、柿沼さんも到着です。
「で、夏休み中に木島君の連敗記録は伸びたのかい?」
「ほんの15回程な。」
「すると通算185連敗かね。よく折れぬものだな。」
何か今度はまた不毛な会話を始めましたよ、毛野さんと木島さんと柿沼さんが。もう工藤さんは苦笑して見守っていますが。
「姫先輩、菜々子先輩、おはようございます。」
「…おはようございます、姫先輩、早島先輩。」
あら、中野さんに小鶴さん。
「おはようございます、お二人とも。」
「おはよう、きちんと宿題はできたかしら、二人とも?」
ちょっと先輩の顔になって、そう返す私と菜々子さんです。
「はい、無事に終わりましたよー。ちょっとぎりぎりでしたけど。」
「…私は少し早めに終わったので、夏期講習の見直しをしていました。」
そう中野さんと小鶴さん。
「それで、どうしてまた先輩方はこんなところでお話をしているんですか?」
至極もっともな疑問が中野さんから出てきましたよ。それは不思議ですよね。いつも通りの説明をする私です。
「あー、冷房ですか。確かに響きますよねー。私は上にカーディガン羽織ってしのいでますよー。」
「…私もです。クラスの男子が勝手に冷房温度を引き下げるものですから、困ってしまいます。」
中野さんも小鶴さんもカーディガンですか。まあ、私もなのですけれど。ブラウス半袖にしている分、カーディガンは必須ですよ。
「みんな考えることは一緒ですね、私も、ほら。」
鞄からカーディガンを出して見せる私です。
「やっぱり冷えますよねー。でも調理のこと考えると半袖の方が楽ですし。今日は活動日ですからなおさらですよね。」
そう中野さん。そうですね、夏休み明け一回目の活動日になりますね、今日は。
「…そういえば姫先輩、こちらの先輩方は?」
小鶴さんから、私達の話を見守っていた皆さんの事を聞かれました。お友達ですよ、と簡単にお名前を紹介します。皆さんも一言ずつあいさつをしてくれました。
「木島先輩って『あの』木島先輩ですよねー? 噂に比べると全然普通の人みたいですけど。やっぱり噂は噂ですね。」
中野さんがそんな事を。ええっと、一年生ではどんな噂になっているのでしょうね、一体。でも聞いたら木島さんが可哀想な事になりそうな気しかしませんよ。
「中野さん、騙されてはいけないよ。木島君はこれでいて185連敗の駄目な先輩だからね?」
なんか毛野さんが木島さんをけなしにかかったのですけれど。
「いやいや、中野さん、それを言ったらこの毛野もたらしこむようなセリフを女子に吐いて歩くけしからん奴だからな、近寄ったらだめだぜ?」
木島さんが反撃に出ましたよ…。何でしょうねこれ。
「…そういえば毛野先輩の事もお話に聞いたことがありますね。」
「小鶴さん、一体僕はどういう風に噂になっているのかな?」
…小鶴さん、そこで私を見るのはあれですよね、言って良いんですか、という確認ですよね。静かに首を振ってあげましょうね、毛野さんのために。
「…少々、ご本人にお話するには残酷な噂です。」
そう語るに留めた小鶴さんでしたが…まあ、充分破壊力はありましたね。大人しくて真面目な小鶴さんからのその一言ですから。
「一体どうしてそうなったんだい…僕は何も悪い事は言っていないはずなのに…。」
「先程からの会話が証明していると思うのだけれどね…。」
溜息をつく毛野さんと菜々子さんです…。溜息の理由は全然違いますけれどもね。
「男子同士の友人としては悪い奴らではないと言ってやれるのだがな、先輩として、あるいは男女の友人としてどうかは保障しかねる。あまり近寄らない方が良いかもしれん、こ奴らには。」
工藤さんは二人まとめて切り捨てにかかりましたよ。うーん、まあ、人として悪い方々ではないと思うのですが、もう立ってしまった評判が評判ですからね…。
「その割に姫先輩と菜々子先輩は仲が良いんですねー?」
中野さんが小首をかしげて。ええまあ、そうですね。
「ええ、去年まだ私が男子だった頃からの付き合いですから。」
「世の中腐れ縁というものもあるのよ、美亜ちゃん。」
方向性としては真逆に近い事を言った私と菜々子さん。
「…そういえば姫先輩は今年から女子なのでしたよね。全然、そんな感じはしないのですけれど…。」
あらためて小鶴さんにそう言われました。えっと、まあ、そうですね。私自身も特に振る舞いや言動を変えた部分というのは、実はなかったりしますから。
「ええ、もともとが男子らしくなかったですからね。あまり変えるようなところもなくて済みました。」
そう微笑む私です。うむ、とうなずく皆さん。
「それじゃ私は行きますね。また放課後よろしくお願いします、先輩方。」
「私も教室に参ります。姫先輩をよろしくお願い致しますね、先輩方。」
そう中野さんと小鶴さんは言い残して、先に行ったのでした。
「汗も充分引きましたし、私達も教室に参りましょうか。」
そう微笑みまして、私達は二階へと足を進めたのでした。
歴史の授業中。先生のチョーク投げが木島さんの机に激突します。思わずクラス中から拍手が…。見事な投擲でした、本当に。砕け散ったチョークが後ろの席の工藤さんにも降りかかるという二次被害が出ましたが。
「んあっ⁉」
あ、寝ていた木島さん、さすがに驚いて起きましたよ。
「当てていないから暴力ではありませんよ。世の中警告射撃というものがありましてですね、これは武力行使には当たらないのです。1987年12月9日には対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件という自衛隊史上初となる実弾警告射撃を行った事案がありましてですね…。」
あ、先生、また始まりましたよ。こういう小話、本当にお好きですよね。小話の方にばかり気を取られて授業の内容があんまり頭に入ってきませんから困ったものです。まあ、聞いていて楽しいので、私としては先生の事、好きなのですけれどもね。
「…という事で、寝ていましたら僕は容赦なく警告射撃をしますので。もしかしたら事故で当たるかもしれませんから、あんまり撃たせないでくださいね。」
にこやかにおっしゃる先生です。
「先生、当たったらどうするんですかー?」
「指導上の事故として処理します。怪我は負わせていませんから口頭の謝罪くらいで済むでしょう。」
クラスメイトからの質問に、さらりと答える先生です。えっと、当たり所が悪かったら危ないかもしれませんけどね。とりあえず、チョークが砕け散って飛び散るくらいの勢いで投げられていましたよ、さっきのは?
「先生、俺寝てませんよ?」
「木島君はとりあえず口から垂れたよだれを拭いてから言いましょうか。あ、袖で拭くんじゃありませんよ、ちゃんとティッシュで拭きましょうね。皆さん知らないかもしれませんが、教卓というのは意外なほどクラス中を見渡せますからね。クラウゼヴィッツが言うところの制高点という訳です。皆さんもたまにはああした古典の名作を読んでみてくださいね。」
何がなんだか解りませんよ先生。とりあえず高いところを制した方が有利という事ですか。それは何となく解りましたけれど。
「さてでは授業に戻りましょう。ふむ、時間を使いましたから少し端折りましょうかね。皆さん優秀ですから少々飛ばしたところで着いて来られるでしょう。」
ええっと、先生そんな、私達を持ち上げたふりをして暴論を言わないでください…。本当にこの学校の先生方は愉快な方が多いですよね。授業を受けていても退屈しないのです。良い事なのかどうかは解りませんが、とりあえず教科への興味は出て自分でも勉強する気は起きていますから、そういう意味では成功している…のでしょうか。
「まったく貴様は、寝ているからとこちらにまで被害が来たではないか。かかったチョークの粉を取るのにどれだけ苦労させられたと思っておるのだ。」
「いやそれ、俺の方がかかった量多いって。たまたまウェットティッシュ持ってたから良かったけどよ。分けただろ工藤にも。」
お昼休み、皆さんと学食でご飯を食べながら、そんな会話をする工藤さんと木島さん。
「まあ、チョークは硫酸カルシウムか炭酸カルシウムですから、口に入っても害はありませんよ。」
そう言ってみる私ですが…。
「いや、問題そこじゃないと思うよ、姫?」
毛野さんにあっさりツッコまれてしまいました。えっと、まあ、そうですね。
「そういえば姫に聞かねばと思っていたのだが、宇野嬢は調理部で大丈夫かね。我が部では井上君はかなりやっかまれているが。宇野嬢が学校に来るたびにお弁当とスポーツタオルとドリンクの差し入れを受けていたからな。彼女持ちの生徒からまで僻まれる有様なのだが。」
あらまあ、男子テニス部でも沙樹子さん有名人になってしまっているのですねえ…。良いのでしょうか、これは。
「ええっと、端的に言ってあんまり大丈夫ではないです。だんだん部員みんなの態度が冷ややかになっています。菜々子さんも友達辞めようかと言いながら、まだ付き合っていますがもう呆れかえっていますよ…。」
「ふむ、やはりそうかね。どうも宇野嬢には夢中になると周りが見えなくなる部分があると見える。普通はもう少し目立たないようにすると思うのだが…。」
私がそう言いましたら、柿沼さんが眼鏡を直しながら…。
「…そんなに目立っていたのですか?」
「普通ならばそっと休み時間に目立たぬところで待ち合わせをして逢引きしそうなものなのだが、我が部の活動場所に来て連れ立っていなくなっていたからな。井上君も可哀想なものだ、もう少し配慮をしてもらうべきだと思うのだが。」
あらあら…それはいけませんね。どちらも孤立してしまいますよ、そのうち?
「うーん、でも沙樹子さん言って聞くような人ではありませんからねえ…。私から注意して聞いてくれるのなら、いくらでも注意するのですけれども…。」
ちょっと自信がないのです…。でも言わないよりはましでしょうかね、万に一つの可能性くらいはあるかもしれませんしね。
「今んとこ部活の中でしか広まってないのが救いかねー。これがクラスとか学年で広まったら大変だぜー?」
「貴様みたいにな、木島。」
「だから工藤は一言多いんだよ!」
うーん、でもそうですねえ…。今日の放課後会いますし、ちょっとこの後菜々子さんとも相談してみましょう。
という訳での放課後、調理室にて。
「お疲れさまです。」
「はいお疲れさまー。また宇野さんが上機嫌で鬱陶しいんだけど、何とかならない?」
小早川部長、もう声を潜める事すら止めたのですか。仕方ないですけれど…。
「お疲れさまですー。沙樹子先輩何してるんですか、またお花畑増えたんですか。顔が緩みまくりですよ。」
あら、中野さん来て早々に。
「聞いてくれる?」
「もう惚気なら聞きませんよ。」
笑顔で言いだした沙樹子さんに、あっさり答える中野さん。まあそうですよね、いい加減砂糖を吐きすぎて体内のエネルギーが無くなっていますよ、皆様。
「今度は惚気じゃないのよ?」
「沙樹子先輩ですから、どうせまたろくでもない事ですよねー?」
断定している中野さんです。まあ、仕方のないところですけれども。この夏、まともなセリフを言った回数の方が少なかったですから。
「文子ちゃんに注意されちゃったのよ~?」
「…注意されて、なんでそんなに上機嫌でいられるのよ。」
今度は菜々子さんがツッコみましたよ。そうですよね、普通はへこむところですよね。
「それがね、彼氏さんのお話ばっかりしていると周囲を敵に回して友達いなくなるよって。文子ちゃんたらそこまで私の事を心配してくれたのよ、これが嬉しくなくてどうするのよ?」
…えっと、とりあえず私から注意する手間は省けたという事で良しとして良いのでしょうか、これは。一番効果のありそうな方から注意が出たという事ですから。
「普通は反省してへこむところですよね、そこは…。」
あーあ、と大きく溜息をつく中野さん。小早川部長も頭を抱えていますよ…。
「…結局惚気じゃない…。」
そうですよね、私もそう思います、小早川部長…。
「だって嬉しいじゃないですか、私の事を気にかけてわざわざ注意してくれたんですよ? 私に愛情を注いでくれたんですよ? ついに私の愛にこたえてくれたんですよ? これが嬉しがらずにいられる訳がありませんでしょう?」
…何かもう頭痛がしてきました。
「菜々子さん、痛み止めいかがですか?」
「あら姫、ありがとう。頂くわ…。」
二人で揃って痛み止めを飲む私と菜々子さんです。
「ごめん姫ちゃん、私にもくれる?」
「はい、良いですよ、部長。」
文字通りの頭痛の種ですよ…。
「…ちょっと頭痛が収まるまで部活動始めるのは休ませてもらえるかな。今日はそんなに時間のかかる調理じゃないから。」
小早川部長、そんなにこめかみをぴくぴくさせながらおっしゃらなくても…。
「その間この馬鹿娘は準備室に放り込んでおきましょうか?」
「そうだね、近くに居たら治まる頭痛も治まらないかも。」
菜々子さんも小早川部長も頭を押さえながら…。
「お疲れさまですぅ。」
「お疲れさまだよっ。あれ、どうしたんですか部長、そんなに深刻な顔をされてっ?」
あ、波奈さんと有紀さん。
「…あなた達だけでも普通でいてちょうだいね、このままだと本当に安心して引退できないよ…。心配ばかりかける後輩がいるものだから…。」
「まあ、部長にそんなに心配をかけるなんて一体誰ですか、そんなにいけないことをする人は。そんな人は私が許しませんよ?」
…あのですね沙樹子さん、自覚無しですか。もう本当、知りませんよ。
「ねえ美春、目をつぶっていてくれる?」
「見逃さなくても、自覚を促すための指導という事で認可するよ。」
そう会話をしています小早川部長と吉川副部長。
「二年生、宇野さんが逃げないように確保!」
「はい!」
四人でがっしり両脇から沙樹子さんを抱え込みます。なんかもう手馴れてきましたよ。
「少しは真人間になりなさい!」
ぱかーん…。
「あうっ…。うう、部長から85回目の愛を頂いてしまいました…。」
「記録は残していないけれど、たぶん私が歴代で一番お玉を振るった部長になってるんじゃないのかな。なんか凄い嫌な称号なんだけど。」
なんだか全然反省していない様子の沙樹子さんと、頭を抱え込む小早川部長。まあ嬉しくないですよね、『歴代お玉最多記録』なんて…。
「とりあえずお茶入れましたから、少し休憩してください、部長。沙樹子先輩の馬鹿に付き合っていたらきりがありませんよー。」
中野さんがそう言って、小早川部長に紅茶のカップを差し出していますよ。
「ありがとうね中野さん…。まったくもう、後輩のあなたはこれだけしっかりしているのに、どうしてこの娘はこんなに駄目なのかな。私の指導が悪かったのかな。」
「いえ、小早川部長で駄目でしたらどなたでも駄目でしたと思いますよ。詰まる所はこの馬鹿娘本人の責任です。」
紅茶を渋い顔で飲まれる小早川部長に、そう片手で頭を押さえながら菜々子さん…。
15分ほど休憩している間にも、沙樹子さんは秋山さんの話題をとうとうと語り続けたのです。
「結局鬱陶しいのは変わっていないじゃない、沙樹子。」
「まあ、私の文子ちゃんの事が鬱陶しいだなんてひどいわね?」
「鬱陶しいのは秋山さんじゃなくて沙樹子よ…。」
菜々子さんと沙樹子さんがそんな言い合いを。でももう私もまともに取り合いませんからね。聞き流しますからね。ああもう、頭が痛いです。
「それじゃそろそろ部活を始めますよー。今日は文化祭で売るクッキーの作り方をやるからね。しっかり覚えてね。」
やや調子を取り戻されたらしい小早川部長がそうおっしゃって、夏休み明け最初の部活動が始まったのでした。
やれやれもう、最近の沙樹子さんには本当に困ったものですね…。どうしてこうなってしまったのでしょうね、一体。本人が幸せなのは良いですけれど、それでなぜ周囲にこうも迷惑をかけて歩いてしまうのやらです…。
少しは改善してくれると良いのですけれど…。
夏休みが明けて、学校再開です。姫は相変わらず昇降口で汗のひくのを待っています。
そこにみんなが合流してくるのも一緒ですが、今回は後輩二人も一緒になりました。
沙樹子さんは秋山さんから冷や水を浴びせられて、少しはのぼせ上った頭は冷えたみたいですが…。
…今度はまた秋山さんの事でのぼせ上っています。
この娘は本当、どうしたものでしょうね。いつ落ち着くんでしょうか。
それから今作で初めて授業中の様子が出てきました。
歴史の先生というのは小話が好きというイメージがあるのですが、読者の皆様の教わった先生はいかがでしたでしょうか。
※対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件
1987年12月9日に沖縄本島上空および沖永良部島・徳之島の上空を領空侵犯したソビエト連邦軍Tu-16偵察機に対し、航空自衛隊那覇基地所属のF-4戦闘機が、自衛隊史上初となる実弾警告射撃を行った事案です。
※クラウゼヴィッツが言うところの制高点
カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツは、プロイセン王国の軍人で軍事学者です。
ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した人物です。
『戦争論』の中で戦術論として『制高点』という考えを示しており、これは戦闘時に丘陵地などの高地を先に制した方が優位に立てる、という基本原則を示したものです。
現在では制空権、航空優勢を確保した側が地上戦で優位に立てるという意味で、この原則は生きているとされています。